Episode: 01-03 再会

 翌日、病室を訪ねると、幸はタブレットPCの画面を眺めていた。

 あれは、去年の誕生日に父がプレゼントしたものだ。

 これで読書するなり音楽を聴くなり、勉強だって、なんでもできるからと贈られたものだ。


「幸。調子どう?」


「恵君。おつかれさま。気分いいよ」


「何見てるの?」


「オーストラリアの地図。今日読んだ本に出てきたんだ」


 タブレットPCは便利な地図帳としてもっぱら活躍しているらしい。

 馴染みのない地名が出てくると、必ず地図で確認するのだそうだ。

 今もディスプレイには航空写真が表示されている。

 元々父親は、幸が古本ばっかり読む癖をやめさせようとしたのだ。

 古本は誰が触ったかも分からない、なにが付着しているかも定かでない。

 不潔だし、埃っぽいし、当然病気に悪いと考えられる。


「やっぱり、それで本は読まないんだ?」


「うん」


 タブレットPCをサイドテーブルへ置く。

 変わりに、読みさしの本を手に取った。

 色あせて、染みだらけで、古本屋で百円の価格のところ「汚いから」と店主が半額にしてくれた本だ。


「古本、好きなんだ。想像するの、楽しくて」


「想像は、古本じゃないとできないか?」


 幸は軽く首を横に振って、色あせた表紙を撫でる。


「前はどんな人が読んだんだろう、どうして古本屋に売っちゃったんだろう。その人は、この本を読んでなにを感じたんだろう。開き癖がついているページの、どこに注目していたんだろう。それは何故だろう……」


 そんなこと、俺は考えたこともない。

 幸の頭の中はどうなってるんだろうな、と呆れるような、感心するような。


「あとね、時々レシートとか、切符とかが挟まっているんだよ。買い物のメモとかもね」


「あー」


 身に覚えがある。

 俺も、よくしおり代わりに挟んでそのままにしてしまう。


「それでね、この人は長い旅をしたんだなとか、これを買ったのは何故かなとか、そういうことを考える。それも充分、僕には楽しいことだから。これは、人の手から手へ渡らないと起こらない出会いだから。それが好きなんだ」


「へぇ」


 俺はとても同じようには楽しめそうにない。

 多分、ただのゴミだと思って捨ててしまう。


「推理小説だと、時々犯人の名前を囲ってあったりするけどね」


「うわ、最悪だな」


「それはそれで、楽しい出会いだなって思う。それが犯人の名前に見せかけて、全然関係ないときもある。そんなときは余計に面白くなっちゃう」


「なんだそれ。ひねくれた持ち主だったんだなー」


「意地悪とは限らないよ。推理しながら読んでいたのかも。お気に入りの登場人物だったのかも。他の理由で、しるしをつけたのかも。なんでかな、って考えるのも楽しいよ」


 幸みたいに何にでも価値を見出せることができたら、人生ってもうちょっと楽しいかもしれない、と羨ましくなる。


「でも、古本はさすがに無菌室にまでは持っていけないから、父さんからの贈り物には感謝してるよ。こんなに便利な地図のおかげで地理には詳しくなったし」


「もっと活用してやれって。そんなハイテクな機械、うちで使ってるの幸だけなんだから」


「あはは、そっか。わかった、努力するよ」


「うん。それで、あとでみんなに使い方教えて」


「はいはい、それが本当の目的なんだね」


 笑いあう。こうしていると、ここが病室だなんて忘れて、家の居間で過ごす時間と変わらない。幸に勧められてせんべいをもらった。お茶を給湯室から運んできて、一息ついた。


「ところでさ、昨日あったことなんだけど」


 ずっと話すタイミングをうかがっていた。

 だって、きっと幸は驚くと思ったから。

 この前の女の子と再会した、なんて言ったら――。

 

 幸は、楽しそうに目をみはって、俺の話を聞いていた。


「嘘みたい。それって何かの縁だよ。面白いなぁ」


「嘘でしたー、とか言うかもよ、俺」


「それこそ嘘だね、作文の宿題はいつも僕が片付けていたんだから。結果として、恵君にはお話を作る能力は芽生えなかったもん」


「うーん、確かに……って、ひどい言い草だな」


 幸は、わざと意地悪く笑う。


「つまり、信用してるってことを伝えたかったんだ。ねえ、それでどうしたの?」


「うん。それでって、とくに、べつに……。また会うって言ったわけじゃないし、まあタイミングがよければまた会えるんじゃね? この辺に住んでるみたいだし、滝野原西中の生徒っぽいし」


