第3話「夏の果て」

Episode: 03-01 せっかくの夏

 夏休み前に実施された進路希望調査に回答を提出した。


 俺の希望は、進学ではなく就職だ。

 先生には夏休み中にもう一度考えるようにと言われたけど、気持ちは変わらない。

 うちの家計が幸の治療費で圧迫されていることは確かだ。

 予備校に通う余裕もないし、学費をこれ以上出してもらうのも申し訳ない。


 いつまでも甘えるわけにはいかない。

 だから、大学へは行かない。


 高校にすら通えなかった幸を思えば、俺は恵まれているほうだ。

 犠牲になっているなんて思わない。


 夏休みに入って一層バイトに励んだ。

 自分にかかるお金はなるべく自分で始末を付けるようにしたかった。


 それが、俺にできることだ。

 それしか、俺にはできないから。


 母は趣味のピアノをやめて、結婚のときに持ってきたアップライトピアノも売り払ってしまった。幸の入院に付き添って病院近くの賃貸を借りた出費を補うためだった。今でもパートタイムの仕事に入って、毎日朝九時から四時までスーパーでレジ打ちをしている。


 俺が早く自立すれば、相庭家は楽になる。

 母が、もう一度ピアノを弾けるようになればいいなと思う。



 淡い青空が広がっている。

 幸の手から、空へ吸い込まれるように、白い紙飛行機が飛んで行く。

 車椅子に座ったまま、幸はその軌跡を長い間眺めていた。


「ほんとだ。良く飛んだ」


「だろ?」


 紙を折り込んで先端を重くした紙飛行機は、さっき幸が作った平凡なものより長く滑空する。


「小学校で流行ったとき、俺、一番だったからな」


「すごい。さすが」


 病院の屋上は清々しい。

 ベンチがあって、花壇があって、散歩や休憩に最適だけど、夏にわざわざ炎天下に出たがる人は少ないらしい。

 確かに暑い。

 でも、エアコンの効いた病室から出た身体には、むしろ暑さが心地よかった。


 俺としては、真っ白いシーツを沢山干している光景を期待したが、最近は業者に委託しているため、病院で洗濯乾燥を行うことはないのだそうだ。

 代わりに、端のほうに患者が個人的に洗濯したらしいパジャマや肌着が干されていた。


「だろ? っと」


 机や壁がなくても手の中で折れる、作り慣れてしまった紙飛行機を飛ばす。

 右へ蛇行しながら飛距離を伸ばし、ゆっくりと落下していく、紙製の白い機体。

 背後の青空がとても広くて、深くて、途方もない気持ちになった。


「季世、準備できた? 本番やるよ」


「うん」


 最近は三人で集まると、病院で出来る限りの遊びを探した。

 紙飛行機の飛距離競争も、その中で見つけた素朴な娯楽のひとつだった。


「じゃ、用意――」


 幸が声を上げる。本番用の紙飛行機を構えて、空に向き合う。


「スタート!」


 三者三様の形をした飛行機が一斉に飛び立った。

 幸のは早い。

 誰よりも素早く鋭く飛んで、同じくらい早く墜落の形になってしまう。

 俺のはやっぱり、折り癖があるのか右へ蛇行する。

 結局一番一般的な形をした季世の紙飛行機が、地味ながらにマイペースで長い間飛んでいた。


「やった」


 季世が微笑む。その表情の変化は、ごく僅かだ。

 でも、子供じみた喜びの感情を言葉にしたことが、意外に思えて印象に残った。

 ふいに吹いた風が、彼女の長い黒髪を軽やかに舞い上げる。


「ちぇ。一生懸命工夫したのに。伝統の勝利だな」


「長く愛されるには理由があるんだなぁ」


 相庭兄弟の賛辞を受けて、季世は紙飛行機を見つめていた。

 まだ飛んでいる。あんなに遠くまで。見失ってしまいそうだ。


「あぁ、落ちる」


 幸が呟く。

 病院がこのあたりで一番高い建物だから、町の様子がよく見下ろせた。

 紙飛行機はいつの間にか家々の群の中に消えてしまう。

 空はうっすらと赤く色づき始めていた。


「もう夜かぁ。最近、一日がすごく早いや。夏なのにね」


「そう」


 季世が答える。夜のはじまりを探すように、視線を遠くへ投げかける。


「また、花火したいなぁ」


 幸の眼差しは、暮れなずむ空に思い出を映しているみたいだ。


「でもなぁ。俺たち、警戒されてるから、しばらく無理だろ」


 ――あれは、先週のことだ。


 ――一週間前。

 暗くなってから、屋上にこっそり花火を持ち込んだ。


 消火栓のそばで、水の入ったバケツを二つ用意して、幸の車椅子は風上に運ぶ。

 着火装置は蝋燭よりも安全な点火棒を使った。

 幸はマスクを三重にして煙をなるべく吸わないように用心している。

 彼が、企画者であり首謀者だった。

 調達係りの俺は、二千百円の、手持ち花火ばかりのセットを購入した。

 病院から少し行くと、問屋街があり、花火専門の歴史ある小さな小売店が並んでいるのだ。


「花火って意外と高いんだな」


 そうぼやくと、幸は支払ってくれようとしたけれど、それは頑として断った。


「僕、花火って八年ぶりなんだよ。ずっとやってなかった。病院の窓から花火大会の様子が遠くに見えたけど。意外とよく見えて、看護士さんたちまでこっちに来て見物してたよ」


「穴場じゃん」


「でも、近くでやってみたいよ。久しぶりにさ。せっかくの夏なんだから」


 この、せっかくの夏という言葉が曲者だった。


 幸は夏を理由に様々なことを企画し、俺たちに実行させた。


 先週は夏祭りを恋しがる幸のために、駄菓子屋で型抜きを箱買いしてきて三人で型抜き大会になった。あんまり静かだからと様子を見にきた看護士さんが、削りかすが良くないからと禁じてお開きになってしまったが、それが欲求不満の引き金だった。

