第2話「不治の病」
Episode: 02-01 幸いの子ども
三歳年上の兄の身長を抜かしたのは、俺が小学校四年生の頃だ。
兄は中学一年で、学年一番のちびだった。
俺はすくすく育ち盛りで、背の順で後ろから数えたほうが早い位置にいた。
弟に身長を抜かされるって、焦っただろうな。
俺はよく食べたし、幸は小食だったので、弟の俺が幸のぶんまで横取りしているのだと誤解されていた。
母は幸に「お兄ちゃんだからって我慢しないで」なんて言っていたっけ。
仕方がないのでおかずの量を増やしても、幸の食べる量は変わらず、余った分をもらったせいで、俺は益々デカくなった。
そんな急成長も中学半ばまでで、身長は一七二センチに落ち着いた。
今じゃ、幸との身長差は二〇センチ近い。頭二つ分も違う。
「ただいま」
明かりのついた家に帰る。
食事の支度をしている温かな匂いを嗅いで、途端にすごく腹が減った。
「おかえり、恵。お兄ちゃんどうだった?」
「調子良さそうだったよ。今日はとくに。顔色もなんかよかったし」
リビングに入ると、珍しく親父も帰っていた。
「恵。おす」
「おっす、早いな、今日は」
リビングのソファでテレビを見ている。
上下をすっかりスウェットに着替えて、早速赤い顔をしていた。
珍しく、仕事が早く終わったのか。
「そうか、幸は調子よかったか」
「うん。いつもに増して元気だったよ」
知り合ったばかりの女の子を連れて行ったから――とは、とても言い出せない。
「お腹空いたでしょ。もうできてるから」
「空いた空いた」
見たところ、豆腐ハンバーグと温野菜が今日のメニューだ。
制服のまま食卓に着く。
「ほら、パパも」
母に言われて、目をテレビに釘付けたまま親父が席に着く。
最近気付いてぎょっとしたけど、親父の頭はやっぱり今日も白髪が多い。
ここ一、二年で、歳のわりにぐっと老けた。
母はすぐに配膳を終えて、三人そろっていただきますを唱えた。
空席ひとつが、やけに寂しい。
幸も今頃、病院でご飯を食べているだろうか。
「おいしい」
「あらそうよかった」
父の呟きを母が軽く流している。
夏だけど熱い味噌汁はやっぱりおいしい。
「本当だって」
「はいはい。はやくお兄ちゃんにも食べてほしいんだけどな」
「もうすぐだって」
すぐ、と言い続けて五ヶ月が過ぎた。
幸の移植手術はまだ準備が整わない。
白血球を増やすために、赤ちゃんの臍の緒から血液を採取するらしいが、それがまた条件が難しくて、なかなかタイミングが合わないらしい。
そもそも採れる量が僅かばかりで、その上ドナーの血液型と一致するかも分からない。少子化の一途を辿る昨今、提供者も希少だ。
考えれば考えるほど、気の遠くなるような条件設定。
幸に有効なものが、いつ現われるのか。
俺たちは祈りながら、ただ待つしかない。
「恵君、学校はどうなの?」
「べつに、普通かなぁ」
やっぱりどうしても幸について話し込んでしまいそうで、不自然に話題が変わってもなるべくそれが続くようにする。その瞬間だけはわざとらしい空気になるけれど、違和感は会話が続けばそのうち消えて行く。
「バイトでこの前褒められた。売り上げよかったって」
「恵、ちょっと話題になってるわよ」
「え、うそ、なんで」
「この辺のスーパーの試食係のひと、若い男の子だって。イケメン風だって。ママ友仲間で評判になってて、私、恥ずかしかったわ~」
「イケメン風なの? イケメンじゃないの? 恥ずかしいの? なんでだよ」
「だってねー、男の子のするバイトっぽくないじゃないの」
「いいじゃん。楽だし」
「おれもやろうかな、それ」
父の呟きを母が軽く流す。なんとなく楽しげな夕食が続く。
でも、視界に空席が入るたびに、胸騒ぎがしてしまう。
いつか決定的にこの一家から一人欠けてしまうのではないか。
そう考えることすら、今頑張って闘病している幸への裏切りに思えて、自己嫌悪する。
幸は、そうは言っても、今の状態はかなり良くなったほうだ。
