第4話 I don't like you !

 翌日、香夏子はさんざん悩んだが、結局秀司に連絡して一緒に聖夜の店に行くことにした。聖夜にひと目会いたいという気持ちに負けたのだ。

 待ち合わせ場所に着くと、湊の姿があった。

「あれ? 今日は先約有りじゃなかった?」

「こっちのほうが楽しそうだからキャンセルしちゃった」

 湊はニコニコしながら言った。香夏子としては秀司と二人きりで会うのは避けたかったので、湊が一緒に来てくれるのはありがたかった。

 秀司は昨夜のことなどすっかり忘れたような態度で「では行くぞ」と香夏子と湊を促した。

 聖夜の店に到着すると、日曜ということもあり客数も多く店内は活気づいていた。聖夜は香夏子を先頭にした団体客に一瞬目を丸くしたが、すぐにそばのスタッフに何事かを指示し、担当していた客に声を掛けてから香夏子たちのもとへやって来た。

「秀司以外は付き添い?」

 初めて来たくせに一番くつろいだ様子の秀司には目もくれず、聖夜は香夏子と湊に話しかけた。

「あ、あの、邪魔だから私は帰るね」

 香夏子はなぜかひどく狼狽して腰を浮かせた。だが、横から腕をつかまれてまた椅子に座らされる。

「カナは枝毛がひどいから切ってやったほうがいいぞ。あと、この髪の色はカナに合ってないな。オバさんくさい。どうにかしろ」

 秀司が香夏子の短い髪をすくい上げて聖夜に言った。聖夜の顔がみるみる無表情になる。

「カラー選んだのは俺だけど?」

「お前、センス悪いな」

 秀司は人目も憚らずよく通る声でそう言い放った。香夏子はハラハラしながらも何か場を取り繕う言葉を探して口を開きかけたとき、聖夜が低い声で言った。

「秀司は相変わらずガキだな。俺はお前のそういうところが嫌いなんだよ」

 一瞬にして空気が凍る。秀司は聖夜を鋭い目つきで見上げた。だが何も言わなかった。

 そのとき先ほど聖夜が指示していたスタッフが近寄ってきた。

「じゃ、秀司は向こうで切ってもらって。カナは俺について来て。湊さんは……どうする?」

 聖夜はきびきびとした口調でそう言って湊を見た。さすがに青ざめた顔をしていた湊は急に背筋をピンと伸ばして

「香夏子のほうについてていい?」

 と、控えめに訊いた。

「じゃあ、二人ともこちらへどうぞ」

 聖夜はやっと笑顔を見せて踵を返した。


 香夏子と湊が通されたのは店の奥にある個室だった。長年通っている香夏子も個室は初めてだ。

「VIPルーム!?」

 湊がまず声を上げた。聖夜はそれには特に答えず湊の席を用意する。ついてきたスタッフが香夏子を鏡の前の椅子に案内した。

「あの、でも、私……」

「まぁ髪が痛んでるのは本当だからトリートメントしたほうがいいと思う。カナにはいつもお世話になってるから今日はサービスするよ」

「よかったね! 香夏子」

 後ろから湊にそう言われて、香夏子はぎこちなく頷いた。

「それにしても聖夜くんって案外はっきり言うタイプなんだ?」

 湊が鏡に映る聖夜に話しかけた。鏡の中の聖夜は普段の穏やかな表情で笑って見せる。

「秀司とは長い付き合いだしね。それにアイツ、この歳まで働いたこともないから」

「……そうなの?」

 香夏子はこの十年間の秀司のことはほとんど知らなかった。聖夜は鏡の中の香夏子に視線を合わせる。

「そうらしいよ。アイツのおばさんがそう嘆いてた」

 そして香夏子の髪に鋏を入れた。

「世間知らずのクセになんであんなに偉そうにできるんだか」

「世間知らずだから偉そうにできるんじゃない?」

 香夏子は反射的にそう答えていた。後ろから湊がギャハハとおかしそうに笑う。

「でも香夏子はなんだかんだ言っても秀司の面倒見てるよね」

 湊はそう言って香夏子と聖夜を見比べた。香夏子は少し渋い顔を作る。

「カナは……」

 櫛で髪をとかしながら聖夜は言葉を選んでいるようだった。

「誰に対してもそうじゃない?」

