第27話 I am sorry !
香夏子はしばしケータイの画面を見つめていた。
湊からの短いメッセージを繰り返し黙読するが、さっぱり意味がわからない。宛先を間違えているのではないかと思うが、もし正真正銘、香夏子宛に送られてきたのだとしたら非常に問題のある内容だ。
こういう場合どうするべきか、と香夏子は実家の玄関前に突っ立ったまま考えた。
まずはとにかく本人に直接確認するべきだ。
(電話してみるか)
そう思ってアドレス帳を開こうとしたときだった。
ケータイが着信を知らせる賑やかな音を出し、画面は電話をかけてきた人物の名前を表示する。香夏子は一瞬驚いてビクッと肩を震わせたが、慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし」
「カナ、湊はどこにいる?」
「は?」
秀司の声が耳に飛び込んできた。ひどく焦燥感を滲ませた声だった。
「知らないんだな。もういい」
香夏子の鈍い反応から強引に結論を導き出した秀司は電話を切ろうとする。
「待って! 湊がどうかしたの? 私のところにも今、変なメールが来たんだけど」
「今? 何分前?」
ほとんど怒鳴り声で秀司は言った。
「えっと、三分くらい前?」
「もうケータイが繋がらない」
「……はい?」
「だから、連絡が取れないんだ!」
香夏子は思わずケータイを耳から遠ざけた。
「何かあったの?」
おずおずと訊いてみると秀司の深いため息が聞こえてくる。
「さっき電話が来て、そのどうしようもない男にもう二度と会わないと伝えたんだと報告された。そりゃよかったなと言って電話を切った。そしたらメールが来た」
「……『今までどうもありがとう』?」
「そうだ。……クソッ! カナ、今、どこにいる?」
「どこって、実家に……」
「湊の行きそうな場所を知らないか?」
(……って、湊、どうしちゃったの?)
香夏子は急いで考えをめぐらすが、焦るばかりで何も思いつかない。それよりも湊の異変が香夏子の心の中に不安の波を呼び起こし、心臓の音が体内にこだました。
「わかった、もういい。高山くんに捜させる」
そう言うが早いか電話は切れた。
通話を終了したケータイの画面を茫然と見る。数秒後、香夏子は今日が大学で大きな学会が催される日だということを突然思い出した。
(湊、もしかして……自殺!?)
いくらなんでもそれはない、と必死に自分に言い聞かせる。最愛の人との別離を選んだとはいえ、あの湊に限ってそんな早まった真似をするとは思えない。
(でも、湊だからこそ……)
湊は明るくしっかり者で、内面の綻びを表に出すことは滅多にない。香夏子は高校時代からの付き合いだが、湊が切ない恋愛に身をやつしていることなどこれっぽっちも気がつかなかったのだ。普段、自己の感情をコントロールすることに長けている者が、制御不能になった場合、極端な行動に走ってしまう可能性は高い。
香夏子は実家の玄関を勢いよく開けて自室に駆け上がった。
窓の外を一瞬だけ見る。カーテンが取り払われ、主を失った寂しげな隣家の窓が目に映る。
(こうしてはいられないんだった)
我に返った香夏子はすぐにてきぱきと荷物をまとめた。今は一刻も無駄にはできない。
階下に駆け下りると母を大声で呼んだ。母が姿を見せると簡単に事情を説明して、予定より一日早いが自分のマンションに戻る旨を伝える。
「そう。無事に見つかるといいわね。それから香夏子、ありがとうね。あなたが来てくれて本当に助かったわ」
母は香夏子をいたわるような表情を見せた。香夏子は静かに首を横に振る。