 大きなスイカを持ち込んだり、カキ氷機を通販で買って(病室まで届けてくれて、驚いた)出来立てのカキ氷を作らせたり、挙句がこの『ひっそり大胆花火大会』だ。

「どれ使う?」


「線香花火は最後だから。まず派手なやつ欲しい」


「季世は? 手持ち花火って、やったことある?」


「ある。でも、すごく久しぶり」


「やるんだ。意外」


「昔、中学校の友達に誘われた」


「それって、どれくらい昔?」


 幸が笑う。

 季世はそれ以上答えないけれど、気分を害した様子はない。

 それぞれ手に持った花火に、火をつけてやる。

 幸は車椅子に引火させないように腕を伸ばして、地面に向かって輝く火花を見つめていた。


「きれい」


 俺も選んだ花火に火をつける。

 俺だって、こんなふうに花火をするのは何年ぶりか分からない。

 独特の火薬のツンとしたにおいに、懐かしさを抱く。

 最後にこうして花火をしたのは、家族で海へ行って、その場で出会った何組かの家族と合流して、初対面の子供たちともすぐに打ち解けて、遊んだ。

 そのとき以来だ。


 あのときは幸もまだ、ただの少しチビな男の子でしかなかった。

 みんなと同じに、三枚重ねのマスクなんかしないで駆け回ってはしゃいでいた。

 今、幸は車椅子にじっと座って、あちこちに飛び散る安っぽい色の火花を、いつくしむように眺めている。


「東京湾の、大きな花火大会とかさ。行こうよ。来年くらいに」


「いいね、その頃には退院できてるだろうし」


 来年だ。

 絶対、来年に決めた。


 ――夏休み前、家族全員で病院へ来るように医者に言われた。


 そこで、幸の今後の説明を受けた。

 今年中に移植が出来なければ、幸の余命はとても短くなってしまうという。

 だけど、移植が成功すれば、退院できるかもしれない。

 だから、よく考えるように。


 残された時間を、家で、家族と過ごすのもひとつの選択だ、と医者は言外に伝えていた。

 よく考えたところで、何が最善か、もう分からない。

 家族のほうが焦って、怯えてしまう中、幸だけが毅然としていた。


『大丈夫だよ』


 幸がそう言うから、相庭家は落ち着きを取り戻すことができる。

 安心して、幸を信じて、待つことができる。


 幸は、後でこっそり笑って言った。


「だって僕は、不死病だもの。きっと大丈夫」


 あんまり笑えない冗談だったから、唇が引きつってしまうと、幸は同じ調子で続けた。


「大丈夫。ドナーも絶対すぐに見つかる。幸って名前は幸運って意味、でしょ?」


 幸が言うと、なんでもそうなるような気がする。


 実際、いつも、そうなってきた。

 言葉には言霊が宿るから、願いは言葉にしなくてはいけない。

 そう幸は言っていた。


 だから、俺もなるべく見習って、先の話、未来の予定や約束を、沢山作るようにした。

 全部叶えられるように。

 幸がその時まで無事に生き延びているように――。


「会場は混むらしいし、場所によってはチケットとか必要みたいだけど、楽しそうじゃん」 


