第3話 What happened ?
#03 What happened ?
「それで、どうだったの?」
翌日、香夏子は再び居酒屋にいる。湊が向かいの席から身を乗り出してたずねてきた。
「別に……」
香夏子はメニューをパラパラとめくりながら憮然として答える。
「別に……すごくいい! というわけでもなく、まぁ普通だった、と?」
「湊はどうしてすぐそういう方向に持っていくのかわからない!」
メニューを苛立たしげに閉じて湊に突き出した。受け取った湊は肩をすくめる。
「だってそれ以外に何があるのよ?」
「……何もないわよ」
小さな声を押し出すようにして香夏子はようやく言った。
「……え?」
「だから何もないって言ってるでしょ! 何も起きませんでしたっ!」
香夏子はヤケクソになって最後は半ば叫ぶように言った。
「ちょっと……ウソでしょ? だって朝までいたんだよね? 何もないって……」
湊はメニューで口元を覆った。それを忌々しげに香夏子は見る。
「え? もしかして聖夜くんって、女の人には興味ないとか?」
「それはないでしょ。今だって若い女優さんと噂されてるもん」
香夏子は女性週刊誌の記事を思い出してがっくりと肩を落とした。しかもスクープ写真に聖夜らしい男性が写っているというだけでその雑誌を購入してしまった自分にますます落ち込む。やはり聖夜は遠い人だと思い知った。
「だから私なんか眼中にないってことなんだわ」
自分で言っておきながら香夏子は涙腺が緩むのを止められなかった。
湊は香夏子に同情するような視線を向けた。そしてその隣を見る。
「秀司なんか『据え膳食らわば皿まで』なのになぁ」
「……ん? 俺に用か?」
秀司は真新しい携帯電話とにらめっこしていた。香夏子はその様子を横目に見て小さくため息をついた。
「ふーん。それじゃあ二人は復活愛なわけ?」
「違うわよ」
湊が平然と否定する。香夏子は険しい表情で二人を見比べた。
「もともと私たちはそういうのと違うもん。ね、秀司?」
「……ん? 何だ?」
秀司は相変わらず話を聞いていないようだったが、かまわず湊は続ける。
「だって秀司は香夏子が好きで、私は香夏子を好きな秀司が好きだったの」
「……はぁ?」
香夏子は湊の言葉の内容を理解できなかった。というよりもはや脳が理解することを拒絶してしまっている。
勿論、湊とは高校時代からの付き合いなので同じことを何度も聞かされていた。だが何度聞いても理解できない。言葉の意味はわかるが理解できないのだ。
「そんなのおかしいじゃない」
「どこが?」
湊は手を挙げて店員を呼んだ。まず自分の飲み物を告げて、香夏子に笑いかける。香夏子もビールを頼んで秀司を見た。
「秀司、飲み物は?」
「……ん? クエン酸飲料」
「……そんなのないよ」
「じゃ、オレンジジュース」
「お酒じゃないの?」
「うるさい、話しかけるな」
(なんなの、この人!)
腹が立ったが仕方なく秀司の代わりに店員にオレンジジュースを頼んだ。
「クエン酸飲料って何?」
湊が秀司に少し大きな声でたずねたが、秀司は全く聞こえていないのか、眉間に皺を寄せて携帯電話に釘付けだった。
「この人は何しに来たの?」
香夏子はちらりと秀司を見て湊に問う。
「秀司が香夏子を呼べって言ったんだよ」
「よし!」
突然秀司が声を上げた。
「カナのケータイを出しなさい」
「なんで命令されなきゃいけないのよ?」
「俺の番号を登録させるために決まってる」
鞄から嫌々ケータイを取り出した。拒否しても絶対に無駄だからだ。
「赤外線で受信しろ」
「受信? どこにあるんだ……」
それほど頻繁に使う機能ではないから、どこにあるのかわからない。
「自分のケータイの機能も使いこなせないのか? ちょっと貸せ」
香夏子は秀司にケータイを差し出す。彼は香夏子より慣れた手つきで画面を操作した。
「よし、できた」
秀司のデータが送信されてきた。
(でも秀司に連絡することなんてめったにないけど)
香夏子は内心そう思いほくそ笑んだ。
「私もー!」
湊が既に自分のケータイを準備して順番を待っていた。
「ちなみにクエン酸は体内のクエン酸回路……」
「あ、いい。わかった。秀司の説明を聞いてたら明日の朝になりそうだから」
慌てて湊が秀司の言葉をさえぎる。
香夏子は今日初めて秀司の顔をまじまじと見た。
「秀司、疲れてるの?」
「疲れているというか、俺は猛烈に腹が立っている」
「うわ、演説長くなるぞ」
湊が怖いものでも見たかのように身を縮めて目をそらした。
