Episode: 01-01 台風一過

 台風一過の夕刻で、昼までは前日の大荒れの天気なんて忘れてしまったような快晴だった。夕方になるにつれ雲が増えてきた。空には多少の雲が浮かんでいたほうがいいと思う。表情がついて、眺めていて楽しい。

 だから、少し危ないけど慣れた道だし、空を眺めながらゆっくり自転車を漕いでいた。

 今日はこれから、入院中の兄を見舞いに行く。

 一週間のうち、三日は放課後をそうして過ごしている。

 この大きな橋を渡ると、大学病院がすぐに目に入る。

 もう、今この地点からも見える、あの建物が目的地。

 籠に突っ込んだ鞄がいつもより重たいせいで、バランスを狂わせながらふらふらと自転車を転がして行く。

 金曜日の放課後は妙に気だるい。一週間分の疲れがどっと体に降りかかって、空が綺麗なせいで余計に無気力になる。ほとんど半分眠っているようなものだ。ぼんやりと、間抜けに口をあけて空をあおぎながら、俺は一度はその光景を見逃した。


 通り過ぎてから、ふと振り返る。


 この橋は二車線ある大きな橋で、その下には、隣県を上流とする太めの川が流れている。昨日までの台風のあおりを受けて、面白いほどに勢いよく流れる水は泥色で、上流から色んなものを運んでいる。発泡スチロールやダンボール、サッカーボールやペットボトル、様々なゴミが流れて行く。

 その流れを、女の子が、防護柵の向こうに立って見下ろしていた。

 穏やかな風に、墨色の長い髪が揺れると、真剣な面持ちが覗く。

 深い紺色の制服は見慣れたものだ。

 俺も二年前まで通っていた、公立中学の、母校の制服だ。


「あ……危ないよ」


 気後れを押しやって、声をかけた。

 女の子の体は細い腕一本だけで防護柵と繋がっている。

 それを離せば、風にあおられただけで濁った川へ落下してしまう。


「危ないよ」


 聞こえなかったのだろうか、身動きひとつしない少女へもう一度呼びかける。

 自転車の向きを変え、もっと近くへ向かった。


「川、増水してるでしょ。そんなところに立ってたら落ちちゃうよ」


 当たり前のことを言っている自分が、妙に間抜けに思える。

 けど、他にどう忠告できるだろう。

 それが危ないことだって、そんなの誰にでもわかるはずだ。

 女の子は膝をかがめて身を低くした。

 まるで、今から飛び込もうとするような姿勢だ。ぐっと膝に力が入ったのを見て、血の気が引いた。そう実感するより先に動いた体が、自転車を乗り捨て、柵越しに彼女の体を抱きしめていた。

