第9話 Turn off the television !
「ぎゃはははは!」
こらえきれなくなった湊の笑い声がピンと張り詰めていた空気の中に弾けた。他の三人は一斉に湊に注目する。
「ごめん。私、こういうの耐えられなくて」
目尻の涙を拭いながらそう言った湊に、聖夜が真っ先に表情を緩めた。
「ホント、もうガキじゃないのに、ね」
「だってさー、秀司はこの前、香夏子と聖夜くんが結婚すればいいって言ってたくせに、本当に二人がくっついたらやっぱり許せないんでしょ?」
秀司は不機嫌な顔で湊を睨んだ。眼鏡の奥の目が怖いくらい鋭くなる。
「お前らに俺の気持ちなどわかってたまるか」
「なによ、それ? だいたい秀司の気持ちなんて皆知ってるわよ」
湊は睨まれても痛くもかゆくもないという表情で、子どもを宥めるように言った。秀司の目には憤怒の炎がめらめらと立ち上る。香夏子はいたたまれず顔をそむけた。
「湊、お前はすっこんでろ! これは俺ら三人の問題なんだ」
「ぶーぶー! 仲間外れにされたー」
香夏子は秀司の言葉に眉をひそめた。三人と言うが、香夏子は湊以上に自分が仲間外れにされている気分だった。
「意味が……わからない」
やっとのことでそれだけを口にした。
聖夜が気遣うように笑いかけてくる。せっかく湊と聖夜がこの場を和やかな空気に戻そうとしてくれているのに、直後の秀司の言葉で香夏子はそれに協力できなくなってしまった。
「カナは俺のものだ」
急激に香夏子の頭に血が上り、脳の血管がブツっと二、三本切れたような気がした。何か言おうと意気込んだが思考がまとまらず言葉にならない。
「いい加減にしろ。カナはもともとお前のものなんかじゃない」
聖夜が呆れたようにため息をつく。冷静な声が割り込んできたため、香夏子の戦意はあっという間にしぼんだ。
だが、秀司は聖夜に向かって冷笑を放った。
「じゃあ、お前のものだと言うのか。なるほど。確かに聖夜クンはいつも香夏子の背中に隠れていたな」
「いつの話だよ」
頬杖をついた聖夜はうんざりといった顔で秀司を見る。
「俺はずっとお前のそういうはっきりしない態度が気に入らないんだ!」
ついに秀司は激高した。
香夏子は思わず先生に怒られた生徒のようにシュンと俯いた。だが、すぐに気になって聖夜を窺う。
腕を組んで椅子の背に身を預けた聖夜は、さすがに少し寂しそうな目をしていた。
そこにコンコンとドアをノックする音が聞こえてきた。湊が明るい声で返事をする。
「デザートをお持ちしました」
にこやかに店員が入ってくると聖夜はすぐにいつもの穏やかな表情に戻った。それを見て香夏子はホッとする。目の前にかわいく盛り付けられたデザートの皿が置かれた。
「それで、皆さんにお願いなんですけれども」
全員にデザートを配り終えると、店員が男性とは思えぬ高い声で話し始めた。
「ここにお名前とメールアドレスを書いてもらえると、次回から使っていただける当店のコース料理半額券をプレゼントしているんですが、いかがでしょう?」
「半額!? ほしい!」
即座に湊が反応した。店員は男性とは思えぬなまめかしい笑顔を見せる。
「それ、悪用するつもりじゃないだろうな?」
冗談っぽい口調だが聖夜が釘を刺すように言うと、店員はまたしなをつくって言った。
「悪用なんてしませんよ。お店のイベント情報などをお知らせするときにだけ使わせてもらいますが、個人情報は当店できちんと管理しますのでご安心ください」
「今までそんなことしたことなかったのに」
聖夜はそう言って肩をすくめた。香夏子も差し出された用紙に名前とメールアドレスを書き込んで店員へ渡す。
「ありがとうございます。こちらが半額券です。次回以降にお使いいただけますが、ご使用の際はお手数ですがご予約くださいね。では、ごゆっくり」
艶やかな華のような笑顔を振りまいて店員は去っていった。
(あの店員さんに救われたな……)
香夏子はもらった半額券を手にしながら、自分の中の彼に対する評価が飛躍的に上昇するのを感じた。それから他の三人にならってデザートを口に運んだ。
