第6話 Run away !

 室内をほのかに照らす間接照明はただムードを演出するだけでなく、見たくないものを見えないようにする効果があるに違いない。

 もしこれが明るい照明の下であれば、とにかく何か喋らなければならないような強迫観念にかられるだろう。喋らなくてもいいというだけで香夏子は少しだけ気持ちが楽だった。

 あの後、聖夜は行き先を変えてホテルに入った。こういう流れは何度か経験していたので香夏子は何も言わずについて行った。

 だが、今までと違うのは一緒にいる相手が、ずっと好きだった人だということだ。

 この部屋に入ったときからずっと胸がキリキリと締め付けられるように痛い。聖夜が自分に近づいてくると、緊張と期待と混乱と自分でもわけのわからない感情が一度に去来し、気を抜くと悲鳴をあげてしまいそうだった。

 こんな場面は何度か経験しているというのに、香夏子はまるで初めてのように硬直していた。しかも聖夜の表情も硬い。何を考えているのかなどわかるはずもなかった。

「怖い?」

 ずっと黙ったままだった聖夜が口を開いた。香夏子は首を横に振る。怖いわけではなかった。

「泣きそうな顔してる」

(だって泣きそうな気持ちなんだもの!)

 香夏子は胸がいっぱいで返事ができなかった。何か言えば本当に泣き出してしまいそうだ。

(どうしよう……)

 ただ黙って立ち尽くしている香夏子に、聖夜は遠慮なく近づくと柔らかく包み込むように香夏子を抱き締めた。

 これから起こることを予期し、香夏子は目を瞑る。本当はその前に確かめたいことがいくつもあった。だが、今はとてもそれを口にはできそうにない。

 唇にもう一度暖かくて柔らかい感触。今度は柔らかいものが口の奥まで深く入り込んできた。おそるおそる自分のものを絡めると後は夢中でお互いに貪り合う。もう考えていたことなどどうでもよくなった。


「大丈夫?」

 聖夜が上から心配そうな顔で覗き込んできた。香夏子はぎこちなく笑顔を作る。

「足が……」

 痙攣していた。こんなことは初めてだった。

「痛い?」

「痛くはない」

 それを聞いて聖夜は安心したような顔をした。痙攣した足を優しく撫でる。

「起き上がれる? シャワー使うでしょ?」

 香夏子は頷いたが、身体に力が入らない。もう少しこのままでいたいと思った。

 しばらく聖夜は香夏子の様子をじっと見ていたが、「じゃ、お先」と言ってシャワールームへ消えた。

(やっぱり……勢い……でこうなっちゃった……ってこと?)

 突然、香夏子は起き上がった。

 そして素早く服を着る。どうせ外は暗いのだからこの際メイクはどうでもいい。鞄から財布を出して紙幣を一枚テーブルの上に置いた。

 まだシャワーの音が聞こえてくることに安堵しながら、ベッド脇の鏡を通りすがりに覗き込み、手ぐしで髪を整えた。靴を履いて細心の注意を払いドアを開ける。振り返って聖夜の靴に心の中で、ごめん、とつぶやいて音を立てないようにドアを閉じた。

 そこからは一目散に出口を目指し、外に出てからは駅に向かって走った。


 タクシーに乗り込み、一息ついた後で鞄からケータイを取り出した。

(メール?)

 メールの着信が一件と表示されている。香夏子は険しい顔でそのメールを開いた。

(……ウソ!?)

 > やっぱり会えないかな? もう一度別の場所で話をしたい。

 会社の同僚の男からだった。香夏子はすぐにそのメールを消去した。

(どうする?)

 タクシーから降りて自分のマンションの玄関へと歩を進める。ふと目を上げた香夏子は驚いて一瞬後退りした。

「ここで何してるの……?」

「メールの返事がないから直接返事を聞きに来た」

 柱の影から同僚の男が姿を現したのだ。まさかこの男がこの期に及んで自分に絡んでくるとは思いもしなかった香夏子は、驚愕と恐怖感で足がすくんだ。

「もうあなたと二人きりで会うつもりはないわ」

「どうして突然そんな冷たいことを言うの?」

「突然って……、あなたは結婚したんでしょ?」

「だから会えないってこと?」

「当たり前じゃない」

 男は納得がいかないような表情を浮かべた。ここでこの男と問答をしていても埒が明かないと香夏子はすぐに悟った。振り切って家に入ってもいいが、逆に男を振り切れず家に押しかけられる可能性が高い。

(どうしよう……)

 ちらりと後ろを振り返ると、ちょうどマンション前にタクシーが止まった。それを見た瞬間、香夏子の身体は勝手に動き出す。後部座席の自動ドアが開いた途端、

「すみません! 乗せてください」

 と、叫んだ。

 だが、香夏子は自分の足に急ブレーキをかける。タクシーから降り立った人物を見て今度は背筋が凍りついた。

「カナ、忘れ物」

 激しく不機嫌な表情の聖夜が香夏子を見据えた。背後に靴音が迫る。タクシーの運転手が窓を開けて香夏子に問いかけてきた。

「乗りますか?」

「乗ります! 聖夜、乗せて」

 香夏子の後ろの男を見た聖夜の顔色が変わった。すぐに香夏子をタクシーに押し込み、急いで自分も乗り込んだ。


 タクシーが走り出すと香夏子は大きく息をついた。そして先ほどの聖夜の不機嫌な顔を思い出し、まだ安堵できない状況だったことを思い出した。

「あの……」

「とりあえず、話はウチに着いてから聞く」

「……うん」

(……って、ええ!? 私、これから聖夜の家に行くの?)

