第5話 He gave me a kiss !
聖夜の店に行った翌日は月曜日だった。香夏子は重い足を引きずりながら出社した。
更衣室から出ると薄暗い通路に人影を発見する。
(……あ)
香夏子は一瞬目をそらす。だが、相手は香夏子をまっすぐ見つめてきた。
「おはよう。……最近、ずいぶんとよそよそしいね」
「おはようございます」
「俺、何か気に障るようなことしたかな?」
相手の男性は同僚だ。課は違うが同じフロアなのでほぼ毎日顔を合わせている。とはいえ、これは香夏子としては嬉しくない状況だ。
「……いえ」
「また一緒に飲みに行こうよ」
相手は香夏子に顔を近づけた。うつむき気味の香夏子の顔を覗きこむようにする。
「……それは無理です」
「どうして?」
純粋に不思議そうな顔だった。それが香夏子にはわからない。
(だって、あなたはもう……)
「私、今、付き合っている人がいるんです」
香夏子は嘘をついた。虚勢を張っているわけではない、と自分に言い聞かせる。
(だって、あなたのことは好きだったわけじゃないから)
相手の表情が曇った。その顔を見ると香夏子の意思に反して胸が疼く。だがすぐに相手は気を取り直したのか、大きく息を吐いてから言った。
「そっか。でもたまには一緒に飲もうよ」
彼氏がいてもそれくらいはいいじゃないか、という口調だった。
「ええ。他の人と一緒なら」
香夏子はようやく笑顔を作ることができた。相手はそれを見て唇を噛んだ。
突然両腕をつかまれる。彼の腕時計がスーツの袖口から顔を出した。
「カナ……」
「やめて! だって、あなたはもう奥さんがいるんだから!」
きっぱりと言い放って香夏子は立ち去った。これ以上話をしていたら最悪の気分になるだろう。
(昨日は久しぶりに嬉しいことがあったっていうのに)
ズンズンと音を立てそうな歩き方で香夏子はデスクに向かう。歩きながら通路で会った男のことを強制的に頭から追い出した。
デスクについた香夏子の隣では同じ課の男性社員たちが既に何かの話題で盛り上がっていた。邪魔にならないように挨拶した香夏子も耳を傾ける。
「しかし退職金一千万円って考えようによってはいい話だよな」
(一千万!)
香夏子の耳は突然ダンボ状態になった。
「定年間際なら実際オイシイ話だよ。もう何人も応募してるらしいね」
「だって俺たちが定年まで勤めたとして、その頃退職金なんて出るのか?」
「まず無理だろうな。株価も低迷中だしよぉ。でも一千万もらって辞められるか? この年齢にこの不況じゃ次の仕事なんか見つかるわけねぇし」
「そうだな。カアチャンに離婚されちゃうなぁ……」
そこで一同は和やかな笑いに包まれた。香夏子も微笑を浮かべながら隣の席のノートパソコンを密かに見る。どうやらこの会社でも早期退職者を募集し始めたらしい。
(一千万……か)
香夏子はなぜかそのことが気になって仕方なかった。自分のパソコンを立ち上げて、早速その告知を見た。
(一千万もらって辞めたとして、それで何年生活できるだろう?)
香夏子の年収と比較すれば三年分くらいになるだろうか。香夏子の年齢で考えればこの早期退職の条件に大した魅力はないと言えるだろう。だが、頭の中に一千万の言葉がねばっこく貼りついていた。
(一千万もらって辞めちゃおうかな)
先ほど通路で会った男の顔が思い浮かぶ。
彼とは付き合っていたわけではなかった。最初はただの飲み友達だったのに、と束の間過去を懐かしむ。ずっとそのままならよかったが、そうでないから男女は面倒だと香夏子は思う。
相手に彼女がいることは何となく知っていた。だが知らないふりをしていた。香夏子も本気で彼と付き合いたいとまでは思っていなかったからだ。
(……やめておけばよかったな)
彼が結婚したと聞いてもそれほど傷つきはしなかったが、ただ後味の悪い苦い思いだけが残った。割り切っているつもりだったが、心はやっかいなものでそう簡単に要らない部分だけを削除できないものらしい。
(はぁ……。やっぱり一千万もらうべきか)
とりあえずその思いつきは保留にして、香夏子はようやく仕事へと頭を切り替えた。
それから数日後、聖夜から携帯にメールが来た。香夏子は嬉しさのあまり、何度も何度も読み返した。返信を打つ手がふるふると震える。こんなにはしゃいだ気持ちになるのはいつ以来だろう?
(そう考えると、私って恋愛経験が少なすぎる……?)