「私は面倒見よくないよ」

 香夏子は鏡の中の聖夜を見る。だが聖夜は丁寧に香夏子の髪をとかしてその髪先に集中していた。真剣な作業中だからか、こちらを向いてはくれなかった。

「確かにそういうところはあるかも! 聖夜くんって香夏子のこと、よく見てるね」

 後ろから感心したような声がした。

「カナとも長い付き合いだしね。でも……」

「でも?」

 促すような声が後ろから聞こえてくる。聖夜は直接湊を見て言った。

「カナのことは湊さんのほうがよく知ってるでしょ」

「うーん、どうかな。最近はそうかもね。近頃香夏子は彼氏募集中、もっと言えば結婚相手募集中とか?」

「ちょっと!」

 香夏子はさすがに大声を上げた。だが湊はニコニコとわざとらしく鏡の中の香夏子に微笑んだ。

「カナって付き合ってる人いないの?」

 聖夜が鋏と櫛を持った手をだらりと下げて背筋を伸ばした。鏡の中で目が合う。ドキっとしたが香夏子はポーカーフェイスを何とか保った。

「……今はいない」

 ふーん、というような顔をした聖夜はしばらく鏡の中の香夏子の顔をじっと見つめた。香夏子は落ち着かなくなり、視線をはずす。

「今っていうか、しばらくいないよねー?」

 後ろからの援護射撃が香夏子を直撃した。

「うるさいっ!」

 鏡越しに香夏子は思い切り湊を睨む。さすがに湊は小さくなったが、姑息にも話題を摩り替えた。

「そういえば秀司はどうなってるの?」

「アイツ好みの綺麗なお姉さんに担当してもらってるからおとなしくしてると思う」

 聖夜が笑い含みの声で湊に答えた。

「そっか。じゃあちょっと邪魔しに行ってこようかな」

 湊はそう言ってそそくさと出て行った。入れ替わりに先ほどのスタッフがワゴンを押しながら入ってきた。

「カナ、ここからはコイツに替わってもらうね」

 聖夜の言葉に内心がっかりしながらも笑顔で頷いた。

 そのスタッフの男性はまだ二十代前半のようだ。身体の線が細い感じはいかにもスタイリスト向きに見える。だが香夏子のタイプではなかった。

「今日はお友達と一緒に来てくださったんですね」

 聖夜が個室から出て行くとスタッフの男性は柔らかい口調で話しかけてきた。名札を盗み見ると「北村」とあった。

「そうなんです。本当は案内でついて来ただけだったんですけど。こんな忙しい日にごめんなさい」

「いえいえ、嬉しいですよ。それに主任も澤田さんが来てくれて喜んでます」

 香夏子は北村に姓で呼ばれて驚いた。その顔を見て北村は一瞬不思議そうな顔をする。

「どうかしました?」

「……名前呼ばれてびっくりしたんです。聖夜……くんは私を苗字では呼ばないから」

 北村はようやく納得したように頷いた。

「そうですよね。主任とはいつからのお友達なんですか?」

「えっと……生まれたときから?」

「幼馴染ってことですか!?」

 軽く驚いたようだ。

「たぶん。家が隣だったんです」

「なるほど。主任のお友達の方も結構来店されますが、中でも澤田さんは特別ですものね」

 香夏子の眉がピクリと反応する。本当にそうだったら嬉しいが、香夏子はこの程度のお世辞で喜べるほど楽天家ではなかった。

「……そんなことはないと思うけど」

 自信がないので語尾が尻すぼみになる。幼馴染とはいえ、聖夜との間には友情すらあるのかどうかもよくわからない。友達というよりはただの知人に近い気がした。

(だって聖夜のことはほとんど何も知らないし)

 香夏子は改めて鏡の中の自分を見た。これといって特徴のない顔立ちだ。今は短い髪にトリートメント液が塗られ、頭の形がはっきりわかるが、こうして見ると顔面はずいぶんと平面的だと思う。目は小さくないが大きいというわけでもない。鼻はもう少し高ければいいのにと小さな頃からずっと思い続けている。

 しかも顔全体からだんだんと若々しさが失われて歳相応に見えるのが悲しい。

(私、このままどうなっていくんだろう?)