今度の臍帯血移植さえうまく行けば、退院だってできる。
通院を続け、入退院を繰り返し、ようやく重病らしいと分かって長期入院になったのが四年前。
あの頃は本当にひどかった。
いつ死んでもおかしくないとまで言われて、母は幸に付き添って県外の病院の傍に短期賃貸マンションを借りて暮らしていた。
幸に関する意見の対立もあって、夫婦の仲も冷め切っていた。
辛うじて病気の幸が家族をひとつの形に繋ぎとめているみたいに思えた。
*
三年年前。
真夜中に父に起こされたことがある。
「恵、着替えろ」
父の越えは、寝起きの頭に、レンガで叩かれたみたいに響いた。
咄嗟に、幸が死んだと思った。
のろのろと着替えて父の車に乗り込んで、黙りこくっていた。
仕方ないとか、苦痛が終わってよかったんだとか、諦めの言葉が頭いっぱいに溢れて、何も喋れなかった。
――幸が死んだ。
父はカーナビに登録した病院の住所を引き出して、そのモニターで夜の一時を過ぎていると知った。
静まり返った町に、ちょっと低い排気音が響く。道の中央でにらみ合っていた猫が不満げな鳴き声を上げながら方々へ走り去った。
「幸が危ない」
親父がそれだけ呟いた。
一瞬意味が分からなかったのは、俺がもう幸は死んだものだと思って心の整理を始めていたからだろう。そうしている自分が、心底嫌いになった。
二時間以上かけて東京から群馬の病院へ行く。
途中、ずっと胸の中で「幸は大丈夫」と唱え続けていた。
無言のままの車内で、唾を飲み込むのも憚られて、じっと景色を見つめている。
知らない町へ進んで行く。
幸は大丈夫、幸は大丈夫。
高速に乗ると、景色も単調になってきた。
長距離運送のトラックのほかに走っている車は滅多にない。
ラジオからは、全然興味のない平和なトピックが流れてきて、同じ世界の出来事のように思えなかった。
――幸は絶対、大丈夫。
母はパジャマ姿で病院にいた。
母に会うのも久しぶりだ。
空は薄い藍色になっていて、その時、俺は日の出を見た。
こんなに綺麗な日の出なんだから、きっと幸も大丈夫だ。
そうやって、目に入るもの、聞こえるもの、感じるものの全ての中に、幸が大丈夫だって証拠を見つけて安心したかった。
「幸は」
親父が短く尋ねる。感情を押し殺した声だった。
母は青ざめた顔をしていて、やっぱりダメだったのかと諦めの気持ちが一瞬頭をめぐった。
だけど、
「うん。大丈夫。大丈夫だった」
搾り出した声が答えて、親父が途端に肩から力を抜いた。
昨晩のうちに容態が急変して、緊急治療室へ入っていた幸は、一度は心停止にまで陥ったものの、なんとか一命を取り留めたという。
後から何度も、医者や看護士に「奇跡だ」と繰り返されるほど、状態は紙一重だったのだ。
仮眠を取って、まだ眠っている幸の顔を見てから家へ帰った。
久しぶりに見た兄は、記憶の中の姿と全然変わってしまっていて、衝撃的だった。ドラマやドキュメンタリーで見るような、それよりも深刻な、闘病する少年の姿がそこにあった。
埃がたまるから身体によくないと、クラスメイトから送られた千羽鶴にはビニールが掛かっていて、それが強く心に残っている。
帰りの車の中で、親父が呟いた言葉が印象的だった。
「良い名前をつけて、よかった。幸の名前は、幸運のことだな」
自分の名前から一字とった安直な名づけだったはずなのに父は自慢げに言う。
その幸運の一夜から、幸の病状は少しずつ良くなっていった。
後の骨髄移植が安定して、次の臍帯血移植で退院できると言われるほどには、回復した。
同じ町の病院に戻って、母も家に帰って来た。
頻繁に会えるようになってやっぱり嬉しい。
少し前まではバラバラに思えた家族が、あの一件で絆が強固になったような、そんな気がしている。
早くこの食卓から空席がなくなりますように。
そうすれば、このぎこちなさも一緒に消えてなくなるだろうから。
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