第26話 Thank you for your everything !
(それにしても奇妙な夢だった)
朝食を眉間に皺を寄せて口に運ぶ。
日曜日だが、香夏子の実家は休日ではない。工場は休みなので従業員は不在だが、クリーニング店の店舗はほぼ無休だ。そのせいで香夏子は家族旅行の経験が数えるほどしかない。学生時代は他の家庭を羨ましく思ったが、隣の聖夜の家も土日は営業日だったから、それほど惨めに感じることはなかった。
今日も七時には家族全員が食卓を囲んでいる。
難しい顔をした香夏子の頭の中は昨晩の夢のことでいっぱいだった。
(一番変だと思うのは、最後に見た聖夜がなぜか今の聖夜で、しかも私を見て笑っていた……)
夢の中では中学生だったはずなのに、その場面だけ取ってつけたように聖夜は大人で、やけにはっきりと彼の表情が見えたのだ。
勿論、夢の中の話だから辻褄が合わないのも当然だ。そんなことをいちいち考えるだけ無駄だとは思う。それでも香夏子はそのことばかりを考えていた。
昔の人は夢に出てきた人が自分のことを懸想しているのだと思っていたらしいが、香夏子は現代に生きる人間なのでそこまで楽天的には考えられない。どう考えても夢は自分の脳が作り出したものだ。
(それにしてもどうして笑う?)
結局、自分は夢にかこつけて聖夜のことを考えたいのだと香夏子は思った。
「香夏子、パソコンの講師やるんだって?」
甥と姪が食べている途中で席を離れ、急にブロック遊びを始めてしまった。その隙に兄が香夏子に声を掛けてくる。
「うん。そういうことになったみたい」
「他人に教えるくらいなら、まず自分の母親に教えてやれよ。ウチの帳簿、まだ手書きだぞ」
香夏子は喉を詰まらせて慌ててマグカップに手を伸ばした。
「会計ソフト、入れたでしょ?」
「使い方を覚えるより手で書いたほうが早いんだもの」
シレッと母が答える。香夏子は唖然とした。
「使い方を覚えたらものすごく簡単なんだよ。伝票を一度打ち込めば、帳簿全部に転記してくれるし、計算だって……」
「わかってるって。でも私は今までのやり方が慣れていて早いの。茜さんに引き継ぐときに変えればいいでしょ」
母はご意見無用とばかりに言いたいことを言うと、勢いよく立ち上がり空いた食器を手にくるりと背を向けた。すると今まで新聞を読み耽っていた父が新聞を膝の上に置き姿勢を正した。
「みんなに話がある」
改まった口調だったので、一度背を向けた母も何ごとかと振り返った。家族全員の注目を集めた父は腕を組んで小さく咳払いをする。
「実は店舗を増やそうかと思う」
誰も口を開かず、食卓には視線だけが飛び交った。次第に母と兄は険しい顔でうつむいてしまう。仕方なく香夏子が父に向き合った。
「こんなときに?」
「こんなときだからなおさら、だな」
父は毅然とした態度で言い切った。意図がよくわからず香夏子は僅かに首を傾げる。
「増やすって、どうやって?」
「スーパーで取次店をやっていた人がもう歳で継ぐ人もいないから辞めるんだそうだ。その抜けたところに入らないかと誘われた」
なんと返事をしたらよいのかわからず口を噤んでしまった。
兄が詳細をたずねると父は要点だけを短く説明する。どうやらその取次店は市内に数店舗を展開しているスーパーのすべてに入店していて、それをそっくり引き継ぐ形になるらしい。
悪い話ではないと思うが、部外者も同然の香夏子は意見を言える立場ではない。息を潜めて母と兄の様子を窺うが、二人ともしばらく黙ったままだった。
そのうち父は時計を見て席を立った。父の話は賛成も反対もされず、宙に浮いたまま家族の顔を暗くした。
香夏子は気まずい雰囲気の中、黙々と朝食を終わらせることに専念した。
履歴書の空欄を埋めるために、店の事務所として使用している部屋のドアを開けると、兄がファイル棚の前で帳簿を睨んでいた。
「お兄ちゃん、パソコン使ってもいい?」
「おう」
険しい表情を瞬時に引っ込めて兄は顎で一台のパソコンを指し示した。これを使えということか、と香夏子は了解してその前に座る。
「香夏子、なんで会社辞めた?」
パソコンの電源を入れて立ち上がるのを待っていると、兄がそう訊いてきた。
「いろいろあって」
説明するのが面倒だったので曖昧に答える。兄も「ふーん」とそれ以上突っ込んではこなかった。
「これからどうするんだよ」
しばらくして思い出したように兄が言った。まだ会話が続いていたことに少し驚きながら、香夏子はパソコンの画面から目を上げる。兄が心配そうな目でこちらを見ていた。
「どうって……今は秀司のところで秘書をしてるよ」
「それは一時的なものだろ」
「まぁ、そうかも」