 女子中学生の細く頼りない体と、健康な男子高校生の体が柵越しにぶつかって、鈍い音を立てる。肋骨や顎がまともに柵に当たって、涙が出るほど痛かった。

 痛ぇ、と情けなくぼやく。

 どうやら、しかし、危機はさったらしい。

 間一髪、落下をまぬがれた少女が両手でしっかりと柵に捕まって、水面を見つめている。その横顔に、風にあおられた長い髪がばたばたとぶつかっていた。


「大丈夫? 上がってこられる?」


 彼女は頷きもせず、無言で柵をよじ登る。

 スカートが危うく風にイタズラされかけても表情を変えない。

 ようやく柵を越えた様子に、俺は心底ほっとして、一気に脱力して座り込んだ。

 ひどい疲労感に襲われて、どばどばと乳酸が出ている気がする。アドレナリンかもしれない。今更心臓が早鐘を打って、ぶつけた場所がじんじんと痛み出した。


 よかった。助かってよかった。


「はぁあ~~っ」


 重たいため息を吐き出す。


「きみねー、何のつもりか知らないけどねー、危ないことしちゃだめでしょ。今日みたいな川に飛び込んだら、絶対、確実に、死ぬよ」


 そんなの、小学一年生でも分かる。

 だけど中学生らしい女の子は顔色をかえずに、まだ水面のほうを見つめていた。

 もう一度小さく嘆息する。まだ立ち上がる気力が沸かない。


 ふいに、思い当たる。

 もしかして死のうとしていたのだろうか。


 むずかしい年頃だし、何を思い悩んでいても不思議はない。

 その考えにぞっと胸が冷えた。こわごわと見上げると、彼女と目が合った。


「……死なないよ」

「死ぬ、死にます。絶対。賭けてもいいし。こんなに増水した、台風のあとの、流れが超速い川に飛び込んだら、オリンピックで金メダルの水泳選手でも無理」


 本当に死なないと思っているなら呆れたものだ。

 勢い込んだ俺の言葉にちっとも反応を示さず、まだ水面を見つめている。

 最近の中学生なんかは、ゲームや漫画の影響で、人間は死なないと勘違いしていることも多いのだと考えるのはさすがに馬鹿にしすぎだと思っていた。

 まさかと思って鼻で笑っていたけれど、そのまさかなのだろうか。


「猫」


「え?」


 出し抜けに少女が呟く。

 風にあおられる髪を手で押さえて耳にかける仕草が、へんに貫禄を感じさせて、一瞬、年下の女の子には見えなかった。


「猫が流されてた。箱に入れられて。仔猫。捨てられたの、きっと」


 平坦な声だった。

 お前の誤解はお見通しだという眼差しで、一度だけ俺を見た。


「だからって、でも……」


 それが本当の話なら、確かに酷いと思う。


「でも、無理だよ。助けられないよ。こんな日だし……残念だけど」


 これは至って正論だ。

 でも、自分が冷たい人間になった気がして、居心地が悪かった。

 いい加減立ち上がって、放り出した自転車を起こす。


「命は、大事にしなきゃ」


 言ってから、慌てて付け足した。


「……自分の命を、まず。川に飛び込んだりしたら駄目だよ。もうしないね?」


 女の子が頷くのを待つ。彼女は曖昧に首を動かした。

 それが肯定か否定かはっきりしないけど、いいように解釈する。

 俺には用事があったんだ。

 はやく病院へ行かなければ、兄を待ちぼうけさせてしまう。


「じゃあね。気をつけて」


 結局、女の子が挨拶を返すことはなかった。

 妙にすっきりしない心地で自転車に乗る。



 町に出て、交差点で、信号待ちに引っかかる。

 さっきの女の子のことで、胸の中がざわざわした。

 余計なお世話だと拒否されたような。

 いや、恩に着せたいわけじゃないけど。


 ――今みたいな出来事は、些細な珍事件としてしばらく話の種に利用してやろう。


 そのうち忘れてしまえばいいんだ。

 こんなことをいつまでも気にすることはない。

 どうせ、もう会うことはないのだから。


 病院の駐輪場に自転車を停めて、エレベーターで十階を目指す。

 この病棟の最上階だ。

 一階ロビーの賑わいから、雰囲気ががらりと変わり、静かで冷たい印象を受ける。

 強い消毒液のにおいと、何か染み付いた薬品の香りが満ちていた。

 長く入院する患者が多い階だからか、どの部屋も妙に生活感というのか、それぞれの患者に馴染んだような空気を持っている。

 突き当たりの病室を覗き込む。


「こんばんは」


 六人部屋のベッドは二つしか埋まっていない。

 一番手前のベッドを使うお爺さんを、女性が見舞いに来ている様子がカーテン越しに見えた。年老いていて、娘か奥さんなのかよくわからない。

 それを横目に、一番奥の半開きになったカーテンをくぐった。


「幸。遅くなってごめん」


「恵君」


 俺の兄、相庭幸が、ベッドの上でゆっくり半身を起こす。

 痩せた小さな身体が、ベッドを持て余していた。

 まだ少年に見える風貌と体格だけれど、彼は今年で二十歳になる。

 俺と二人で並んでいるところを見ても、誰も俺のほうが弟とは思わないだろう。


「寝てた?」

「ううん。待ってた」


 幸は細い指でカーディガンの前をかきあわせる。

 赤いロゴのついたニットキャップを被りなおす。一瞬、内側に見えた綺麗に髪が剃り落とされた頭部を見ると、いつも構えてしまう。

 今は、幸の顔や腕に管が繋がっていない。

 少しほっとして、来客用の椅子に腰掛けた。管を通した、いかにも病人という痛々しい姿を見るのは、何年経ってもやっぱり苦手だ。


「ごめんな、途中ちょっとアクシデントがあって」


「アクシデント? 事故とか? 大丈夫?」


「まあ、大したことないよ。はい、これ、頼まれてた本。これで全部?」


「あ、うん。ありがとう」


 サイドテーブルに積まれた七冊の文庫本を回収し、軽くなった鞄に詰め込む。