香夏子は自分自身の過去を振り返って思わずクスッと笑ってしまった。少なすぎるというより恋愛という恋愛をしたことがないような気がする。
ドキドキした場面を思い返してみると、出てくるのは全て聖夜の姿だ。
高校時代、お互い学校が別々になり滅多に会うことがなかったのに、ばったり家の前で会った日のこと。成人式で初めて見たスーツ姿。初めて客として髪を切ってもらった日のこと。そして、つい先日この部屋のソファで眠っていた姿……。
こんなに長い間片想いをしている自分が可笑しくて呆れてしまう。学生時代なら「ただ見ているだけでいい」という純粋な想いも美しいだろうが、香夏子は既に三十路に足を突っ込み、片想いで満足していられるような悠長な身分でもない。
だがなぜだか聖夜のことになると足がすくんでしまうのだ。
しかもこの片想いはいつもグラグラと揺れ動いていて、誰よりも強く聖夜を想っているという自信がない。だから自分の気持ちを告げる気もなかったし、結婚相手は別のところで探そうというスタンスだったのだ。
(……あの日)
香夏子は目を閉じた。
まぶたの裏に残る残像……。
思い出したくはなかった。胸が抉られるような感覚が香夏子を襲う。あの日本当に香夏子の胸は抉られて、それからずっと麻痺したままなのかもしれない。遠い日の記憶が香夏子から恋愛を遠ざけてしまったかのようだ。
ソファに寝転がってみる。
(こんなところで寝ていたら身体痛くなっちゃうな……)
あの夜、聖夜はここで何を考えていたのだろう、と天井を眺めながら香夏子は考えた。
(そういえば聖夜はいつから……?)
幼いころの三人はいつも仲が良く、毎日が楽しくて仕方なかった。それが永遠に続くと無邪気に信じて疑わなかった香夏子は、次第に成長して男と女に分かれていく自分たちの心と身体が恨めしかった。もし香夏子も男に生まれていれば三人の関係はもっと別の形になっていただろう。
(考えても無駄!)
香夏子は行き詰まる前に考えることを止めた。考えてどうにかなるなら、もうとっくの昔にどうにかなっているはずなのだ。
「なに来て行こうかなー?」
誰もいない部屋で景気づけにひとりごとを言ってみた。途端に浮かれた気分が戻ってくる。香夏子は自分のこういう単純なところが好きだった。
(せっかくだから楽しまなきゃね!)
クローゼットを勢いよく開けて、毎月給料の何割かを費やしている洋服の山を見てニンマリとし、手当たり次第に引っ張り出してはコーディネイトし始めた。
聖夜に案内されてやって来たのは小洒落た洋食屋だった。外観はセンス良く飾られていて、店内は落ち着いた雰囲気のレストランだ。こじんまりしているところがいいと香夏子は思う。
「聖夜さん、お待ちしておりました」
出迎えてくれたのは長身でストレートの黒髪が印象的な鼻筋の通った美人だった。そして一際目を引くのが衣装だ。黒を基調としていてシックだがレース使いが多い。香夏子はすぐに彼女をマークする。
「今日もよろしく」
聖夜は帽子を脱いで胸に当てて挨拶する。それを見て店員の女性がニッコリと微笑んだ。華のある笑顔に香夏子はうっかり見とれてしまった。
店員は香夏子に目を向けた。
「今日はいつもの少し派手な感じの女の子じゃないんだ?」
(いつもの……派手な感じの女の子)
香夏子はピクリと眉だけを動かした。
「だからあの子はうちのカットモデルなんだって……」
「わかってるわよ。綺麗なお姉さんと一緒でうらやましいわ」
どうも言葉に棘があるように感じてしまうが、香夏子も負けじと笑顔で答えた。
(お姉さん……って失礼ね!)
「あ、この人はダメだからな」
聖夜は香夏子を庇うように背中に腕を回してきた。
「えーどうしてよ?」
「俺の幼馴染だから」
店員の女性は切れ長の目を大きく見開いた。香夏子は状況が全くつかめない。聖夜と店員を交互に見比べて首を傾げた。だがどちらも説明する気はないようだった。
「まずはお席にご案内しますね」
店内の奥のテーブルへと案内されて飲み物をオーダーした後、早速香夏子は眉を寄せて聖夜を見た。
「ね、何が何だか全然わからないんだけど!」
聖夜は香夏子を見てクスッと笑った。
「カナはあの人を女だと思っているでしょ?」
「え?」
「あれ、男」
「……はぁ!?」
香夏子は女性だとばかり思っていた店員をテーブルから身を乗り出し気味にして観察する。どう見てもはいているのはスカートだ。
「あの、スカートをはいているように見えるんだけど」
「うん。あの人はいつもスカートをはいてる」
「それに顔も男性には見えなかったけど!」
そう言うと聖夜は肩を震わせて笑い始めた。
「次に来たときによーく見てみなよ。鼻の下、青いから」
香夏子は目を丸くしたままその店員を凝視した。仕草もとても男性には見えない。ただ、違和感があるとすれば少し骨ばった肩だろうか。
「お待たせしました」
まず食前酒が運ばれてきた。それとなく香夏子は店員の顔、特に鼻の下に注目する。
(…………!)