「季世は、行ったことある?」


 季世は首を振る。

 子供向けアニメ番組のイラストがついた花火を持って、ばちばちととびちる小さな火を見ていた。


 季世の顔が薄暗い夜にぱっと白く浮かび上がる。

 落ち着いた振る舞いや眼差しは、確かに彼女を歳相応以上に見せている。

 長い髪が今は束ねられていた。

 これは、引火したら危ないという幸の忠告を受けたからだ。

 白い頼りない首筋が露わになっている。


 幸を振り返ると、彼は手元の花火を見ていなかった。

 物思うような目が、季世を見ていた。

 季世は気付いていない。


 季世の手の先の光が消えて、ふっと、その場に元の夜の暗さが取り戻された。

 なんとなく無言のまま、気まずいような一瞬が過ぎて、それを打ち破るために新たな花火に手を伸ばす。火をつけようとした、そのとき。


 屋上のドアが開いた。


「コラ!」


 その場で俺も季世も、幸も車椅子の上で、一斉に気をつけをした。


「すみませんでした!」


 問い詰められる前に頭を下げる。

 看護士さんにはじっくりと事情聴取をされ、あとでこってり絞られた。



「この前は、最後まで出来なかったじゃない。線香花火、余っちゃった」


「線香花火だけじゃ、寂しいぞ」


「でも、多分、バレないよ。地味だもん」


 こっそり花火をしたあと、幸はやっぱり少し体調を崩したと聞いた。

 はしゃぎすぎて疲れたのか、夜風に身体が冷えたのか、煙が身体に障ったのか。

 花火が幸たっての希望だったことを理解した看護士は、俺たちを咎めはしなかったが、今後は控えるようにと厳しく忠告を下した。


 だというのに、幸はまるで懲りていない。


「今度また、な」


「うん。今日は、もう寝ちゃいたいなぁ。日光浴したし、いい気分だし」


「そうだ、寝ちゃえ。寝る子は育つんだ」


「先に体が大きくなったからって、お兄ちゃんぶってるでしょ」


 いずれ追いつくつもりだという調子で、幸は不敵に笑う。

 俺は幸の背後へ回って車椅子のハンドルを掴む。

 軽い体を乗せて、車椅子はぎこちなく動き出す。


「あ、停めて」


「うん。何?」


「部屋まで歩く。運動」


「そっか。オッケー、がんばれ」


 手術を控えて、体力をつける必要もある。

 幸は機会を見つけては歩くようにしていた。

 まだその程度しか運動はできないけれど、頑張っている。

 車椅子を折り畳んで運ぶのは俺の役目。

 歩く支えになるのは、身長が同じくらいの季世だ。


 季世が肩に手を触れると、幸は彼女を見た。

 一瞬、見つめあう。

 何か親密な空気が生まれて、俺は居た堪れなくなる。

 足元が急に落ち着かなくなって、そわそわしてしまう。


 神妙な雰囲気になったのは一瞬だけで、もう、二人は何気ない会話を交わすだけだ。


 気付かなかったな。


 あの二人はいつからあんなに親しくなっていたんだろう。

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