 香夏子はドキドキし始めた心臓を何とか抑えようと努力する。そもそもドキドキしてる場合ではない。あの男をどうにかしなければならないのだ。この状況を喜んでいる不謹慎な自分を慌てて諌める。


 しばらくすると洒落たマンションの前にタクシーは停まった。

 聖夜の後に続いて彼の家に入る。一瞬、どうしてこんなことになったのかという疑問が湧き上がったが、とりあえず通されるまま彼の居住区に足を踏み入れた。

 部屋の中は驚くほど綺麗に片付いていた。聖夜はあまり物を置かない主義らしく、必要最低限のものしか目に付くところにはない。いつか使うかもしれない、となかなか物を捨てられない香夏子からすると物がなさすぎて落ち着かなかった。

「ま、座れば?」

 聖夜がぶっきらぼうに言った。たぶん香夏子が機嫌を損ねてしまったのだ。上着を脱いで腰を降ろしたが、心がそわそわして息苦しかった。

 帽子と上着を脱いで戻ってきた聖夜は香夏子の向かい側に歩いてきた。そしてジーンズのポケットから何かを取り出した。

「これは何?」

 香夏子と聖夜の間に陣取っているテーブルの上に紙幣が置かれた。

「何って……一万円」

 腰を降ろした聖夜が深呼吸する。

「ていうか、どういうこと?」

「どうって……」

「どうして一人で勝手に帰るわけ?」

 容赦ない詰問口調に香夏子は視線を落とす。理由などない。だが、とにかくあのときは帰らなければならないと思ったのだ。

「……ごめんなさい」

「謝らなくてもいいから、理由を教えてよ」

「理由は……ない」

 聖夜はあきれたように嘆息を漏らした。

「あの男に呼び出された?」

「違う!」

 香夏子は即座に否定した。

「帰ったら……マンションの前になぜか、いた」

「何それ? 待ち伏せ?」

「そうみたい」

 後腐れのない相手だと思っていた香夏子にとっては同僚の男の言動は予想外だったのだ。思い出しただけでもゾッとする。

「どういうこと? この前彼氏はいないって言ってたよね?」

「あの人とは飲み友なだけで付き合ってないし、それにあの人結婚したばかりだし……。どうしてウチの前にいるのか私のほうが聞きたいよ!」

 言いながら香夏子は会社での会話を思い出していた。

(もしかして……付き合ってる人がいるって言ったから?)

 聖夜は険しい顔のまま口を閉ざした。追及されるのも辛いが、沈黙はもっと辛いと香夏子は痛感する。仕方なく同僚の男の話を始めた。

「あの人、森田(もりた)って言うんだけど、会社で隣の課にいて、もう結構前から飲み友だったの。でも森田さんが先月結婚したんで『もう二人きりでは飲みに行かない』って言ったら……なんかわかんないけど、こういうことに……」

「二人きりで飲みに行ってたんだ。でもそれって、それだけで終わらないんでしょ?」

「…………」

 否定はできなかった。わかっているなら敢えて言わないでほしいところなのに、と香夏子はうつむきながら思う。

「カナはその森田ってヤツに彼女いるの、知ってたの?」

 小さく縦に首を振る。更に下を向く以外に何もできなかった。

 また大きなため息が聞こえた。

「カナはソイツのことが……好きだったわけ?」

「いや……たぶん、そうでもない」

「どういうこと?」

「別に嫌いじゃないけど、好きだとか付き合いたいとか思ったことはない」

 香夏子はおそるおそる顔を上げた。聖夜の鋭い視線が香夏子を射抜く。

「ソイツにしてみればカナは都合のいい女だから、結婚しても『飲み友』でいられると思ったんじゃない?」

 たぶんそうなのだろう。香夏子の常識と森田の常識が食い違っていたのだ。

「それでカナはどうするつもり?」

「もう二人きりで会うつもりはない」

「でももし毎晩待ち伏せされたら?」

「まさか!?」

「わかんないでしょ。絶対ないって言い切れる?」

「それは……」

(こんなことする人だとは思わなかった……)

 考えたこともなかったが、家を知られているのは絶体絶命のピンチだ。しかも職場も同じなのだから、森田が香夏子の行動を把握するのは至極簡単なことだろう。

(しかも……さっきの状況からすると、あの人、たぶん聖夜を彼氏だと思ったはず……)

 香夏子は悲痛な顔をした。自分にとってはこの上なく都合のいい話だが、聖夜にとっては迷惑この上ない話だ。

「ごめん、聖夜。私、会社であの人に『今、付き合ってる人がいる』って嘘ついちゃったんだけど……さっきのでたぶん聖夜のことを彼氏だと勘違いしたと思う」

 口は災いの元と言うが、浅はかな嘘などつくからこんなことになったのだと思うと、心臓がぎゅっと縮まるような痛みを感じた。申し訳なく思いながら聖夜を見ると、じっと見つめ返される。今度は心臓がドキンと大きく音を立てた。

「いいよ、別に。彼氏のフリくらいしてやるよ」

「……えっ!?」

 少しの間をおいて聖夜はあっさりそう言った。香夏子は思わず大声で聞き返す。更に意外なセリフが耳に飛び込んできた。

「ついでにしばらくここにいたら?」

 あっけに取られて香夏子はしばらくぽかんと口を開けたまま聖夜を見つめた。

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