第13話 Who needs me ?

 高山から一通り仕事の概要を教えてもらい、午後は早速かかってきた電話に出たりメールの処理をしながら、なんとか香夏子は秀司の秘書としての初日を終えた。

「香夏子さんって以前はどんな仕事をしてたんですか?」

 何かの名簿を手にした高山が話しかけてきた。

「私、これでも理系出身だから設計補助みたいな仕事をしてたの。でも主にCADとデータ入力。データ入力の鬼って言われてたけど……大して役に立たないスキルだよね」

 最後は自嘲気味になる。本当はもっと違う仕事がしたかった。大学で学んだことは無駄ではなかったが、ほとんど仕事に活かされていない。同じ大学出身の男性で既にプロジェクトリーダーとして活躍している者もいるのに、香夏子は毎日延々と膨大な数の記号をパソコンの画面に向かって打ち込んでいるだけだった。

(ぶっちゃけ、私じゃなくてもできる仕事だよね)

 やりがいのない仕事をしながら、不倫を拒否した同僚に粘着され、しかも長年片想いをしていた人に結局失恋する。

 それがつい先日までの香夏子だった。

(私の人生って何なんだ……)

 香夏子は無性に腹が立ってきた。こんな悲惨なストーリーの主人公がなぜ自分なのか、と憤慨する。

「香夏子さん、何だか急に険しい顔になってますけど」

 高山がこちらを心配そうに見ていた。

「いろいろ思い出してムカついてたの!」

「僕に当たらないでくださいよ。別にいいじゃないですか、どんな仕事だって。その仕事をする人がいなければ他の人だって仕事が進まないわけだし、誰だって自分の望む仕事だけをやっていくことはできないものですよ」

 諭すような口調に香夏子はますます苛立ちを募らせた。

「そう? 秀司なんか自分のしたいことしかしてないように見えるけど!」

「あの人は別ですよ」

 肩をすくめて高山は言った。

「それがおかしいでしょ! つまり声のデカい人間が得をする世の中だってこと? あーバカバカしい! ホント、やってらんないわ!」

 香夏子はノートパソコンを乱暴に閉じた。

「そうじゃないです」

 高山の凛とした声が響いた。初めて聞く厳しい調子だった。

「もし香夏子さんが本当にそう思っているんだったら、先生のことを誤解していると思いますよ」

(何よ、偉そうに!)

 高山からわざとらしく顔をそむけた。この部屋の窓からも濁った色のビル群しか見えない。ごちゃごちゃした背景を見たいわけではないので香夏子は目を伏せる。

「そんなこと……わかってるわよ」


 突然、香夏子は高校生の秀司から言われた言葉を思い出した。

「俺はかけがえのないものと引き換えにもっと大きなものを手にするんだ。だから……」

(そして秀司も遠くへ行っちゃった……)

 香夏子には未だに秀司のかけがえのないものが何なのかはわからない。ただ既に覚悟を決めていたことだけはわかる。

(だから……あんなこと言ったんだろうし)

「だから……俺はこの先結婚するつもりはない。誰とも、だ」

 別れを切り出したのは自分だったのに香夏子はその言葉を聞いた途端、ガツンと頭を殴られたような気分になった。自ら手放そうと思ったものが、自分の手をするりとすり抜け、ガシャンと音を立てて粉々に砕け散る。取り返しのつかないことをした、と咄嗟に思った。

(秀司はきっとあの頃目指した大きなものに手が届いたんだよね)

 主のいない机を眺めた。机の上には秀司が好きで収集している飛行機の模型が飾られている。遠くへ飛んでいける翼が秀司にはあったのだとそれを見て香夏子は感じた。

(私は……何をやってるんだろう)


「すみません。僕は空気読めない人間で……」

 少し間を置いて、高山が殊勝な様子で言ったときだった。ガチャっと音がして前触れもなくドアが開いた。

「なんだ、まだいたのか」

 濃紺の生地に銀糸で縞の入ったスーツにグレーのネクタイ姿の秀司が現れた。スーツ姿の男性など見慣れているはずなのに、どうしてか目が離せなくなる。

「おかえりなさい。早く終わったんですね」

 高山は何事もなかったようにいつもの調子で答えた。秀司は持っていた鞄を椅子の上に置いて資料を整理し始める。帰るタイミングを逃した香夏子はのろのろと勤務表を取り出して現在の時刻を記入した。

「それじゃあ、僕は退散しますね。どうぞごゆっくり」

 そそくさと高山が退室すると、香夏子は急に不安な気持ちに見舞われた。窓に映る外界は黄昏を過ぎ、暗い色のカーテンに覆われつつあった。

 こんな場面が前にもあった、と香夏子は苦い気持ちで思う。秀司と二人きりでこんな気まずい時間を過ごすのは、香夏子が別れを告げた高校三年のとき以来だ。「これ以上秀司と付き合うことはできない」と告げた声は震えに震え、まるで自分のものではないように聞こえた。

