第10話 Now is the time to go !

 気がつくと朝で、知らない部屋のベッドの上に寝ていた。

「うわぁ!」

 香夏子は思わず声を上げて飛び起きた。まず衣服を確認するが、昨夜のままで脱がされたような形跡はない。ひとまず安心する。

 次にここはどこだろうと考えた。部屋を見回してみると、壁際に並んだ本棚にはぎっしりと本が詰まっていて、ところどころに飛行機の模型が置いてある。

 たぶん間違いない。

(まずい……。秀司の部屋だ)

 昨晩、飲み屋で倒れそうになったところになぜか秀司がいた。そしてその後の記憶がぷっつりと途絶えている。たぶん秀司がここまで連れてきてくれたのだろう。

 ともかくベッドから出て部屋のドアを開けた。廊下があり、突き当たったところがリビングのようだ。わざと音を立てて寝室のドアを閉めた。

「えっと……おはよう」

 リビングのドアを開けて香夏子は小さな声で言った。まだ少し頭がふらふらしていたが、二日酔いというほどではなさそうだ。

「おはよう。気分は?」

 秀司はソファに座って読書していた。傍らには何冊かの本が積み上げられ、片手にペンを持っている。

「おかげさまでかなりいい。昨晩はご迷惑をおかけしまして……」

 香夏子は軽く首だけで会釈した。秀司は一瞬目を上げたがすぐ本に視線を戻す。

「つまらん飲み会に参加するからだ」

「会社の飲み会だから断れないんだもん。……ていうか、なんであそこに秀司がいたのよ?」

 ドアから二歩入ったところで香夏子は硬直したように突っ立っていた。これ以上秀司のテリトリーに踏み込むのは危険だと本能的に感じる。

「そりゃ襖を挟んで隣が飲み会の席になっていたからだろうな。三十を過ぎてあんなところで倒れるヤツがいるか? カナは肝心なところが抜けているからロクでもない男にひっかかるんだ。いい加減自覚しろ」

 秀司は文章を目で追いながら答えた。いつものことだが二言も三言も多い。

 香夏子だって自身のアルコール許容量くらいはわきまえているつもりだ。それなのに気を失うとは不覚だった。憎たらしいが言い返す言葉が見つからず、頬がピクピクと痙攣する。

「そういえば湊も職場の飲み会は断れないと言ってたな。この国の悪しき慣習だな」

 湊の名前が出てきた途端、香夏子は心の中に何か引っかかるものを感じた。だがすぐに気のせいだと思い直す。

「へぇ、やっぱり湊と仲いいんだ」

 気がつけば口からそんな言葉が出ていた。

「たまに電話が来る」

(電話もメールも私には用のあるときしかよこさないくせに、秀司には連絡してるんだ……)

 香夏子はポーカーフェイスを保ったまま「ふーん」と頷いた。

「アイツ、最近デカいネコを飼ったらしい。やたらに餌代がかさむとこぼしていた」

「ネコ……」

 ネコアレルギーの香夏子はしばらく湊の家には行けないな、と思う。同時に理由はわからないが、徐々に心の中がムカムカとした嫌な想いでいっぱいになり、たえられなくなってきた。

 これ以上会話を続けていてもいいことは何もない。香夏子は秀司をキッと睨みつけて短く「帰る」と言い放った。それから回れ右をして玄関に放置されていた自分のバッグを拾い、靴を履く。秀司が本を置いて玄関まで出てきた。

「カナ、隣に座っていた男が問題のヤツだろ?」

(…………!)

 驚いて振り返ると秀司が腕を組んで仁王立ちしていた。

「そんな会社は辞めて、俺の秘書になれ」

 香夏子は突拍子もない命令の前に言葉を失った。

(秀司の……秘書?)

 メディアへの露出が増えても研究を疎かにしていないことは、この短時間の滞在でも窺い知ることができた。認めるのは癪だが、秀司には口だけではない一面も確かにある。

 香夏子の中に迷いが生じた。

「ボランティアじゃないでしょうね?」

「勿論、給料は支払う。今の給料以上に出してやる」

 香夏子は訝しげに首をひねった。そんなことが可能なのだろうか。

「その気になったら連絡しろ」

 秀司はそう告げるとさっさとリビングへと踵を返した。ポツンとひとり玄関に残された香夏子は慌てて秀司の家を飛び出した。


 外に出た香夏子はとりあえずケータイを取り出した。朝日がまぶしい。

 聖夜には飲み会だと伝えてあったが、まさかの無断外泊をしてしまった。心配しているだろうか、と思いおそるおそるケータイを見るが、メールも電話も着信はない。

 香夏子は複雑な顔でケータイの待ち受け画面を眺めた。しばらくそのまま黙って見つめていたが、やはりウンともスンとも言わない。諦めてまたバッグに戻した。

 顔を上げるとちょうどタクシーが通りかかったのでそれに乗った。

 聖夜のマンションの前でケータイの時計を見る。土曜の朝だ。まだこの時間なら聖夜はいるかもしれない。

 覚悟してエレベーターに乗った。

 エレベーターが止まり、ドアが開く。途端に緊張してきた。聖夜に顔を合わせたら何と言えばいいのだろう。

 ドアの前で深呼吸する。決心して鍵を開けようとした。

(……あれ? 開いてる?)

 鍵が手応えなく空回りした。首を傾げながらドアを開けた香夏子の目にまず飛び込んできたのは見慣れない靴だった。その靴に視線が釘付けになり、香夏子は固まった。

(…………!!)