「僕、会ってみたいな」


 幸は勢い込んで言う。


「会ってどうするんだよ。説教とか、やめてよ」


「そうじゃなくて、話してみたい。その子の話を聞いてみたい。だって、ほんとうに不死だったら大変だ、実年齢は五百歳とかかも。そしたら、歴史のいろんなことを知っているかもしれないんだよ」


「あのさあ……」


 呆れて、もう何も言えない。


「不死の存在を信じるかなんて、まだなんとも言えないよ。でも、彼女のそれが嘘でも本当でも、話をするのは楽しそうだもの」


「そうかなぁ?」


 こんなに興味を惹くとは思わず、当事者なのに置いてきぼりの気分だ。

 幸がこんなにはっきり自分の希望を口にするなんて珍しい。

 いつも控えめで、自分の意見や望みは後回しにするような性格なのに。

 だから、できる限り、その希望に添いたいと思った。


「もし、次また会えたらな」


 そうは思っても、そんなにうまく事が運ぶはずがない。

 お互いに知っているのは名前だけで、連絡先の交換もしなかったのに。

 もし、毎日あの猫の墓へ通ってじっと張り込んでいれば、そのうち会えるかもしれない。でも、現実としてそこまで時間は割けない。俺にはバイトも学校もあるし、こうして幸を見舞いにだって来るのだから。


 多分、幸はそれを分かった上で、頷いた。


「大丈夫、きっと会えるよ」


 無根拠な自信をもって、そう言った。



 ――幸が言うと、なんでもそうなるような気がする。

 また、あの子に会える気がする。


 一応毎日、猫の墓を訪ねた。

 季世の存在の痕跡のように、お供え物だけが残っていて、彼女本人とはついに会えずじまいだ。第一、もし会ったら何と誘えばいいのだろう。自分から女の子を誘ったことなんて、そういえば一度もなかった。


 それに、これはあまり嬉しい誘いじゃない。

 病院に一緒に来てほしい、なんて――

 まったく見ず知らずの他人を見舞って欲しいなんて。

 いきなりそんな頼みごとをするのは、正直な気持ちとしては抵抗がある。

 でも、幸がそれを喜ぶなら、俺はできる限り協力したい。

 そのほかに、俺に出来ることなんてないのだから。



 結局、季世には会えないまま週末になった。

 月に何度か、バイトに行く。

 誰に言われたわけでもないけど、自分の小遣い程度は自分で稼ぐように、去年から始めたことだ。気を使うなと、家計を心配するなと父は言う。けど、幸の治療費やそれに関わる諸々の出費で、相庭家の財政は厳しいのも事実だ。

 焼け石に水かもしれないけど、俺ができることは本当に少ないから。

 せめて食費や幸の本や、それくらいの資金の助けはしたい。


「いらっしゃいませー、どうぞご試食ください」


 隣町、巣篭市のスーパー・トクトミは賑わっていて、地元のスーパーよりも反応が多い。

 大手メーカーの新商品のソーセージを卓上で切って、小さなホットプレートで焼いて、来客に勧める。これが俺のバイト内容。俗にマネキンと呼ばれる、販売促進のために試食を勧める仕事だ。


「どうぞお試しください! 関東ハムの新製品、ジャーマンソーセージ、お酒に良く会うピリっと辛いマスタードと、お子様ともお楽しみいただけるマイルド、一袋でふたつの味が楽しめます」


 ソーセージをプレート上で転がしながら、幼い子供が素手や顔をプレートに触れないように気をつける。子供が興味を持てば、それを建前に親も手を出しやすくなる。

「おう、食べる? 今焼けたよ」


 まだ幼稚園児くらいの男の子が興味津々の目で見上げてくる。

 手を繋いでいるのはお母さんだろうか、今は別の商品に注目している。

 子供に勝手に食べさせるのはまずい。

 アレルギーに気を使わなくちゃいけないからだ。


「お姉さん、お姉さん! どうですか、ソーセージ、ご一緒に!」


「あはは、お姉さんだって。どうも、いただきます」


 呼びかけに気づいたお母さんが嬉しそうに破顔して、試食をしてくれる。

 そこですかさず詳しい商品の説明、今までに比べて価格がお得なことや、旦那さんのおつまみにも最適だしマチ袋だから保存状態も良いとか何とか、マニュアルにあった文句を所々強調して伝える。ついでに、子供には二個三個と食べさせる。

 すると、お母さんは製品を買い物かごに入れた。


「いただくわ」


 よし。

 いや、たくさん買わせたところで俺の給料には関係ないけど。


 この仕事でオイシイのは、派遣会社が絶対に穴を開けまいとして、人の集まらない日や欠員が出た日に高い給金で募集をかけることだ。実施日の前夜二時に募集するなんてめちゃくちゃもあって、でもその分給料はそこらの時給制じゃありえないくらい良くなる。