 あのとき、その一言が秀司をどれほど傷つけたのだろう――。

 意識を過去に飛ばしている間に秀司は資料の整理を終え、パソコンを立ち上げていた。

「聖夜の家を出たのか?」

 背を向けたまま秀司が言った。ギクッとした香夏子は持っていたペンを床に落としてしまう。それを拾いながら秀司の様子を窺った。

「どうして?」

「朝帰りしたからか?」

 秀司は香夏子の疑問を無視して更に問いかけてきた。観念して「違う」と短く答える。

「聖夜はバカだ」

 淡々とした口調で秀司はそう宣言した。

「何よ、それ」

 昨日も同じ発言をしていたが、香夏子には秀司がどういうつもりで言っているのかわからない。

 秀司はようやく横顔を見せて、香夏子に鋭い視線を向けた。

「二人とも相変わらずだな。聖夜からは何も言ってこないんだろ?」

「言ってくるはずないでしょ。ケータイも替えたし、引っ越したし……」

「カナもバカだな。ま、そんなことはどうでもいい。一つカナに言っておくことがある」

 キィと音がして秀司が椅子に座ったままこちらを向いた。正面から見据えられてドキリとした。

「ここは避難所じゃない。俺について来られないなら、カナはいらない」

 香夏子はゴクッと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。峻烈な言葉が胸の奥に深く刻まれる。

「……わかった」

 甘く優しい言葉を期待していたわけではない。だが不意に目の前が霞んだ。慌てて香夏子は立ち上がり、ドアノブを掴む。

「お先!」

 大きな音を立ててドアを閉めると唇を噛んで上を向いた。悔しかった。秀司には香夏子の弱点などすべてお見通しというわけだ。

(逃げているわけじゃない!)

 だが、それが負け惜しみだということは自分自身がよくわかっていた。 

(だけど秀司や聖夜と違って、私は何の取り得もない凡人なんだもん。どんなに頑張っても二人のようにはなれないよ)

 出口に向かってゆっくりと歩き始めた。

 高山が自分を眠り姫に喩えたのはそういうことか、と悟る。香夏子が呆然と立ち止まっている間、他の人間はそれぞれの夢を実現させるためにたゆまぬ努力をしていたのだ。

(みんなが遠くへ行ったんじゃなくて、私がどこにも行かなかっただけってことか……)

 今の自分がボロボロのサンドバッグのように思えてきた。

(ま、仕方ないか。今まで何もしてなかったんだからね。……ホント、高山さんの言うとおりだな。目覚めるのが遅すぎ……)

 ふーっとため息をついた。

 行き交う学生たちの初々しい様子や途切れ途切れに聞こえる会話が香夏子を一層惨めな気分にさせる。

(これで秀司にもいらないって言われたら、私を必要としてくれる人なんかどこにもいなかったりして……)

 一言で言えば自信がないのだ。自分にはこれがある、と誇れるものが香夏子にはない。

 今までそのことについては見て見ぬふりをしながら最重要警備の下で蓋をしていたはずなのに、いつの間にやらその蓋はこじ開けられていた。隠そうとしたところで、所詮繕ったものはいずれ誰の目にも明らかになるということか。

 自分のマンションに帰った香夏子は泣いた。泣いて己の中にある醜いものを流してしまえるなら、全部出し尽くしてしまえ、と思う。

 気の済むまで泣いたら、少しだけすっきりとした。

(とりあえず、目の前のことを頑張ってみるか)

 ポジティブな気持ちが香夏子の中に芽生える。

 今できることから少しずつやっていこう。どうせ、そうするほかに香夏子にはどうにもできないのだ。

 恋愛も結婚もその次でいい。今まで三十一年間まともな恋愛をしなくても生きてこられたのだ。これからだって大丈夫なはずだ。

(何かを見つけよう。これだ、と思えるものを……)

 ひとりぼっちの部屋で香夏子はひっそりと微笑んだ。



 翌朝、出勤した香夏子は秀司の研究室のドアを開けて、目に飛び込んできた光景に一瞬目を疑い、そのまま一度ドアを閉めた。部屋を間違えたかと思い、ドアから二歩下がり周囲を確認する。が、秀司の研究室で間違いない。