「まさか、そのまま永久就職するとか言うんじゃないだろうな?」
「はぁ!?」
香夏子はわざとらしい大きな声を上げた。さすがに兄もからかうような笑みを浮かべる。
「それとも本命はアイツのほうか?」
「お兄ちゃんっ!」
急速に顔が紅く染まるのを自覚しながら香夏子は兄を睨みつけた。それを意に介せず兄は穏やかな表情で続ける。
「香夏子も早く結婚して子ども産まないと、妊娠・出産・子育ては相当辛そうだぞ。実際、茜はもう体力の限界だ。この家も狭いし、同居をやめてどこかに自分たちの家を建てようかと思ってる」
自然と感嘆の声が漏れた。
「お兄ちゃん、いいね! それがいいよ!」
言いながら香夏子は「こんなときだからなおさら」という父の言葉の意味をようやく理解した。にわかに興奮した香夏子に兄は照れくさそうな笑顔を見せる。それからファイル棚に寄りかかって「香夏子」と神妙な声を出した。
「何?」
「こっちに戻って来ないか?」
「え……?」
全然予想しないわけではなかったが、それを改めて言葉にして言われると、香夏子の心にズシリと重くのしかかってくる。簡単に返事はできない。香夏子はうつむいてキーボードを見つめた。
「父さんも母さんも口には出さないけど、香夏子のことを心配してる。勿論、俺も」
「でも、そんなこと言われたことなかったし……」
今まで実家に戻るという選択肢は意識的に排除してきたのだ。一度社会人として自立したはずの自分が実家に戻るのは敗北のような気がして、それだけは何とか回避しなくてはいけないと強く思う。
「まぁ、香夏子の人生だからな」
兄は背を向けてファイル棚から別の帳簿を引っ張り出す。
(そうだよ。私の人生だもん)
パソコンの画面に目を戻したものの、頭の中では全く別のことを考えていた。兄が香夏子の心の中にポトリと落としていった言葉は、香夏子の内部に次々と波紋を揺り起こし、どこまでも静かに広がり続け、いつまでもおさまる気配が感じられなかった。
実家での一日は慌しく過ぎ去る。
すっかり一人暮らしに馴染んでしまった香夏子には、自由気ままに過ごせないのが多少窮屈に感じるが、それよりも家族との賑やかな生活を楽しく思う気持ちのほうが大きく、そういう自分を香夏子自身が新鮮に感じていた。
(案外、こういう生活もいいかもしれない)
だがこれは実家での生活のよい部分の上澄みだけをさらっただけで、本格的にここへ腰を落ち着けてしまえばきっと予想もしなかったような様々な問題が浮かび上がってくるに違いない。
歩きながら香夏子はふうっと大きく息を吐いた。秋に近付いた空は透明度を増し、見上げていると吸い込まれそうだと思う。
香夏子は出来上がった履歴書を持って役所に向かっていた。久しぶりに訪れた庁舎は記憶の中のそれよりかなり古ぼけたように見え、過ぎ去った年月に思いを馳せて愕然とする。
中に足を踏み入れると市民の姿は少なく、香夏子はキョロキョロしながら目的の課へ向かう。職員たちはどちらかというとのんびりとした雰囲気の中、各々静かに業務に取り組んでいた。
生涯学習担当の職員はすぐに香夏子に気がついて、上司と思われる人物とともに応接セットへ案内してくれた。今日もかなり額が痒いようだ。香夏子はそのひょろりとした若い職員を同情の目で眺めて、それから彼の上司に挨拶した。
「澤田さんのお嬢さんと聞いて驚きました。私の娘がお兄さんと同じ学年だったから、お兄さんのほうはよく覚えていたのだけど、妹さんがいるとは知らなくてね」
課長と呼ばれている男は、香夏子に親しげな笑顔を見せた。父のことも知っているようだが、香夏子自身は彼に見覚えがないのでとりあえず愛想笑いを浮かべる。
履歴書を若い方の職員が丁寧な手つきで封筒から取り出し、上司の前に広げた。それを課長は頷きながら目を通していき、資格の欄まで来ると「おっ」と短い声を上げた。
「これはまた、パソコン関係だけでもいろいろな資格を取得されてますね」
「以前勤めていた会社で勧められたこともあって、資格だけは……」
「これだけスキルのある人だったら、活かさないともったいないですよ」
課長は真剣な顔で言った。だが、活かす方法がない、と香夏子は苦笑しながら思う。それに実際に資格がどんな場面で役立つのか、香夏子自身がよくわからなかった。
目を通し終わった課長は「問題ありません」と満足そうに言った。隣の担当者がまた額に手をやって言葉を引き継いだ。
「では、今週から宜しくお願いします。講座の始まる三十分前にまたこちらに来てください」
「宜しくお願いします」
深々と頭を下げて、顔を上げた途端、香夏子はドキドキと胸が高鳴り全身が急激に熱くなるのを感じた。
(私、本当に講師になっちゃった!)