「ごめんね、本当はもう少し手伝えたらよかったんだけど」
「いえ、香夏子はもう帰りなさい。こっちはこっちで何とかなるわよ。あなたも気をつけて」
「また人手不足のときはいつでも帰ってくるから」
「いいから、早く行きなさい」
追い立てるように母は香夏子の背を押して玄関へと向かう。母は玄関の外まで出てきて、香夏子の姿が見えなくなるまでずっと微笑みながら見送っていた。
香夏子は後ろ髪を引かれる思いだったが、それを断ち切るように元気よく歩いた。ズンズンと進むうちに湊のことが心配になり、最後は走り出す。走りながらバッグからケータイを出して湊に電話をしてみる。
聞こえてきたのは「おかけになった電話番号は現在電源が入っていないか、電波の届かないところにいるためかかりません」という無機質な返事だった。
旅行用バッグを肩に提げたまま、香夏子は湊が立ち寄りそうな場所を何かに急かされるように見て回った。荷物の重みで肩紐が皮膚に食い込むがそんなことを気にしている場合ではない。
電車に乗る前に高山に連絡を取り、もし香夏子が着くよりも先に湊を見つけたら電話をくれるようにと頼んだ。高山も息を切らせながら快諾した。
ケータイをジーンズのポケットに入れる。バッグに入れていると着信があっても気がつかないことがあるからだ。まだ誰からも何の連絡もない。
湊のマンションや最寄り駅、勤務先を回ってみたが彼女の姿は見つからず徒労に終わった。
次にどこを捜そうか、と途方に暮れているとケータイが鳴る。高山からだった。急いでボタンを押しながらケータイを耳に押し当てた。
「見つかりましたよ!」
開口一番、興奮しながらも心の底から安堵したような高山の声がした。香夏子も安心して大きく息をつく。
湊は自宅と勤務先の間にある乗り換えの駅にいた。この大都会の中でもとりわけごった返す駅だ。
香夏子は一度その駅を乗り換えのため通過していた。だがホームは十以上あり、他の鉄道路線も乗り入れているため、構内を捜索するだけで一日を費やしてしまいそうだ。そう思って後回しにしてしまったことを後悔する。
その駅にたどり着くと高山に言われた通り、改札を出ずに構内を急ぎ足で歩く。ちょうど電車が到着したらしく階段からどっと人の波が押し寄せ、香夏子はしばし足止めを食らった。その波が去ると湊と高山が並んでベンチに腰を下ろしている姿が目に入ってきた。
香夏子はゆっくりと二人のもとへ近づいていった。高山は得意のオーバーアクションで何かを夢中になって語り、湊はその話を黙って聞きながら時折笑顔を見せている。
先に湊が香夏子に気がついた。高山も香夏子を見て軽く手を挙げる。
「湊……」
何を言えばいいのかわからず、香夏子は二人の傍らに棒立ちになったまま絶句してしまった。
「ごめん、ごめんね」
湊は両手で顔を覆った。
「ああ、ちょっ、ちょっと待って! 嫌だなぁ。これはね、先生の早とちりなんですよ。ね、湊さん」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
高山が必死になって湊を庇うが、湊は深く頭を下げて顔を上げようとはしなかった。
「香夏子さん、座って」
席を譲られたが、膝に顔を埋めるようにしている湊の隣に座ることはためらわれた。香夏子は高山と二人で湊を見守るようにベンチの前にただ立ち尽くす。高山は困ったように香夏子と湊を見比べた。
「事情はまったく知りませんが、僕には謝る必要なんかないですからね」
湊がそのままの姿勢で首を横に振る。それから片手を伸ばして器用にバッグからハンカチを取り出した。湊はハンドバッグひとつでここに来たらしい。
