第12話 How should I know ?



 帰宅した香夏子は久しぶりに実家に電話を入れた。引っ越したこと、仕事を辞めたこと、ケータイを替えたことなどを淡々と報告する。電話の向こうの母親はかなり驚いたようだが、非難めいたことはひと言も言わなかった。

「秀司くんにお世話になるの? 迷惑掛けないようにしなさいよ」

「迷惑なら嫌というほどかけられてるから心配しないで」

「そんな言い方しないの! そういえば最近聖夜くんには会った?」

 突然母の口から聖夜の名前が出てきてドキッとした。

「……うん。どうかした?」

「あのね、浜名(はまな)さん、お店やめて引っ越すんですって。聞いてた?」

「……えっ!?」

 母の言葉の意味を理解するのに数秒かかる。おそらく脳が理解するのを拒否したのだろう。

「だって、おじさんもおばさんもまだ……」

「そうね、お店をたたむのはもったいないと私も思うわ。でも少し羨ましいかな。私もそろそろ引退したいもの」

(そんなこと思ってたんだ……)

 しみじみとした口調に香夏子は母が歩んできた年月と積み重ねてきた苦労の数々を思い、目を伏せた。香夏子の実家のクリーニング店は兄夫婦が跡を継ぐことになっているが、義姉は就学前の子どもが二人いる上、三人目を妊娠中だ。まだしばらく母は引退することはできない。

(でも、引っ越すってことは……)

 香夏子の意識はまた隣家のことに戻る。聖夜の実家が隣でなくなってしまえば更に香夏子との接点は少なくなってしまう。もうこのまま聖夜とは物理的な距離すらも遠くなってしまうのか、と思うと香夏子の身体中の細胞が悲鳴を上げた。

(それなら王子のキスなんかいらなかったのに!)

 高山の言葉を思い出して香夏子は唇を噛んだ。香夏子の知っている『眠り姫』では、王子のキスで目覚めた王女は王子と結婚し末永く幸せに暮らすはずなのに、香夏子に待っていたのはこんなむごたらしい現実だ。

(どうせ私は姫なんて柄じゃないし)

 そうは思うものの、ため息が出てしまう。

 母との電話を終えると今度は湊にメールを送った。引っ越してから何となく連絡する気になれず、今日も電話をするのが億劫に感じられるので短く用件だけを打ち込んで送信する。

 

 メールを送信して約五分後、湊から電話が来た。

「何かあったの? 聖夜くんは? 喧嘩でもした?」

 心配そうな声が聞こえてくる。自分のことを案じてくれる湊の声に、香夏子の心は少し温かくなった。

「今日仕事辞めたの。だから聖夜のところにいる理由がなくなったし……それに私がいると迷惑だから……」

「えー、仕事辞めた!? それより迷惑ってどういうこと? 聖夜くんにそう言われたの?」

「そうじゃないけど、そう言われたのと同じ……かな」

「え、ちょっと、もしかして、女?」

 香夏子は苦笑いした。一緒に生活している間そんな気配は全く感じなかったから、聖夜が自分のことを迷惑だと思っているなんて想像もしなかった。

 だが、聖夜は香夏子に決定的なセリフを言ってくれたわけではない。それは香夏子も気がついていた。だからずっと聖夜との心の距離が遠いと感じていたのだ。

「好きな人いたんだね……きっと」

「何よ、その『きっと』って。もう、何が何だかさっぱりわかんない!」

 そう湊がわめいた後ろで「みなちゃん」と湊を呼ぶ男性の声がした。

(……誰?)

 香夏子が疑問に思った瞬間、湊は通話マイク部分を手で覆ったようだ。がさごそと音がした後、湊が「ごめん」と戻ってきた。

「誰か来てるの?」

「うーん、香夏子に隠していても仕方ないか。実は今、ウチに男の子がいるの」

「男の子……?」

「ほら、秀司に再会した日に合コンしたでしょ?」

 湊の言葉に香夏子はすぐにピンと来た。たぶん湊と意気投合していた少しばかり知的な感じの男性だろう。

「もしかして、あのときの?」

「まぁ、いろいろあって一緒に住んでるの」

 香夏子は唖然とした。湊は恥ずかしそうに続ける。

「いやー、これがまたかわいいんだよね。どうしよう、本気になっちゃったら」

「だって九つくらい違うんじゃなかった?」

「そうなんだけどさぁ……。でもね、彼、あの歳にしては結構しっかりしてるんだよ」

 こりゃだめだな、と香夏子は思う。きっと今は何を言っても湊には聞き入れてもらえないだろう。湊はしっかり者だが恋する乙女になるとどこまでも彼氏一直線になってしまう。そして燃え上がるのも早ければ消えるのも早い。

「……湊が幸せならいいんじゃない?」

 香夏子は親友の新たな恋を素直に祝福しようと思った。湊は香夏子と違って結婚願望を口にすることがない。公務員の彼女にとって結婚するしないはさほど大きな問題ではないのだろう。