店を出ると当然のように聖夜と香夏子、秀司と湊の二組に分かれた。もう何事もなかったのような態度の聖夜とは対照的に、秀司は不機嫌なままほとんど口を利かずに湊と連れ立って帰った。
「秀司は本当に変わんねぇなー。あれでよく大学で教えたりできるよな……」
聖夜は苦笑しながら言った。
「頭の良さと人間性は別なんだよ」
香夏子もつられて苦笑いする。秀司は小学生のときから成績はずば抜けてよかったし、おまけに背が高く顔立ちが整っていてカッコいいと女子に絶大な人気があった。
(私も……嫌いじゃなかったけど)
むしろ秀司のことが好きだった。密かに彼が香夏子を特別扱いすることを得意げに思っていたのだ。
(あのときまでは……)
香夏子は改めて隣を歩く聖夜を見上げる。聖夜は夜空を仰いだ。
「やっぱり、秀司は今もカナのことが好きなんだね」
「そんなの知らない」
クスッと笑われる。突然目の奥が熱くなり、こみ上げてくるものを唇を噛んで懸命にこらえた。慌てて香夏子も天を仰ぐ。
「私は……聖夜が好きなの」
言いながら涙が溢れるのをとどめようとしたが、ついに一粒ぽろりと零れ落ちた。こんなところで泣くなんて駄々をこねる子どもみたいだと思うが、自分でもどうにもならなかったのだ。
聖夜が視界に入らないように顔を背けるが、彼がこちらを向く気配がした。そして手が聖夜の大きな手につかまれる。
「それが聞きたかったんだ」
涙が頬を伝ったままの顔を聖夜に向けた。優しい視線が香夏子を真っ直ぐに捉える。握った手に少し力がこめられた。
(よく昔もこうして手を繋いでくれたな……)
いつから聖夜は遠くへ行ってしまったのだろう。
どうして聖夜は遠くへ行ってしまったのだろう。
一度離れてしまった彼は香夏子のあずかり知らぬ世界の住人となって、今、また香夏子の隣にいる。聖夜とは幼い頃よりもっと深く結びついたはずなのに、香夏子はなぜかあの頃のような温かく安らかな気持ちにはなれなかった。
(遠すぎるよ……)
十年の間、一度も会わなかったのに、会った途端その間の空白などなかったかのように香夏子に接してくる秀司と嫌でも比較してしまう。そんな自分が悲しかった。
それから二週間ほどは穏やかな日々が過ぎて行った。
聖夜はやはり何もなかったように香夏子に対してはいつも優しい。しかし取り立てて感情をあらわにすることがないので、本当は何を考えているのか香夏子にはよくわからなかった。
一緒の布団に眠ることにはすっかり慣れたが、聖夜が自分の身体に触れてくると心臓が締め付けられるように痛くて辛い気持ちになるのは変わらない。たぶん幸せすぎて心臓が悲鳴を上げているのだと思う。だが、キリキリとした痛みはすぐに聖夜の蕩けるようなキスと長い指の巧みな愛撫によって陶然とした甘い疼きに変わった。
(ずっとこうしていて……)
香夏子はこの短期間で愛欲の海にどっぷりと浸かり、それに喜んで溺れた。同時に聖夜と一緒にいると、これまで覚えのなかった欲求がどんどん湧き上がってくることに恐れをなした。
(ずっと私に触れていて……)
いつからこんなふうに淫らな想いを抱くようになったのだろう。
もし居候生活が終わってしまってもこの想いが消えなかったら、と考えると香夏子は怖くなる。まるで自分が別の生き物にでもなってしまったかのような感覚だった。
そんなある日、聖夜の帰宅を待ちながらテレビを観ていた香夏子はそのテレビの画面の中によく見知った人物が映っていることに驚愕した。
「はぁ!? 秀司?」
誰もいないというのに思わず大きな声が出た。
そこにタイミングよく聖夜が帰ってきた。部屋に入ってきた聖夜は、香夏子が無言でテレビを指差すのを見て素直にテレビに視線を向けた。
「うわー! これ、本物?」
聖夜の反応に香夏子は噴き出した。どこからどう見ても秀司だ。しかもスーツの着こなし方が憎いほど決まっていた。シャツとネクタイはシックだったが彼の雰囲気に似合っていて、誰が見てもお洒落だと思うだろう。
報道番組の特集のコーナーでコメンテーターとして出演しているようだが、秀司が画面に映ると他の人が霞んだ。
「録画する?」