 首を傾げながら再びドアを開けた。

「おはようございます」

「おはよう」

「なんですか、今のは?」

 高山が香夏子の挙動を不思議がって問いかけてきた。不思議なのは秀司と高山の格好だ、と思いながら香夏子は二人を交互に上から下まで眺め回す。

「いや、えっと……部屋を間違えたかと。ていうか、なんで二人ともジャージ?」

 秀司と高山は揃って上下ともジャージ姿で外出の準備をしていた。確か今日の予定は午前に研究のために学校訪問のはずだ。

「小学校とか中学校の先生はジャージ姿が多いでしょ? 僕たちがスーツ姿でお邪魔すると生徒も萎縮しちゃうかなとか配慮の末、ユニフォームとしてジャージが採用されたわけです」

 高山はなぜか得意げにポーズを取る。香夏子は笑いながら首を思い切り傾げた。

「高山さんはいつもの格好で十分かと」

「いや、あえてここは先生とお揃いのジャージで行きますよ」

「カナも一緒に行きたいならジャージを用意するぞ」

 秀司が鞄を肩にかけて香夏子を振り返った。香夏子はわざとらしい笑顔を作って断る。

「私には電話番という重要な任務が控えてますので、残念ですが留守番してますね」

(ま、結局電話番だけど、ここは日本一、いや世界一の電話番を目指して頑張ろう)

 俄然やる気が出てきた。

 二人が出かけてひとりになると、やらなければならない仕事をテキパキとこなし、一つずつ確実に自分のものにしていくために神経を使う。

 外出から戻った秀司が香夏子の仕事上の質問に答えた後で、珍しく嬉しそうな顔をした。

「カナ、ずいぶん張り切ってるな」

「うん。早く役に立つ秘書になりたいな、と思って」

 高山が秀司の背中を大げさに叩いた。

「先生! よかったですね。香夏子さんが先生のために……」

「違うわよ」

 香夏子は冷静な声で否定した。

「誤解しないで。誰かのためなんかじゃなくて、自分のために頑張るの」

 秀司と高山がそれまでとは違う視線で香夏子を見る。

「そうか。それはいい心がけだ」

「うんうん。香夏子さん、とてもいい顔つきしてますよ」

 それはどうかな、と思いながらも香夏子は二人の反応を見て、心の中にじわじわと喜びが湧いてくるのを感じた。

 そして、高山に悟られないように秀司の姿を盗み見る。

(……ありがとう)

 まだジャージ姿なのが可笑しいが、その背に胸の内で小さくつぶやいた。



 それから香夏子は次第に仕事を覚えていき、相変わらずテレビ出演や講演会などの露出の多い秀司の影で、地味だが電話番として毎日奮闘していた。

 ある日、慣れた調子で電話に出ると、相手は緊張で声を震わせてたどたどしい口調で秀司の研究室か、と問いかけてきた。

「あ、あの……わ、私は丹羽秀司さんと中学校の同級生で、えっと、工藤理恵(くどうりえ)と申しますが」

 香夏子はその名前と声にハッとした。

「理恵ちゃん!? 私、澤田香夏子です」

「えーーー!? カナちゃんなの? 全然わかんなかったー! ていうか、めっちゃ緊張して掛けたのにー!」

 理恵は香夏子と小学校も同じで、中学まではずっと仲が良かった。

 しばらくお互いの近況報告をして懐かしんだが、理恵が電話をよこした当初の目的を思い出して話し始めた。

「それがね、丹羽くんが有名人になったでしょ? 地元でもすごく盛り上がってるみたいで、久しぶりに同窓会をしないかって話が出てるんだよね」

(同窓会……)

 香夏子は理恵には顔が見えないのをいいことにしかめ面をする。中学校の同窓会なんて成人式のとき以来だ。

(聖夜は来るのかな)

 無意識にそう考えていた。それに気がついた香夏子は更に沈痛な面持ちになる。結局それか、と自分自身にツッコミを入れて小さくため息をついた。

「カナちゃんからも丹羽くんに出席してもらえるようにお願いしてほしいの」

 理恵の切実な声で香夏子は我に返る。

「秀司は私の言うことなんか聞いてくれないから、あまり期待しないほうがいいよ」

「何言ってるのよ。カナちゃんが出席するって言えば、絶対丹羽くんも来るって!」

 自信満々に理恵は断言した。

「ま、待ってよ。私、出席するなんてまだ言ってな……」

「え? 都合悪い?」

「……まだ、わかんない……」

「浜名くんも来るって言ってたよ」

(聖夜が……来る)

 突然、動悸が激しくなり胸が痛む。その強烈な疼きに耐えかねて、香夏子は胸に手を当てて背中を丸めた。

(会いたい……けど、会いたくない)

 相反する気持ちが天秤の上でぐらぐらと揺れ動いた。その振れ方が極端すぎて香夏子は恐ろしくなる。

 大きく深く息を吸い込んで目を閉じた。

 一瞬、息を止める。

 それからふーっと一息に吐き出して、香夏子は目を開いた。

「行くわ」

 覚悟を決めて言った。もう逃げない。聖夜からも、辛い現実からも……。 

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