「それより香夏子はどうするのよ? 仕事は?」

 湊がついに核心部分に触れてきた。誤魔化してもどうせすぐにバレるだろうから、香夏子は正直に言った。

「実は秀司の秘書になれって言われて……、今日行って来た」

「そうだったんだ! いい話じゃない。お給料もちゃんともらいなさいよ」

 朗らかな声が返ってきた。本当のところ湊が秀司をどう思っているのか気になるが、新たな恋人ができたばかりの彼女にそんなことを訊けるはずもない。ためらっていると湊が先に口を開いた。

「それで聖夜くんとはどうするのよ? ちゃんと話はしたの?」

「話なんて……」

「まさか何も言わずに勝手に出てきたんじゃないでしょうね。香夏子っていつもそうだから」

 痛いところを突かれてまた言葉が出ない。

「何があったか知らないけど、ケータイまで替えちゃって本気でこの先聖夜くんとの関係を断ち切る気? だけど実家が隣なんだからそんなことできるわけないでしょうが」

「……もう、それもなくなっちゃうから本当に縁が切れちゃうの……」

「は? どういうこと?」

「聖夜の実家、引っ越しちゃうんだって。さっきウチの母親が言ってた」

「えー!? 香夏子、本当にそれでいいの?」

 香夏子は大きく深呼吸した。

「……うん」

 聖夜と会うのが怖かった。もうこれ以上何も見たくないし、聞きたくないし、知りたくない。聖夜に終止符を打たれるよりは自分自身でこの気持ちを凍らせてしまいたかった。

「香夏子、アンタには無理」

 湊は冷静な声音で断定した。

「何が?」

 ムッとして香夏子は聞き返す。

「聖夜くんを忘れることなんかできない。たとえこの先二度と会わないと決めたとしても、アンタ自身が自分の気持ちを終わりにできない。できるんだったらとっくの昔に諦めてるはず」

「それは……」

「きちんと話しなさいよ。諦めるつもりなら決着をつけておかないと後悔するのは香夏子だよ」

 グサグサと湊の言葉が胸に突き刺さった。

「……そうだね」

 香夏子は頷いて、ようやく心のずっと奥の奥に潜んでいた自分の本心に気がつく。

(やっぱり……会いたいよ)

 話をしなければならない、そう思っただけで不思議と香夏子の気持ちは浮き立った。

(そうだ、お礼だって言わなきゃ!)

 すぐに心全体が結束して香夏子を駆り立てた。

「あ、ごめん。また電話するわ」

 電話の向こうでドアが閉まる音がして、慌しく電話が切られた。好きな人と一緒にいられる湊を羨ましく思う。つい先日までの香夏子もそうだったのに、もう遠い昔のことのようだ。

 シンとした部屋の中で、香夏子はケータイを見つめた。

(やっぱり……無理だ)

 ひとりになるとやはり聖夜に連絡する勇気が出ない。

(寝よう。今日はいろいろあって疲れたから、明日また考えよう)

 今頃、聖夜は何をしているのだろう。何を考えているのだろう。香夏子がいなくなったことをどう思っているだろうか。少しは寂しいと思ってくれただろうか。

 布団の中でとりとめもなく考える。そのうち香夏子は睡魔に負けて寝息を立て始めた。


 翌日、香夏子は比較的元気に出勤した。

 一応ノックをして秀司の研究室のドアを開けると、高山が振り向いて挨拶してきた。彼の前には新しい机とパソコンがあり、彼はそのパソコンのセッティングをしているようだ。

「もうすぐ終わります。あ、先生の机の上に香夏子さんへのラブレターがありますので読んでください」

 香夏子は眉を寄せてキッと見返すが、高山は悪びれもせずニコニコと笑顔を見せる。言われたとおり秀司の机の上を見ると、タイムカードにあたる勤務表と今日のなすべきことが書かれた紙が置かれていた。

 それを手に取ったとき、突然ノックもなしにドアが開いた。

「秀司先生、愛してますっ! ……って、あれ? いない。どこ行った?」

 ドアノブを握ったままキョロキョロと室内を見回す女性を、香夏子はあっけに取られて凝視した。女性というよりは少女だ。おそらくこの大学の学生だろう。考えてみれば大学生は、香夏子や秀司とはひと回りくらい違う。社会人として十年近くやってきた香夏子にしてみると、彼女の傍若無人な振る舞いはまるで他の惑星から来た宇宙人でも見るような気分だった。

「トモミちゃん、おはよう。先生は学会で出張です」

 高山は驚きもせず愛想よく答えた。これが日常茶飯事なのだろう。香夏子は頭が痛くなってきた。

「そうですか。じゃあメールしようっと」

 トモミと呼ばれた女子生徒は礼も言わずにバンッとドアを閉めて去った。

「先生、もてまくりだなぁ。トモミちゃんだけじゃなくて他にも十人近く先生目当ての女の子が入り浸っているんですよ。でも先生も上手いこと考えましたよね。香夏子さんを秘書にすれば、彼女たちを効果的に撃退できるし、毎日香夏子さんに会えるし、やりたい放題ですなぁ……」

