第8話 You cannot make her happy !

 一睡もせずに出社した香夏子は、頭の中に尖った針のようなものが突き刺さっているような違和感に悩まされていた。

 だがそれを振り払うように頭をブルブルと二、三度震わせると意を決して立ち上がった。目指すは課長席だ。課長はパソコンの画面に向かって独り言を呟いている。

「お忙しいところ恐縮ですが、課長、少しお時間いただけませんか」

 香夏子は一応控えめな態度でそう頼んだ。課内外でこれほど軽んじられている課長もなかなかいないだろうと思う。香夏子としては彼を通り越して部長に直接話をしてもいいのだが、やはりここは筋を通すべきだろうと考えたのだ。

 香夏子の改まった態度に、この凡庸な課長もさすがに何かを察したのか、

「じゃあ、会議室で話を聞こう」

 と、すぐに腰を上げた。いつでもこれくらい対応が早いといいのに、と香夏子は思う。


「実は、会社を辞めたいと思ってます」

 単刀直入に香夏子は言った。課長は持ってきたメモ帳を開きながら、香夏子の言葉を復唱する。

「会社を辞めたい、と。……え!? 突然、どうした? 理由は?」

 途中で事の重大さに気がついた課長は目を見開いて香夏子を凝視した。理由と聞かれて香夏子は一瞬戸惑う。

 課長の顔がニヤリと歪んだ。気味が悪い。

「ん? もしかして寿か?」

(……この人は本当にデリカシーがなさすぎる!)

 内心憤りながらも香夏子は微笑んだ。

「残念ながら違います」

「そうか。じゃあ何だ?」

「理由は……特にありません」

(あるとしても、自分にもよくわからない)

 思いつきで辞めたいと言い出したわけではないが、他人に説明できるような理由が見当たらない。だが、このまま惰性で仕事を続ける気にもなれなかった。

(あの人と毎日顔を合わせるのはもう嫌だし)

 マンション入り口の柱の陰から突如森田が出現したときの驚きと恐怖は一生忘れられそうにない。

「辞めて、その後どうするんだ? もう決まっているのか?」

 至極もっともな質問が投げかけられた。香夏子はやはり自分の行動は軽率すぎただろうかと思い始める。

「……何も決まってません」

「おいおい、辞める理由はないし、その後も決めてないんじゃ誰も納得しないぞ。それとも言えないような何か込み入った理由なのか?」

 最後は声を潜めて言う。会議室には課長と香夏子の他に誰もいないのだからその必要はないのに、だ。それが香夏子の癪に障った。

「そう言えば課長は納得されるんですか?」

 もしかするとこの男は森田とのことを知っているのかもしれない、と香夏子は一瞬疑う。だが、この鈍臭い課長に限ってそれはないだろうと思い直した。

「いや……。だけどもし何かトラブルが原因だとしたら、それは是非教えてもらわないと」

「何もないです。とにかく一身上の都合で辞表を出したいと思います」

 香夏子はきっぱりと言った。頭の中の針が普段以上に香夏子を冴え渡らせているようだ。

 課長はしばらく考えるような顔つきをしていたが、香夏子の意志が案外固いと悟ったのか渋々口を開いた。

「わかった。そこまで言うなら部長に相談してみよう」

 第一関門はクリアした。そう思うと香夏子は少し気持ちが軽くなったように感じた。


 課長と一緒に会議室を出て部署へ戻る途中、森田の席が見たくもないのに視界に入ってくる。

 森田の席では彼の後輩たちが彼を囲んでいた。その光景を見た瞬間、香夏子はうんざりした。

(また腕時計自慢か……)

「あの森田くんのしてる腕時計って高いんだよねー! 車一台分くらいするんでしょ?」

 課長も同じことを考えていたらしく、香夏子にそう話しかけてきた。

「そうらしいですね」

(あの時計のおかげで……)

 香夏子は目を背けて深くため息をつく。

 昨夜、聖夜が切羽詰った状況に気がついてくれたのは、確かにあの時計のおかげだ。

『もう……やめなよ』

『もっと自分を大切にしないと。カナは女の子なんだし』

 デスクに戻った香夏子はパソコンに向かい、真剣な顔で仕事をするフリをした。

(でもね……)

 香夏子は喉元にこみ上げてくるほろ苦いものをもう一度飲み下す。

(寂しかったんだよ、きっと)