二人に見送られて役所を出ると、背を伸ばし胸を張り顔をしっかり上げて、堂々と歩く。肩をそよいでゆく風が心地よく、世界が香夏子を祝福しているように感じられた。
人生とはわからないものだ、と思う。
強い憧れや熱い情熱を持って自分の目指す道を突き進んで行く人もいれば、同じように志しても道半ばで挫折する人もいる。香夏子のように大した信念もなく生きていても、思いがけず幸運を掴むこともあるだろう。
(いやいや、私にだって信念くらいはあるんです)
香夏子は自分自身に反論した。
(誰にだって何か一つくらいは絶対あるはず。ただそれを前面に押し出して主張するか、ひっそりと胸の中で大事にするかの違いじゃない?)
つまりスタイルの違いだ、と思う。いろいろな人がいていいのだ。
香夏子のように何がしたいのかもよくわからない、ふらふらとした生き方が気に入らないと憤る人もいるだろう。だが、今の香夏子にはそんな批判も全てやんわりと受け入れ、抱き締めることができるような気がした。
クリーニング店の店番や家事を手伝いながら、次第に香夏子は実家の実情に嫌でも目を向けなくてはならなくなっていた。
父は同業者や地域の集まりで複数の要職についていて、会社の実務にまでなかなか手が回らない。そもそも会合や出張で不在のことが多かった。香夏子が学生の頃は逆にいつでも家には父の姿があったので、忙しく飛び回り酒を飲んで帰宅する父がまるで別人のように見えた。
その皺寄せが母と兄にのしかかり、特に母は常に会社の財政面に頭を悩ませながら家事もこなし、今は孫の世話もしなければならず、表面的には気丈にふるまっているものの、日々溜め込むストレスは香夏子の想像以上だと思われた。
父の代わりに兄が会社の業務全般を仕切っていて、自分の仕事の傍らでバイトの面接をし、同時に父が提案したスーパーへの出店に関する経費と売り上げを調査する。兄がてきぱきと仕事をこなし、着実に任務を遂行する様子を目の当たりにし、香夏子は密かに驚いていた。ゲームと車にしか興味がなかった兄が会社を引き継ぐと聞いて、本当に大丈夫なんだろうかと妹の立場からずいぶん心配していたのだが、それもまったく杞憂だった。
それにしても、と香夏子は店番をしながらつれづれと考え事をしていた。
(こんなにウチの仕事が大変だとは思わなかったな)
子どもの頃に感じたものとは別の種類の大変さを今になって初めて実感する。これで店舗が増えたら母と兄の負担は倍増するだろう。しかもこの家にはもうすぐ新生児がやってくるのだ。
(お兄ちゃんがしっかりしていても経理までは手が回らないみたいだし、お母さんは相変わらず手書きで帳簿をつけているし……)
店のドアが開く音がしたので顔を上げると、戸口に立つ相手も驚いたように目を見開いた。
「あら、香夏子ちゃん。……ついに破局!?」
大きな紙袋を持った聖夜の母親が朗らかな声を出しながら店に入ってきた。
「いえ、人手不足なので今週だけ手伝いに来てるんです」
「そっか。お兄ちゃんの奥さん、もうすぐでしょ」
「ええ、そうなんです」
余計なことを言わないよう言葉に注意しながら、紙袋を受け取り中味を慎重に取り出し点検する。
「そういえば聖夜から何か言ってきた?」
と、聖夜の母親はバッグから財布を取り出しながら香夏子に訊いてきた。
「いえ……」
一瞬、ポストカードが脳裏にちらついたが、それはなかったことにする。差出人名は書かれていなかったのだから嘘をついているわけではない、と自分に言い聞かせる。
「そう。ホント、息子って薄情よね。ウチにも何の連絡もよこさないし、どこで何をしているのかさっぱりわからないんだから」
愚痴るように言いながらも聖夜の母親はどこか誇らしげだった。それを香夏子は苦笑しながら聞く。
「そうだ。聖夜ね、あのコンテストの日に酔っ払ってケータイをトイレに落としたらしいわよ。それで使えなくなったからって、ついでに解約しちゃったらしいわ」
「はぁ……」
香夏子は間抜けな返事をした。それしか返事のしようがなかった。