メイクで隠してはいるが、確かに鼻の下が微妙に青い気がする。聖夜の言葉が正しいことがわかったが、香夏子にはまだ信じられない。
「でもどうしてあんな格好を?」
店員が厨房へ消えるのを見計らって香夏子は問う。
「趣味なんだって。世の中いろんな人がいるよね」
聖夜は長い指で顎を触りながら答えた。
もう一つわからなかったことがあった。
「えっと、……『この人はダメ』ってさっき言ったのは?」
「ああ、彼はああいう格好をするのが趣味だけど、好きになるのは女性だからさ」
「……はぁ」
本当に世の中にはいろんな人がいる、と香夏子も思った。
「そういえば、あの後秀司とは会ってる?」
不意に聖夜が話題を変えてきた。香夏子は首を横に振る。
「あれから全く音沙汰なしで、何だか怖いんだけど……」
アハハと聖夜は陽気な笑い声を上げた。
「全くだね。昔から変なヤツだったけど、この歳になっても全然変わってないや」
「もう絡まれるのはたくさん!」
口を尖らせてそう言うと、聖夜は同情の目を向けてきた。
「カナはアイツに迷惑ばかり掛けられてたもんな。……って、元彼だからあまりこういうことは言わないほうがいいか」
「全然気にしないからジャンジャン言ってよ!」
香夏子は少し声が大きくなったことに気が付いて、照れ隠しに食前酒のグラスに口をつけた。甘いがすっきりとした後味でおいしい。
「俺、今でも覚えてるんだけど、小学三年くらいのときに秀司が『好きな女子ランキング』を発表したじゃん?」
思わず噴き出しそうになり香夏子は慌てて口を押さえた。
「……あったね、そんなこと」
「あれで香夏子が一位でさ」
「うわー! やめてよ。あのせいでどれだけ嫌な思いをしたことか!」
聖夜は香夏子をじっと見つめる。急に香夏子は恥ずかしくなり身体中が熱くなるのを感じた。もしかすると酔いが回ってきたのかもしれない。
「でも実際、香夏子のことを好きなヤツ、多かったんだよ」
「……え?」
意外な言葉に香夏子は目をしばたたかせた。
「そんなことないよ。だいたい生まれてこのかた告白とかされたことないし」
聖夜の表情は昔を懐かしむような優しいものになる。
「だって、言えるわけないじゃん。秀司があんなことしたら」
「いや、それは小学生のときでしょ? 秀司がいなくなってからもずっと恋愛には縁がなくて、私って男の人から見てそういう対象じゃないのかと思ってた」
首を傾げた聖夜は少し間をおいてから口を開いた。
「もしかして、カナって本当に彼氏いないの?」
「もしかしても何も……ずっと誰とも付き合ってない」
心の中で、高校生のとき以来、と付け足す。
聖夜はしばらく頬杖をついて香夏子を眺めていた。
「どうして誰とも付き合わない?」
香夏子は息苦しくなってあからさまに視線を聖夜からはずす。
「どうして……って、私と付き合いたい人がいないからじゃない?」
「……好きな人くらいいたでしょ?」
ズキッと胸が痛む。返事などできるはずもない。
(もうずっとあなたに片想いしてます……なんてここで言ったらドン引きだな)
「聖夜は?」
とっさに口から言葉が転がり出た。
「ん?」
「聖夜はモテるでしょ? いいなぁ」
「全然」
面白くなさそうな顔で聖夜はため息をついた。
「香夏子の言う『モテる』っていう状態はそんなにいいもんじゃないよ」
つまり聖夜はモテることを肯定しているのだろうか。香夏子は更に胸が苦しくなりかけた。
「結局、好きな人に好かれなきゃ意味がない」
聖夜は当たり前のことを言って笑って見せた。それはどういう意味だろう、と香夏子は表情を変えないようにしながら一生懸命頭を働かせる。
「聖夜くらいモテたら好きな人にも好かれるでしょ?」
「だから全然モテてないって」
ちょうどそこへ綺麗に飾られた料理の皿が運ばれてきた。先ほどの店員が料理の説明をしながら皿をそれぞれの目の前に置く。
香夏子はその芸術的な飾り付けに顔をほころばせた。
「じゃあ早速いただこう」
聖夜の言葉に香夏子は大きく頷いた。
それから二人はしばし食事に専念した。
「本当においしかった! ごちそうさまでした」
洋食屋を出てからすぐに香夏子は聖夜に礼を言った。帽子をかぶった聖夜は「いえいえ」と言って駅の方角へ足を向ける。
店は駅から近い場所だが、入り組んだ小さな路地にある。香夏子はキョロキョロと辺りを見回した。
振り返った聖夜が香夏子が隣に来るのを待つ。
「どうかした?」
「いや、お店の場所を覚えておこうと思って」
「ああ。……誰と一緒に来るのかな?」
意地悪そうな笑みで香夏子を見た。
「それは……」
「カナが誰とも付き合わないのって……もしかして」
そこで言葉が途切れた。香夏子はゆっくりと聖夜を見上げる。だが聖夜の表情は帽子の影になりほとんど読み取れない。
しばらく居心地の悪い沈黙が続いた。
ゴーッという音が香夏子の耳をつんざく。二人は無言のまま薄暗い高架下を歩いていた。
「もう……やめなよ」
「何……?」
またゴーッと電車が走り去る音が辺りを支配する。
香夏子は言葉を最後まで発することができなかった。
(…………!)
口が聖夜の唇にふさがれていた。あまりにも突然のキスに、香夏子は頭の中が真っ白になった。
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