「湊、それって今日の話なの?」
香夏子は言葉を端折った。高山には聞かれたくないだろうと思ったからだ。湊が少しだけ顔を上げる。
「うん」
(……ということは、その後すぐに秀司に電話したんだ)
それを契機に湊はハンカチで涙を拭きながら徐々に上体を起こして顔を上げた。ハンカチを鼻にあてがったまま、しばらく自分の足元に視線を落としていたが、フッと微笑んだかと思うと目を閉じた。
「ずっとここに座って通る人を見てたの。どうしてこんなにたくさんの人がいるのに、私が会いたいと思う人はここにいないんだろうって」
湊は自嘲気味に唇を歪めると目を開けた。まだ潤んだ瞳や濡れた睫毛がキラキラと光り、彼女の凛とした強いまなざしが香夏子にはおそろしく美しく見えた。後悔と未練を隠しもしないが、それでいて湊は自分の下した決断をおそらく貫き通すだろうと香夏子にはなぜか確信できる。
「私、どうせだったら全部なくなっちゃえって思ったの。家族も親友も何もいらない。これからはひとりでひっそりと生きていこうって。でも秀司と香夏子にメールを送ってから、急に自分のしたことがどれほど馬鹿げていて愚かな行為だったかと気がついて、ここで頭を冷やしてたのよ」
落ち着いた口調でそう言うと、真っ直ぐ香夏子の目を見つめてきた。
「本当にごめんなさい」
香夏子は笑顔を作った。
「私が今まで湊にかけまくった迷惑に比べれば、こんなのかわいいもんだよ」
ようやく三人の顔がほころび、和やかな空気が戻ったと思ったそのときのことだ。高山が何気なく横を向き、そこで「あっ」と声を上げて固まった。
香夏子も高山の視線の先を追う。そして高山と同じようにその場に凍りついた。
まだかなり遠いが、通路の向こうから眼鏡をかけた長身の男性がこちらを目指して一直線に歩いてくる。その歩調から彼が怒気を撒き散らしているのが見て取れた。
湊はまたハンカチを鼻先にあてがってうつむいた。香夏子はその様子をちらりと見て、隣に立っている高山に視線を移すと、自分と同様に困惑した表情の高山と顔を見合わせる羽目になった。
そのときが来るのが一秒でも遅ければいいという香夏子の願いもむなしく、秀司はあっという間に三人がたむろしているベンチの前にやって来た。
眼鏡の奥の鋭い視線は香夏子と高山を素通りしてベンチに腰掛ける湊にピタリと定められていた。
秀司は迷わず湊の正面で立ち止まる。
「おい! こんなふざけたことをしやがって、一体どういうつもりだ? 俺がどれだけ……」
怒気を含んだ声が湊へ向かって容赦なく発せられた。湊が膝にくっつくくらい頭を下げると秀司は一旦言葉を切って唇を噛む。
しばらく時が止まったように四人は呼吸と瞬き以外、身動きひとつせずにいた。
不意に湊が身を起こした。香夏子は彼女の表情に釘付けになる。じろりと上目遣いに秀司を見上げる視線は、香夏子や高山に謝罪の言葉を繰り返していたときのものとはまったく別だった。
突如、秀司が怒声を張り上げる。
「いいか、よく聞け! この先、二度と俺の前に顔を出すな。もう二度とお前の顔は見たくない!」
言い終えると湊を一睨みして踵を返した。その秀司の背中に向かって、かろうじて聞き取れるほどの小さな声が投げつけられる。
「それはこっちのセリフよ」
秀司の足が止まった。ゆっくりと振り返る。
「なんだと?」
湊はベンチの背もたれにふんぞり返って足を組んだ。そして無造作に髪をかきあげた。さっきまで泣いていた人と同一人物とは思えぬ所作だ。
「香夏子と聖夜くんのことを仲良しごっこなんて言うくせに、その仲良しごっこに一番甘えてるのは誰よ?」
(仲良しごっこ?)