 最後はニヤニヤとしながら言う高山に、香夏子は思わず秀司の机をバンッと叩いて怒りをぶつけた。

「高山さん、私は仕事でここに来てるんです! 二度とそういう不適切な表現をしないでください」

「はい。心がけます」

 香夏子の気迫に負けたのか、しょんぼりとした顔で高山にしては素直に答えた。

 その後、高山はしばらく黙ってパソコンの設定をしていた。香夏子は勤務表に必要事項を記入し、秀司が残していったメモを読む。今日すべきことの項目の中に目を疑うものがあった。

(なに、この……「高山くんに構内を案内してもらう」って……)

 ちらりと高山の姿を見て香夏子は大きなため息をついた。

「できましたよ。それじゃあ、まず何から始めましょうか」

「……ていうか、高山さんはここで私をかまってる暇あるんですか?」

 ニッコリと高山は笑顔を見せた。

「僕の今日の任務は香夏子さんのサポートですから、何でもおっしゃってください」

(げー!)

 大学院生は暇なのだろうか、と香夏子は高山を見て小首を傾げた。

「それじゃあ、まず構内探検でもしてきましょうか」

 香夏子の訝しげな視線をものともせず、高山はすぐに部屋を出る準備を始めた。香夏子も特に異存はないので高山の後に従って構内探検へと出かけた。


 総合大学としてはかなり歴史のある大学だが、建物は近年建て直したようで、大学を離れてからしばらく経つ香夏子はその設備の新しさにいちいち驚いた。

 中でも一番驚いたのはカフェテリアだ。香夏子が通っていた大学にはどちらかといえば清潔感のない食堂しかなかったのに、ここにあるのは若者向けのカフェそのものだ。見た瞬間まるで学生に媚を売っているかのように感じた香夏子は、自分の感覚が相当古いのかもしれないと自嘲気味に思い直す。

「コーヒーでも飲みましょう」

 高山がそう言いながら飲み物のカウンターへ向かった。仕方なく香夏子も続く。

「そういえば、聖夜さんは今頃大詰めなんでしょうね」

 コーヒーに口をつけた高山が突然聖夜の話題を振ってきた。

 香夏子は心底驚いたが、一瞬目を見開いただけにとどめる。高山の言葉の意味を推し量るが思い当たるものがない。返事ができず、香夏子は固まった。

「あれ? もしかして香夏子さん、聞いてないですか?」

「……なんのこと?」

 おそるおそる香夏子は訊く。高山はもったいぶるようにコーヒーカップを口に運び、それをソーサーに戻してから再度話し始めた。

「今度、海外の有名メーカー主催の大きなショーがあるんですよ。テーマに沿ったメイクとヘアスタイルのコンテストがメインらしくて、全国から選ばれたスタイリストだけがショーに出ることができるそうで、聖夜さん、そのファイナリストに選ばれているんですよ」

(……ショー? ファイナリスト?)

 香夏子は高山を穴が開くほど見つめた。

「高山さん、そんな情報をどこから……?」

「ああ、僕の彼女、美容関係のライターなんですよ」

 事もなげに高山は言った。香夏子は眉を思い切り顔の中央に寄せて、更に高山を見る。

「僕に彼女がいるのが意外だって思ってますね?」

「そ、そんなことはないけど……」

「バレバレですよ。いいんです、よく言われます。彼女はきっと物好きなんですよ」

(うんうん!)

 香夏子は心の中で大きく頷いた。勿論、顔はそんなことないというように小さく横に振るが、いろいろな意味でショックを隠せない。

「聖夜さんくらい有名になるとコンテストに出なくてもいいんじゃないかと彼女は言ってますが、香夏子さんが聞いてないとはね」

 それをいちいち強調されると腹が立つが、香夏子はその苛立ちをコーヒーで胃の中へ流し込んだ。

「そのショーはいつ?」

「来月です。残念ながら一般公開はないみたいですけど」

 高山の言葉に香夏子は落胆した。そしてそんな自分自身に呆れる。

(私って……どうしてこう諦めが悪いんだろう)

「コンテストの最優秀賞はロンドンで世界的超有名スタイリストのもとで修行らしいですよ」

(……え?)

 香夏子は耳を疑う。意味もなく窓の外を見た。遠くを見たかったが、視界に広がるのは灰色のビルばかりだ。

(ロンドンで……修行)

 それは香夏子の胸に新たな毒矢となって突き刺さった。毒はじわじわと香夏子の全身に浸透する。

(まだ結果は決まったわけじゃないし……)

 気持ちが激しく揺れ動いた。優勝してほしいがロンドンには行かないでほしい。矛盾した想いが香夏子の中で膨らんでいく。

(でも……)

 脳裏によみがえる映像の一コマ。

 聖夜のマンションの玄関で見た靴の存在は針となって刺さり、その膨らんだ想いは一瞬にしてしぼんだ。

 いずれにせよ、この恋の余命はわずからしい。

 香夏子は冷めたコーヒーを飲み干した。口の中に残る苦さに思わず顔を歪めて、もう一度窓の外へ視線を放った。 

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