 急にその意味を理解した香夏子はすぐに身を翻し、ドアを閉めてエレベーターに駆け込んだ。意味もなく一階のボタンを連打する。

(早く、早く、早く!)

 一刻でも早くここを立ち去らねば!

 エレベーターが階下に到着すると香夏子は無我夢中で走った。どこに向かっているのか自分でもわからない。ただがむしゃらに走った。

 その間ずっと先ほど見た靴の映像が頭の中に焼きついて離れない。

 黒いエナメルのバレエシューズ。見間違えるはずもない。女物だ。

 気がつくと駅が見えた。さすがに息が切れて香夏子はペースダウンしてゆっくり歩く。呆然としながら吸い込まれるように駅に入り電車に乗った。

 車窓を流れていく景色を見ながら、ついにそのときが来たのだ、と思った。

(そうだよ。最初に聖夜がそう言ってたもの)


『彼氏のフリくらいしてやるよ』

『ついでにしばらくここにいたら?』


 香夏子は長い嘆息の後に下を向いた。突然涙が溢れてきたのだ。同じ車両の中にはラッシュ時ほどではないものの、多くの人が乗っている。だが、香夏子にはもう人目などどうでもよかった。

 ポタリ、ポタリと涙が床に落ちる。

 わかっていたことだ。聖夜と自分とでは釣り合いが取れないのだ。彼にはもっとお似合いの女性がいるし、彼もそういう女性を選ぶのだ。

(私じゃない……)

 やっぱり自分ではないのだ、と思うと次から次へと涙が零れ落ちた。

 あの日の夕暮れを思い出す。

 聖夜とは高校が別々になり、隣に住んでいるのにほとんど顔を合わすことがなくなっていた。

 そんなある日、ばったり家の前で久しぶりに聖夜に会った。だが、聖夜はひとりではなかった。

 聖夜の隣にいる女子を見た香夏子は一瞬息が止まった。

 香夏子たちと同じ中学出身の女子だった。香夏子たちの学年の中では飛び抜けて顔もスタイルもよく、おまけに成績まで良くて誰もが一目置く存在だった。

 彼女は香夏子に勝ち誇った笑顔を見せた。その表情に打ちのめされた香夏子は無言で家に駆け込んだ。そしてノロノロと自分の部屋に入った。

 窓の向こうに聖夜の姿が見えた。目をそらすことができなかった。

 聖夜と束の間見つめあった。

 その後、カーテンが閉められた。

 

 香夏子は自宅の最寄り駅で降りた。立ち止まって再びケータイを取り出してみた。先ほどと何の変わりもない。

 それを鞄にしまうと香夏子は勢いよく歩き始めた。

 まず駅のそばにあるケータイのショップに立ち寄る。今のケータイを解約して別のケータイを新規契約しデータを移行してもらう。さすがに全てのデータを失う覚悟はできなかったのだ。

 ケータイショップを出ると次は不動産屋へ向かった。今のマンションから離れた場所の物件を間取りと値段を見ただけで即決する。内金を渡し、すぐさまお金を下ろしてきて契約を交わす。契約時にかかる費用を全額支払うとすぐに鍵をもらえた。

 それからマンションへと向かった。マンション前には人影は見えない。素早くエントランスを通り抜け自室へ急ぐ。

 久しぶりに我が家へ帰ってきたというのに香夏子は上着も脱がずにごそごそとチラシを探した。

「あった!」

 誰もいないのに声を上げた。すぐにそのチラシに書いてある番号をダイヤルする。

「えーと、引越しをお願いしたいのですが、今すぐ来てもらえませんか?」

 初めからこうすればよかったのだ、と電話しながら思った。こんな簡単なことだったのに、何を勘違いしたのか自分は勝手に期待して勝手に傷ついているのだ。身の程知らずの己が憐れに思える。

 だが、今は考えている場合ではない。その後は慌しく引越しの準備を始めた。


 その夜、香夏子は新居でようやく一息つくことができた。実際の物件を見もせずに決めてその日のうちに引っ越すという夜逃げ同然の荒業をやってのけたのだ。案外自分もやればできるものだ、と妙な達成感に浸る。

 新しいケータイを目の前に置いてしばらく考えていたが、思い切って秀司に電話した。

「あの……本当に私を秘書として雇う気ある?」

「勿論だ」

 秀司の声が頼もしく耳に響いた。

「じゃあ、私、月曜日に会社辞めてくるね」

「それは最良の決断だな。では、辞めたらその足で大学へ来い」

 うん、と頷いて電話を切った。

(これでいいんだ)

 きっと何もかも中途半端にしていたのがいけなかったのだ。香夏子はそう納得した。

(これは逃げじゃないんだ。新しい自分の始まりなんだ)

 誰がなんと言おうと、自分がそう思うからそうなのだ。失恋したくらいで絶望することなんかない。『転んでもただでは起きぬ』とはまるで自分のためにある言葉のようだ、と独りの部屋でクスリと笑った。

 不思議とすがすがしい気分になった。長い間締め切っていた窓がようやく開け放たれ、新鮮な空気が澱んだものを浄化していくようだ。

(これで……いい)

 もう一度心に言い聞かせる。

 それから自分の布団に潜り込むと、香夏子の意識は疲れた身体に引き摺られるように眠りの国へと落ちていった。

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