 そうでなくても、派遣型だから自分が気ままにシフトがとりやすいのと、やっぱりそこそこ日給がいいので、重宝している。

 それに若い男子の働き手は珍しいから、客もよく寄って来る。

 お婆さんや奥さん方、女子高校生なんかだ。

 今日は休日だから、子連れや老夫婦が多かった。

 でも、もうそろそろ七時、客足が落ち着く頃だ。

 今日の仕事も終わる。中腰でソーセージを焼く労働から解放される。

 一足早く気が抜けて、腰を伸ばしてぐきぐき鳴らす。ふぅ、と肩を落としてマスクを付け直して、最後のひと頑張りだと新しいパッケージを開く。


 そのとき視界に、鮮明に印象を残したのは、今日は珍しい若い客だなと思ったからだけではないと思う。整った黒い長い髪。いまどき珍しいその古風なヘアスタイルに見覚えがあった。


 この偶然を逃したくない思いで持ち場を離れて、開けかけのパッケージを持ったまま彼女に近寄る。

 気配に気付いて、怪訝そうに振り返った彼女が、驚いて目を見開く。


 やっぱりそうだ、中原季世だ。


 制服を着ていないから、自信がなかった。

 だって私服姿の彼女の年齢が一目で分からなかったから。

 年下には思えないような、落ち着きのある佇まいというのか。

 こんなに目の前に来るまで分からなかった。

 季世は無表情のまま、少し仰け反って、物問いたげにこちらを見上げた。

 自分がどんな振る舞いをしたのか、客観的になって、焦って、


「あ、あの。ソーセージ、いりませんか」


 咄嗟に未調理の袋を差し出した。

 季世は、小さく首を横に振った。



 いやいやそー言わずにお客さん、これがすごいんですって見てって。

 ほらほら今焼きますからね焼きたて食べてって。ほら、よってらっしゃいみてらっしゃい、今から焼きますよ関東ハム! のソーセージ! 新作新作! おいしいよ!


 やけくそで声を張り上げて、無理やり焼きたての一番を季世に食べさせて、一体何がきっかけだったのかそこから客が集まり出す。結局規定の時間まで忙しくソーセージを焼き続けた。

 ついでに、慌てたせいで指をあちこちホットプレートに当ててしまって小さな火傷がいくつもできた。

 けど、おかげで今日はよく売れたと店長に褒められたし、まあ良いか。


 じゃなくて――


 バックヤードから出た、スーパーの駐車場の端に、中原季世が立っていた。

 待っていてほしい、と伝えたのだ。

 それをちゃんと聞き届けてくれたらしい。


「季世。待っててくれて、ありがとう」


「えっと」


「相庭だって。この前、川で会った」


「うん。そうだった。相庭君」


 正直少し落ち込んだ。

 あまり印象がなかったのかな、と自信がなくなる。

 べつに、自分に大層な自信があるわけじゃないけれど、俺にとってはかなり珍しい出来事だったから。


「何? 用事」


「あ、これ。さっきのお詫び。と、待ってもらったお礼」


 関東ハムのソーセージが入った袋を差し出す。


「ありがとう」


 受け取る季世は、嬉しそうでも迷惑そうでもない。

 感情表現がとても平坦で、こちらの言葉が伝わっているのか不安になる。


「あと――頼みごとがあるんだけど」


「うん。何?」


「あのさ。俺、兄がいるんだけど。ずっと病気で、入院しているんだ。……季世の家って、この辺なの? 巣篭市?」


 そう、と頷いた。

 さっきは歳のわりに大人っぽく見えたけど、今こうして見るとやっぱり歳相応の中学生に見える。


「その、俺の兄、幸っていうんだけど、大学病院に入院しているんだ」


 それで、というように首を傾げた。


「季世の話をしたら、会ってみたいって。幸が。もし、ほかに用事がなければでいいんだけど、そのうち見舞いにきてやってくれない?」


 心の中で先回りして「そっかそうだよね無理言ってごめん、じゃあねお疲れ」なんて言う準備をしていた。だから、


「うん」


「……えっ」


 聞き逃してしまいそうなほどさらりとそう言われて、なんと返せばいいかわからなかった。


「お見舞い、行く」


「あ――ありがとう。え、いいの? だって、知らないひとの見舞いなのに。ごめんね、変な頼みごとして。ええっと、じゃあ、どうしよう」


 しばらくもたもた持ち物を探って、その場でレシートの裏にメールアドレスを書いた。もしかしたらこの子は携帯電話とかを持っていないかもしれない、と一瞬考えたけれど、彼女は受け取って「メールする」と言ってくれた。


 それでも、ようやく安心できたのは、翌日になってメールを受け取ってからだ。

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