 仕事もいつどうなるかわからない。香夏子の会社はここ数年危ないと言われ続けているが、転職の武器になるような専門スキルがあるわけでもなく、潰しが利くような器用さもない香夏子にとっては、沈みかけている泥舟だとわかってはいてもしがみついている他なかったのだ。

 だからこそ漠然とそろそろ結婚したいと考えていた。

(保険……みたいなものかな)

 昨夜秀司に訊かれて「昔からの夢」だと答えたが、百パーセントの本心ではなかった。それに結婚したから幸せになれると信じているわけでもない。

(何だかよくわからなくなってきたな……)

 改めて考えると自分の望みが何なのか、自分自身でもわからなくなる。昨夜秀司に対して腹が立ったのもおそらくそれを指摘されたからなのだろう。

(相変わらず勘の鋭いヤツだな)

 昨晩の秀司の言葉が更に脳裏によみがえった。

(俺を捨てたのは……お前だろ、か。……そんなこと言ってもどうしようもないじゃん。だって私……)

 コトン、と目の前にティーカップが置かれた。香夏子はその音で我に返る。北村が香夏子に微笑みかけた。

「ありがとうございます」

 直接北村を見て言った。更にニッコリとして北村は答えた。

「お連れの方も幼馴染なんですか?」

「そうなんです。……男のほうが」

「……彼氏さん、とか?」

「違います!」

 香夏子はきっぱりと否定した。その勢いに北村は一瞬驚いたがすぐに笑顔になる。

「そうでしたか。じゃあ主任も喜びますね」

 その言葉の意味がわからず香夏子は険しい目つきで北村を見返した。

「だって澤田さんがいらっしゃるときはいつも、主任、気合入ってますから」

(……え?)

 香夏子が何か言おうとしたそのときだった。

「余計なこと言うなよ」

 ハッとして香夏子も北村も声がしたほうを向いた。今まで人が出入りしていたドアとは反対側の壁にもドアがあったのだ。それが少し開いていて、その戸口に聖夜が腕組みしてこちらを見ていた。

「全然気配がなかったけど……忍者!?」

 香夏子は蒼白になった北村を庇うように言った。すると不機嫌そうな聖夜の口元に笑みが浮かんだ。

「壁に耳あり……だよ? 北村くん」

「主任、すみませんでした」

「別にいいけど。それに、まぁ、本当のことだし」

(……え?)

 香夏子は近づいてきた聖夜を鏡を通して見つめる。その視線に気が付いているくせに聖夜はわざと視線を外した。

「カナにはずっとお世話になりっぱなしだからね」

(……お世話、か)

 香夏子の髪をチェックしている聖夜の仕草を見ながら少しがっかりする。そして自分の顔をもう一度見た。

(期待するほうがおかしい、よね?)

「あとはいいよ」

 聖夜が北村にそう告げると、北村は香夏子に一礼して個室から出て行った。

 二人きりになったが、聖夜は特に表情を変えることもなく髪を洗い、ブローしてくれた。

「そういえばこの前のお礼したいんだけど」

 唐突に聖夜が言った。

「お礼?」

 香夏子は鏡の聖夜に問いかける。聖夜は鏡の中で薄く笑って見せた。

「泊めてもらったお礼」

「ああ……。別にお礼なんて、何もしてないし」

 言いながら香夏子は微妙な表現を使用してしまったと後悔すると同時に恥ずかしくなった。それを見透かしたように聖夜はクスっと笑った。

「いや、助かったからさ。あの日すごく疲れてて眠かったんだ。気を抜いたら歩いていてもカクっと寝ちゃいそうなくらいね。給料日の後って殺人的な忙しさなんだよ」

「今日もそうだよね」

「そうでもないよ。それにカナのせいじゃないだろ?」

 聖夜はワックスを手に取って香夏子の髪にもみこんだ。それから香夏子の顔の横に自分の顔を並べる。

「美味しいもの、ご馳走したいんだけど」

「……うん」

 心臓が痛いくらいドキドキした。

「じゃあ今度連絡する。……あの二人には言わないでよ」

 耳元で囁くような小さな声がますます心臓を暴れさせる。香夏子はようやく首を縦に振った。

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