聞き覚えのある言葉に香夏子はハッとする。
無言の秀司は険しい顔で湊をじっと見つめていた。
それをいいことに、湊は更にキツい言葉で秀司に噛みついた。
「偉そうなこと言うくせに、結局ただの意気地なしなのね。十年前だって何も言わずにいなくなって、留学だなんて言ってるけど、ただ単に逃げ出しただけなのよ。……自分の思い通りにならない現実から」
「言いたいことはそれだけか?」
秀司は凄むように首の角度を変えて顎を少し上に向ける。
香夏子と高山は息を詰めてオーディエンスに徹していた。湊と秀司の間に割って入る隙も度胸もない。
「お前に俺の気持ちなどわかってたまるか」
「わかるわよ、嫌っていうほど!」
突然、湊の目が潤んで見る見るうちに涙がこぼれ始めた。持っていたハンカチに顔を埋めて周囲も気にせず声を上げて泣く。香夏子は慌てて湊の隣に腰掛け、そっと肩を抱く。だがそれは逆効果で、香夏子の腕の中で湊はますます激しく嗚咽を漏らした。
気まずい表情で顔を背けた秀司は、やるせない様子でため息をつき、それから困ったように額に手を当てた。
「すまない。言い過ぎた」
ぼそりとつぶやくように言うと、しゃくり泣きする湊の頭にノックするように軽く握った手で触れ、後ろを向いて真っ直ぐに去ろうとする。
あっ、と思ったときには既に、抗いがたい力によって香夏子はベンチの背もたれに押しつけられていた。その目には湊が立ち去ろうとする秀司の腕に縋りつく姿が、まるで映画かドラマのワンシーンのようにスローモーションで飛び込んでくる。
高山が鋭く息を吸い込む音がした。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。もう二度としないから許して」
湊を受け止めた秀司は、入り乱れる様々な感情を無理に押し殺し、最後にとても悲しい顔をして言った。
「どれだけ心配したと思ってるんだ。俺の前から本気でいなくなるつもりなら、黙って消えろ。じゃないと俺は……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
人はどうしてこんなにも脆く弱く浅はかなのだろう。
たとえ愛しい人がそばにいなくても生きていくことには何の支障もないのに、この世の終わりのような絶望を感じ、生きる希望を見失ったように悲嘆に暮れる。
だが、それも一時的なものだ。
時が経てば必ず、心にぽっかりと空いた穴も少しずつ小さくなり、やがてはほとんど痛みすら感じないほどの過去の思い出になる。
そうと知っていても、愛しい人を失った後の喪失感を黙ってひとりでやり過ごすのはやはり過酷な試練だ。嵐が過ぎ去るのを辛抱強く待つことができればいいが、いつまでその暴風雨を耐え忍ばなければならないのかもわからずに、ただじっと我慢していることがどれだけ辛いかは香夏子にも痛いほどわかる。
聖夜の家を出たときのことをふと思い出し、自分の一連の愚行に身震いした。今、冷静に考えてみればもっと他のやり方があっただろうに、どうしてあんな真似をしたのか――。
「香夏子さん、いつまで腰抜かしてるんですか? ……ていうか、あの二人はなんなんですか? 先生は香夏子さんを好きだと思っていたんですが、僕の勘違いですかね?」
隣にドンと腰掛けてきた高山は納得がいかないと言うように腕を組んで首を捻る。香夏子は慌てて座り直した。
「……よくわかんない」
高山に小声で答えると、湊に寄り添っている秀司が今初めて気がついたように香夏子を見た。
香夏子はどういう表情をしたらよいのか戸惑いながら、秀司の視線を受け止める。湊がそれに気がついて秀司の腕を離すと一歩後退し、気まずい顔で香夏子を見た。
自然と頬に笑みが浮かぶ。香夏子は秀司と湊にニッコリと笑って見せた。
「高山くん、戻るぞ」
秀司は高山に短く言った。高山は待ってましたとばかりに勢いよく立ち上がり、香夏子に軽く会釈をして秀司のほうへ向かう。同時に湊がベンチの前へ戻ってきた。
去り際、秀司は何か物言いたげな視線をよこしたが、そのまま無言で高山と連れ立って帰った。香夏子には彼が何を考えているのかは結局わからずじまいだった。
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