聖夜が笑いながら尋ねてきた。ハッとして香夏子は聖夜に向き直る。そして険しい顔で首を何度も横に振った。
「今、めちゃくちゃ見入ってたでしょ?」
ギクッとしたが、香夏子はありえないという表情で笑った。
「まさか! 偉そうに専門家みたいなこと言ってるから、ボロが出るんじゃないかと待ち構えてたの」
「心配なんでしょ?」
「なんで私が秀司の心配なんかしなきゃいけないのよ」
聖夜が隣に来て肩にふわりと手を置いた。
「カナは心配性だから」
「そ、そんなことない!」
肩に置かれた手から腕をたどって聖夜の顔を見上げると、唇がニヤリと笑みの形に歪む。あっ、と思ったときにはもう両手で頬を覆われてキスされていた。
目を瞑って口内をゆっくりと嘗め尽くす舌の動きを心ゆくまで味わう。唇が離れると意地悪な光を宿した聖夜の目がじっと香夏子を見つめていた。
「テレビ、消して」
まるで人形のようなぎこちない動きで香夏子はようやく首を縦に動かした。すぐにリモコンを手にとって電源ボタンを押す。
「いいの? 観なくて」
テレビを消すように言ったのは聖夜なのに、そう問われた。試すような視線が香夏子を縛りつける。またゆっくりと首を縦に振ると、口元にだけ残っていた笑みも聖夜の顔から消えた。
「もうカナは秀司のものじゃない」
うん、と首を再度縦に振る。首が縦にしか動かなくなったようだ。
「もうアイツには渡さない」
(本当に?)
聖夜の顔を穴が開くほど見つめながら、ドキドキと自分の心臓が耳元でうるさくなるのを黙って聞いていた。冗談なら今のうちにそう言ってほしい、と聖夜の顔を見ながら思う。そうでなければその言葉を鵜呑みにしてしまうからだ。
「私は……」
言いかけた言葉を聖夜の唇が奪っていった。もう何も考えられなくなる。聖夜が求めるまま、香夏子は自分の全てを彼に投げ出した。
そのテレビ出演の後、秀司の本は話題になり、相乗効果でメディアへの露出が急激に増えた。主に子育て世代の女性の人気を集めたようだった。香夏子も同じ世代だが、子どもがいないどころか結婚もしていないので、秀司が全く別世界のアイドルになってしまったかのように感じていた。
当然のことだが、香夏子の日常は何も変わらない。
会社で森田と顔を合わせても、やはり少し気まずいだけでお互い無視するようになっていた。もう彼は自分に対して何の思いも持っていないだろうという気がしてきたが、それを聖夜には言えないでいた。
久しぶりに香夏子の部署で飲み会をすることになり、数少ない女性社員ということで香夏子はほぼ強制的に参加させられた。
お酌をするのは苦手なのでできるだけしなくてすむように年長者の席には近寄らないようにしてやり過ごしていた。自然と年下のグループに囲まれて、香夏子はそれほど強くもないのに彼らのペースに合わせて珍しく何杯もおかわりをした。次第に陽気な気分になり、ますますお酒が進む。
気がつくといつの間にか隣に森田がいた。
さすがに香夏子は驚き、背中に冷や汗が噴き出した。しまった、と思ったがもうどうしようもない。突然席を立つのは不自然で、非常事態にもかかわらず周囲の目が気になって身動きが取れなくなってしまった。
しばらく適当に話を合わせながら、少しずつにじり寄ってくる森田から何とか身をかわす。頃合いを見計らって「ちょっと失礼」と言いながらトイレに立とうとした。
だが、立ち上がってみて香夏子は自分の足元のおぼつかなさに焦る。ずっと座りっぱなしで飲んでいたせいか、立ち上がった途端酔いが急速に全身に回ったようだ。
「大丈夫?」
森田が香夏子の異変に気がついて立ち上がろうとしているのが見えた。
(近寄らないで!)
香夏子の意志とは無関係に意識は朦朧とし、視界が狭まった。耳鳴りがしてグラリと自分の身体が傾くのを他人事のように感じたそのときだった。
「カナ! 男の前で酒なんか飲むな」
力強い腕に支えられて抱き起こされた。薄れゆく意識の中でもそれが誰の声か香夏子にはわかる。
(嘘……!?)
そう思うのと同時に香夏子の意識は途絶えた。
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