 自分を大切にしたところで、香夏子の気持ちは届くはずがないと長い間思い込んでいたのだ。だが、あまりにも長い片想いにじっと耐えていられるほどの強靭な心の持ち主でもない。見せ掛けの優しさでもないよりはマシだった。

(それにしても、昨日は一度にいろんなことが起きたなぁ……)

 まるで嵐のような一夜だった。聖夜が長い歳月をまたいでいきなり自分の傍に来てくれたことに、今でもこの上ない喜びと戸惑いを感じている。その心の振幅が大きすぎて最初は逃げ出してしまったが、ようやくこれが夢でも幻でもなく現実に起こった出来事なのだと受け止めることができるようになってきた。

(でもやっぱり信じられない!)

 聖夜の長い指が髪を撫でる感覚がよみがえる。幼い頃に頭を撫でてくれた小さな手ではなく、包み込むようなぬくもりのある大きな手。彼が大人の男性なのだと知ったのは香夏子も同じだった。

 突然、目の前の電話が鳴った。

 香夏子は慌てて頭を切り替える。受話器を取ると部長からの呼び出しだった。


「おおよその話は聞いたけど、今は辞表を受け取ることはできないな」

 目の前の部長は反論を受け付けない威圧感がある。香夏子は無意識に視線を落とした。返事をしない香夏子を気遣ってか、部長は少し優しい口調で続けた。

「どうしても辞めなくてはならない事情があるなら引き止めることは難しいが、そうでないなら、まだこれからという部下を簡単に辞めさせるわけにはいかないよ」

 香夏子は迷った。辞めたい理由として森田のことを話せば、もう少し真剣に取り合ってもらえるかもしれない。

(でも、やっぱり言えないな。それに森田さんのことがなくても、いつか辞めたいと思っていたし……)

 部長は更に香夏子を評価する言葉を並べて、考え直すようにと迫ってきた。上手く丸め込まれたような気がするが、今の香夏子には首を縦に振るしか選択肢はなかった。


 会社を定時で上がり、香夏子は逸る心を抑えて聖夜との待ち合わせ場所へ向かった。聖夜は既に到着していて、香夏子の姿を見つけるとニッコリと笑顔を見せる。それだけで香夏子の心臓は軽く跳ね上がり、早鐘を打ち始めた。

「あの男と話した?」

 聖夜は香夏子を促して歩き始めた。

「ううん。二人きりにならないよう避けていたし、向こうも特に……。もう私には興味なくなったんじゃない?」

「だといいけど」

 そう言った聖夜は駐車場に手招きした。香夏子はてっきり歩いていくのだと思っていたので驚いた。

「え? 車、持ってたの?」

 聖夜は香夏子の顔を面白そうに見る。

「うん。店にはお客様用の駐車スペースしかないから、普段はほとんど乗ってないけど」

 聖夜の勤める美容室は高級ブランド店や人気のショップが立ち並ぶ通りにある。香夏子の会社から徒歩で十分くらいの距離だ。確かに車で通うよりは公共交通機関を使うほうが便利だろう。

「そうなんだ。知らなかった」

「俺も案外使えるでしょ?」

 そう言って聖夜は車のドアを開けた。香夏子もドキドキしながら助手席に乗り込む。寝不足のせいもあるかもしれないが、ふわふわとして夢を見ているかのような不思議な気分だった。

 香夏子のマンションに到着すると二人は用心しながら玄関に向かった。今日のところは不審者の影は見当たらない。ホッとしながら香夏子の部屋へ向かった。

 昨朝以来の帰宅だが、もう何日も家を空けていたような気がする。自分の部屋の匂いが懐かしく感じられた。

「お邪魔します」

 聖夜は礼儀正しく挨拶をして入ってきた。それを聞いて香夏子はクスリと笑う。前回もそうだったな、と思い出したのだ。

「じゃあ、準備してくるからその辺に座って待ってて」

「うん。ごゆっくり」

 ソファに腰を降ろした聖夜は雑誌を手に取った。OL向けのファッション誌だ。普通の男性はあまり興味がないと思うが、聖夜にとっては仕事上こういった雑誌を読むのも必要なことらしい。香夏子はその姿を少しの間眺めてから、着替えや化粧品などを鞄に詰める作業を開始した。