 今日持ってきた分を、また七冊積み上げる。

 幸はこれを二週間で読んでしまうのだ。


「調子どう?」


「良いよ。最近は元気。食事も摂れるし」


「そう。良かった」


「それより、恵君、顎。すりむいてる。転んだ?」


「え?」


 咄嗟に手を触れると、確かにすりむいていた。窓ガラスに姿を映す。


「ほんとだ。どうりでずっと痛むわけだ」


 あまり大きな傷ではないが、確かめた途端痛みが具体的なものになった気がした。


「消毒しようか? 看護士さん、呼ぶ?」


 幸は眉をひそめて問う。

 この程度の傷に大げさに気遣われてしまった。


「平気平気、こんなの」


「アクシデントって、それ?」


「ん、まあ。ちょっと、ぶつけて」


「どうしたの?」


 幸が心配そうに顔を曇らせる。

 言葉を濁して余計に心配させるより、笑い話にしてしまったほうが自分としても気が楽になる。


「うん、それが遅れた理由なんだけど。さっき、橋の上で女の子に会ったんだ」


 それがどういう出会いで、どんな結末になったのか。

 普段退屈しているだろう幸に、事細かに語って聞かせた。

 彼は律儀に頷いて、適当なところで先を促すような相槌をくれるから、話しているほうも気持ちよく喋ることができる。幸は聞き上手だ。


「じゃあ、恵君は女の子を助けてきたんだ。すごいよ」


「助けたって、爽快感みたいなのは全然ないよ。向こうからは邪魔者みたいな目で見られたし」


「でも、絶対に良い事だよ。もしその子が死ぬ気だったとしても、それを見過ごすなんて絶対にだめだ。恵君がしたことは、間違いなく良い事だよ」


 力強く、大げさなほどに幸が肯定する。

 言葉は強いが、声の調子は終始穏やかで落ち着いている。

 それだけに、妙な説得力を感じて、俺のほうもそんな気がしてきた。

 さっきまでの気分の悪さも少しずつ和らいでいく。


「仮に本当に仔猫を救うつもりだとしたら、その気持ちは立派だけど……でも向こう見ずだよ。その子が死んでしまったら、悲しむ人だって沢山いるだろうし。他の方法を探すべきだったんだ」


「危ないことするよな。本当にびっくりした」


「結果的に命を粗末にするようなこと、褒められるようなものじゃない。恵君が通りがからなかったらと思うとぞっとするね」


 自分のことのように憤る幸に、すっかり毒気を抜かれた。

 幸は小さな手のひらを固く握って、強い眼差しで俺を見上げる。


「ちょっと興奮しすぎだよ、落ち着けって」


「いいや、いくら中学生でも許せない。しかも怪我してまで助けたのに御礼もなしでしょ」


「いいんだよ御礼なんか。こっちが勝手にしたことだし」


「でも……、心配だな。また同じことしないといいけど」


「それは、本当に」


 幸の表情が深刻そうに沈む。

 見ず知らずの女の子をここまで心配できる人は、中々居ないだろう。

 俺は、兄のこういうところが好きだ。

 命の尊さをよく知っている。彼自身が重い病気に苦しみ続けているからこそ、人生とはあたりまえに続くものではないと理解している。

 俺だって、理屈ではわかる。

 でも、幸ほど実感を持っているかと問われると、自信はない。

 今までだったら関わり合いになんかならなかったはずの、見知らぬ女の子のことが気になったのは、多分兄の姿が念頭にあったからだ。


「死なない、なんて。そういうの、漫画とかで流行ってるのかな」


「さあ、どうだろう。本気で信じているのだとしたらとても危険なことだよね」


 幸の表情が愁いに沈む。

 他人のことで胸を痛める、兄はとても優しい人間だ。同じ兄弟なのに、気質が全然似てないことは、弟である俺が一番よく分かっている。


「いっそ、この子をここに連れてきてほしいくらいだよ。僕が説教する」


 ちょっとおどけて、幸は言った。


「説教とか、やめとけって。まったく知らない子だし、もう会えないよ」


「そうだとは思うけど、なんだか収まりがつかないよ」


 幸は病気の体のことを差し引けば、情熱的で生命力に溢れている。

 いや、生命欲と言うべきか。

 誰に対して接するにも真剣だし、物事を誤魔化したり中途半端にしておくことを良しとしない頑固な性質を持つ。そういうところは、母親に似ているのかもしれない。俺は自分に厳しくできない性格だし、他人に対してもどこかで適度に区切りをつけてしまうような、いい加減な性格だ。


「あんまり頭に血を上らせると、検査の結果に影響するぞ。もう、俺のことはいいから」


「うん。でも、恵君は本当に立派なことをしたよ。僕は誇らしいよ」


「でも、幸だってその場にいたら同じことをしただろ?」


「勿論」


 そう言うと思った。

 ずっと幸の姿を見て育ったからこそ、俺もそうしたんだと思う。


 幸から再来週までに買い集める本のリストを貰って、この日は病室を後にした。

 帰る頃には、病院へ来る前までに抱いていた気分の悪さはすっかり晴れて、むしろすがすがしい気持ちに変わっていた。

 そうだ、俺は何も間違ったことをしたわけじゃない。

 あの女の子の非難するような目も、もう気にならない。

 幸は人の気分良くするコツを心得ているのだろうか。

 いや、そうじゃない。きっと彼がまっすぐで気持ちの良い人間だから、話しているうちにこっちまで良い気分になるんだろう。

 お互いの負担を考えて、見舞いに行くのは週に二、三度にしているけれど、やっぱり離れて暮らすのは少し寂しい。今までもっと遠くの病院に居たことを考えれば、これでもまだマシと言えるのだけれど――。


 早くまた家族全員で、一緒に暮らしたいと思う。

 当たり前のことだけれど、それは、相庭家全員の総意だ。

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