その様子を見て聖夜の母親は小首を傾げる。
「香夏子ちゃん、どうかした?」
「ケータイが繋がらないなと思っていたので、そうだったのかと納得したところです」
「全然納得したような顔をしていないけど」
鋭い指摘にドキッとしたが、ただ瞬きを繰り返すことしかできない。
「いや、いろいろ、話したいことがあったから……」
ぼそぼそと言った。本当に話したいことがたくさんある。まだ「おめでとう」すら伝えていないのだ。それから「ありがとう」とか、秀司のこととか、湊のこととか、講師になったこととか、家のこととか――
この短期間にいろいろなことがありすぎた。
そう思った途端、箍が外れたように涙が溢れてくる。慌てて横を向いたが、聖夜の母親は気がついたに違いない。だが、彼女はわざとらしく「それじゃあ、よろしくね」と明るい声で言い、香夏子に手を振りながら店を出て行った。
あっという間に香夏子の講師デビューの日がやって来た。
緊張しながら受講生たちの前に立つ。深呼吸して全体を見回すと、人生の先輩たちが真剣な眼差しでこちらを見ていた。事前に受講生の名簿に目を通していたが、知り合いはいないようだ。改めて見渡してみても知らない顔ばかりだった。
パソコン講座と言っても基本的な使い方を学んでいるクラスなので、教えること自体は難しくない。だが、パソコンの扱いに慣れていない人ばかりなので、どちらかというと講師の忍耐力が試される講座になりそうだ。
何とか初の授業を終えると、廊下で横井と役所の生涯学習担当が香夏子を待っていた。
「お疲れさま。無事に初回を終えた感想は?」
横井はニヤニヤしながら言う。
「緊張しました」
香夏子も知人の顔を見てようやくこわばっていた全身が弛緩していくのを感じた。
担当者と二、三の会話を交わすと横井が香夏子を食事に誘ってきた。
「無理なお願いを聞いてもらったお礼にこれからどう?」
香夏子は首を横に振った。
「ごめん、今日はウチのことを手伝わなきゃならないから無理なの」
「そっか。じゃあ、送っていくわ」
あっさりと諦めた横井は香夏子を車へと誘った。
「俺って全然見込みない?」
運転しながら横井は言った。助手席の香夏子は下を向いて険しい顔になる。
「好きな人がいるって言ったでしょ」
「だけど、今、ここにいないじゃない」
横井がチラッとこちらを見る気配がした。
「そんなの関係ないでしょ」
「香夏子ちゃんって頑固だね」
呆れたように笑いながら横井は言った。それから酷く不思議そうに首を傾げる。
「何だったら香夏子ちゃんが釣れるのかな?」
「私はモノでなんか釣れません!」
「ふーん。そりゃ残念だ」
軽い調子で横井はそう言ったが、香夏子はもう彼の顔を見ることができなかった。
横井は香夏子の実家の玄関先に車を停めた。香夏子は降りる前に改めて横井に「ありがとう」と伝える。すると彼は
「まぁ、さっきの話は軽く流していいから。もう流してると思うけど」
と、笑いながら言った。
「あのどら焼き、美味しいね」
返事に詰まった香夏子は思わずそう口にしていた。
横井は心底嬉しそうな表情になり、「あれは」と少し遠くを見ながら続ける。
「昔、母親が作ってくれたどら焼きなんだ。どら焼きを作るのが趣味な人でさ、ガキの頃は『どら焼きなんか食えるか』と思ってたけど、急に懐かしくなって作ってもらおうと思ったら、……もういなかったんだよ」
確か横井の母親は何年か前に急逝していた。そのことを思い出し、香夏子はいたたまれない気持ちになる。
「でも、そう言ってもらえると嬉しいな。じゃあ、またね」
香夏子は頷いて車を降りた。
ほんの少しだけ、もったいないことをしたのかな、と思いながら横井の車を見送る。
気持ちを切り替えて家に入ろうと思ったときに鞄の中でケータイが鳴った。メールを受信した音だ。
香夏子は立ち止まって鞄からケータイを出した。メールを開く。
――今までどうもありがとう。
送信者は湊だった。
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