 しばらくするとチャイムが鳴った。

 香夏子は怪訝な顔でインターホンのモニターを見る。聖夜も立ち上がって見に来てくれた。宅配便のようだ。

「出たら? 荷物みたいだよ?」

 聖夜の言葉に頷いて香夏子は通話ボタンを押す。程なく玄関のチャイムが鳴った。

「俺が出ようか?」

 香夏子は黙って頷いて聖夜にシャチハタ印を渡した。こういうときに男性がいてくれるのは本当に心強いと聖夜の背中を見て思う。

「実家からみたいだね」

 届いた荷物はみかん箱ほどのダンボールで、荷札の差出人は香夏子の母だった。月に一度くらいの割合で送られてくる定期便のようだ。

 開けてみると果物や缶詰などの食料品とともに、一冊の本が入っていた。

「何これ?」

 香夏子の取り出したものを見た聖夜も眉をひそめた。

「俺には著者名が秀司の名前に見えるんだけど……」

「……秀司、本なんか出したのかな?」

 パラパラとめくってみると、どうやら乳幼児への早期教育についての功罪について書かれた本のようだ。

 香夏子は居酒屋での秀司の言葉を思い出し、これが彼の研究分野だということに気がついた。

(これが「ぎゃふんと言わせるような何か」……?)

 そしてカバーの表紙裏部分に秀司の写真を発見して固まった。

「うわ! やっぱり間違いなく秀司だ」

 聖夜は嫌なものでも見たかのような顔をしてソファーにドスンと背中を預けた。

「だけどさ、アイツ自体が早期教育の賜物みたいな人間でしょ?」

 香夏子も聖夜の意見に賛成だった。秀司の母親はいわゆる教育ママで、秀司は幼い頃から習い事に励み、学生時代は塾通いに忙しかった。それも秀司の父がエリートで、子どもたちの教育費には糸目をつけない主義だから可能だったのだろう。香夏子の家では考えられない話だ。

 聖夜の家もどちらかというと香夏子の家と似ている。そもそも聖夜の実家は理・美容室で、香夏子の実家はクリーニング店だった。両親は常に店のことで忙しく、秀司の母親のように付きっ切りで習い事に通う余裕などなかったのだ。

「しかし、本なんか出しちゃって、やっぱ秀司はすげぇな」

「そう? 私には聖夜のほうがすごいと思うけど」

「俺のどこが?」

「それは……ほら、有名人がお客さんだったり……」

 聖夜がプッと噴き出した。

「俺はただ髪を切ってるだけだから」

「そうかもしれないけど……」

 そこに突然香夏子のケータイの着信音が響いた。二人は一瞬顔を見合わせる。鞄から取り出しておそるおそる見ると、湊からのメールだった。

「湊からだ! えーと、『この度、秀司の研究書出版を記念してささやかながら身内でパーティーを行いたいと思います』だって」

「身内って?」

「えーと、『つきましては香夏子から聖夜くんにも出席してもらえるよう連絡お願いします』……って」

「もしかして、また四人なのかな?」

「そうかも。聖夜、行く?」

「うん。一応幼馴染だし、祝ってやりたいし?」

「じゃあ、私も行こう」

 すぐに短く返信を打ち込んで送った。それから荷物をまとめて、二人は香夏子のマンションを後にした。


 聖夜の家での居候生活が始まった。

 帰宅時間の遅い聖夜とは生活のサイクルが少しずれているが、香夏子にとってはそれでも十分幸せで何の不満もなかった。勿論、居候なのだから不満など言える立場ではない。

 会社でも、たまに森田のねちっこい視線を感じることはあるが、表立って何か仕掛けてくるようなことはなく、今すぐ辞めたいと思う切羽詰った気持ちは影を潜めていた。

 森田がきっかけで始まった居候生活だが、不謹慎ながらこのままずっと続けばいいのに、と香夏子は思い始めていた。

(でも、そういうわけにもいかないだろうな。聖夜も「しばらく」って言ってたし)

 森田の問題がなくなれば香夏子は自分のマンションに戻らなければならないのだ。その日ができるだけ遅くやってきてくれればいい、と思う。

 そうこうしているうちに、秀司の出版記念パーティーの日がやって来た。

 待ち合わせの駅名を聞いて香夏子は、もしかして、と思ったが、予感は的中した。パーティーの場所は聖夜に連れて行ってもらったレストランだった。

 聖夜と連れ立って現れた香夏子に、秀司と湊は目を見張った。

「なんかいい雰囲気ですね、お二人さん」

「そ、そうかな?」

「ね? 秀司、そう思わない?」

 湊が秀司の腕を軽く叩きながら問いかけたが、秀司は聖夜と香夏子を見比べただけで何も言わない。聖夜がまず店に入ろうと一同を促した。

「いらっしゃいませ。ご予約の……って、あ! 聖夜さん。と、幼馴染の……」

 今日も黒いスカートをはいた女装趣味の店員が長い髪を揺らして応対に出てきた。彼の言葉に湊は素早く反応する。

「やっぱりー! 二人でこそこそデートしてたんだ」

「こそこそって……」

「だって聞いてないもん」

 口を尖らせてふくれ面をした湊を見て店員は微笑んだ。

「お席にご案内します」

 そう言って店員は香夏子たち四人を個室へ案内した。円卓に男性と女性がそれぞれ向かい合う形で座る。香夏子の隣は聖夜と秀司で向かいに湊だ。

 すぐにシャンパンが運ばれてきた。

「じゃあ、まず乾杯といきますか!」

 湊がグラスを持って掲げた。全員グラスを持ち上げる。

「それでは秀司の小難しい研究書の出版を記念して、かんぱーい!」

 グラスをそれぞれ軽くぶつけると、香夏子は少しだけシャンパンに口をつけた。秀司は一気飲みするとグラスを置くなり勢いよく口を開く。

「言っておくが、あれは『小難しい研究書』などではない! 誰でも読める平易な日本語で書かれている。それに、だ。出版したことを誰にも言ってないのに、なぜ皆知ってる?」

 湊が首を傾げた。

「うちに届いたよ。うちの母親から送られてきたの。何でも秀司のお母さんが高校の同窓生に配っているらしいよ」

「……あのサユリは余計なことを……!」

 サユリは秀司の母親の名前だったな、と香夏子は懐かしく思い出す。サユリさんは地元では美人で有名だった。秀司は母親似の顔立ちで父親譲りの長身なのだ。

 それからしばらくは秀司の本の内容や家族の話題で和やかに食事が進んだ。ひとしきり食べてデザートを残すのみとなったところで、話も一段落する。香夏子がふと正面を見ると、湊がニヤニヤと笑いかけてきた。

「そろそろ香夏子と聖夜くんのことを聞きたいなー」

 香夏子は突然心臓が痛くなった。どうしようか、と思って聖夜を見るとグラスを呷っている。香夏子の視線に気がつくと、聖夜はグラスを置いて少し微笑んで見せた。

「カナはいろいろあって、今、ウチにいるんだ」

「えー!? 何それ? 一緒に住んでるの?」

 湊が個室の外にも響くような大声を上げた。

「えーと、居候させてもらってるの」

「ちょっと、いつの間にそんなことになってるのよ? あー! この前、夜中に電話くれたとき?」

 すっかり興奮状態にある湊は身を乗り出してきた。逆に香夏子は引き気味の体勢になる。

「うん。会社の同僚がマンションの前で待ち伏せしてて、家に入れなくなっちゃって……」

「ヤダ、こわーい! でもそれで二人はラブラブになったということね。いいなー!」

 それまで静かに沈黙していた秀司がわざとらしく咳払いをした。

「よくないな。全然よくない!」

 低い声が個室の空気を冷たくする。秀司は聖夜を正面から見据えた。

「ようやくお出ましというわけか。それにしても今更ノコノコ出てきてどういうつもりだ」

 聖夜は無言で秀司を睨みつける。だが、それをものともせず秀司は続けた。

「お前はカナを幸せにできない」

「お前に言われたくないな」

 間髪を入れず聖夜が言い返した。聖夜と秀司の睨み合いが続く。

 香夏子はハラハラして何かこの場を取り繕う言葉を懸命に探すが、見つかりそうもない。しかも突然二人が自分のことで言い争い始めた理由がわからなかった。身動きするのもいけないことのような気がしてヒヤヒヤとしながら湊を盗み見ると、俯いて神妙な顔をしている。

 だが、よく見ると肩が小刻みに震えていて、この険悪な雰囲気の中で湊はひとり笑いを噛み殺しているのだった。

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