「そもそも日本人は年長者をあまりにも尊重しすぎている。そう思わないか? 勿論俺だって年長者に対して尊敬の念は持ち合わせているつもりだ。だが学術研究分野において重視されるのは何だ? どこぞの大学のどこぞの研究室にいただとか、親が有名な学者だとか、嫁が有名な学者の娘だとか、結局は肩書きなのか? そんなもの俺にとっては何の価値もない。全く人を蔑んだ目で見やがって。俺のほうが知識だって上だって言うのに!」
秀司はそこで絶句した。
そのタイミングを見計らったように店員が飲み物を運んできた。
「まぁ、秀司。日本で上手くやっていくには『長いものに巻かれろ』という諺どおりに……」
「うるさい! だから湊は暴言を吐く上司にも笑顔でお茶が出せると言いたいのか?」
湊は少し考えるように顎の下に手をあてた。
「そうねぇ。雑巾の絞り汁を入れて、だったら笑顔で出せるかも」
「やり方が汚いな。俺はそういうコソコソしたやり方じゃなくて、もっとぎゃふんと言わせるような何かでヤツらの鼻を明かしてやる。近いうちにな!」
そう息巻いてオレンジジュースを飲み干した。
「それで秀司は何を研究してたの?」
香夏子は今更とは思いつつ知らないので聞いた。
「それは秘密だ。今にわかる」
秀司はニヤリと微笑んでみせる。香夏子は既に秀司が「ぎゃふんと言わせるような何か」を企んでいることに気がついた。
「ところで今日は何曜日だ?」
突然秀司は妙なことを言い出した。
「何曜日って、土曜日だけど」
「お前たちは重要なことに気がついていない。今日が土曜日だということはどういうことだ? そう、つまり昨日は金曜日だということだ」
湊がさすがに顔をひきつらせて
「それが重要なことなの?」
と聞く。
「勿論だ。まだ気がつかないのか?」
香夏子も首を傾げる。その様子を見て秀司は目を丸くした。
「お前たちはバカか? 土曜と言えば大半のOLは休みだろう」
「そうよ。私も休みだし」
湊が相槌をうつ。
「つまり美容室は混むということだ」
「まぁ……そうだね」
「聖夜はあんなヤツだが根は真面目だ。カナ、アイツは今朝何時に家を出た?」
「5時」
「やはりな。俺なら真っ直ぐ仕事に行くところだが、アイツはそういうことができない性格なんだよ」
「だから?」
「今日が忙しくなることを知っているから、カナに何も起きなかったというわけだ」
秀司はそこまで言うと香夏子の顔を覗き込んだ。
「カナ、結婚したいのか?」
「……したいわよ」
「何のために?」
(……何のため?)
香夏子は一瞬戸惑った。
「そんなの……幸せになりたいからよ!」
それを聞いた秀司は上体を低くして下から香夏子の顔を見上げた。
「カナは幸せじゃないのか? 結婚しないと幸せにはなれないのか?」
「そうよ! 好きな人と結婚して幸せになるのが昔からの夢だったのよ! 平凡で悪かったわね!」
「ふむ」
秀司は身を起こして椅子にふんぞり返った。
「じゃあ聖夜と結婚すればいい」
「はぁ? そんな簡単に言わないでよ! そもそも聖夜は私のことなんか何とも思ってないのよ?」
事実とはいえ何が悲しくてこんなことを自分の口から言わなきゃならないのか。香夏子は秀司を本気で恨んだ。
「そんなもの、婚姻届に印鑑を押させればいいだけのこと」
「無理矢理してもらっても嬉しくないわよ!」
向かい側で湊がクスッと笑った。
「何よ?」
「香夏子、秀司が帰ってきてから元気になったなーって思ったの」
「はぁ!?」
香夏子はこれ以上ないくらい険しい顔をして見せた。
「私のどこが元気に見えるのよ? ムカつくのよ! この隣の男がっ!」
だが湊は微笑みながら首を傾げた。
「でもそんな大きな声で怒るくらい元気じゃない。やっぱり秀司が帰ってきて嬉しいんでしょ?」
「違うっ!」
「そんなにはっきり否定されると逆に嬉しくなるな。そうだ、カナに来てもらったのは他でもない、コレが俺には必要だったんだ」
テーブルの上に放置されていた香夏子のケータイを秀司は取り上げた。
「ちょっと、何すんのよ!?」
秀司は香夏子のケータイをためらいもせずに手に取り操作する。そしておもむろに電話を耳に当てた。
「お、聖夜? あのさ、突然で悪いんだけど明日俺の髪を切ってくれ」
「はぁ!?」
香夏子は慌ててケータイを奪い返そうとしたが失敗に終わった。
「おう、じゃあカナと一緒に行くわ。明日な!」
「ちょ、ちょっと何勝手に決めてんのよ?」
「聖夜に会いたいだろ?」
秀司はケータイをテーブルの上に置いた。それを自分のもとにすばやく取り返して香夏子は秀司を睨む。
「そりゃ……そうだけど」
「楽しそうだなー! 私も行きたい……けど、明日はダメだ。先約有だった」
湊が残念そうにうなだれた。突然テーブルの上の真新しいケータイが数秒震える。それをみた香夏子は思い出したように秀司に食ってかかった。
「ていうか、秀司、自分のケータイ買ったんでしょ? なんで私のケータイ使うのよ!? 自分のケータイでかけなさいよ!」
「俺のケータイを使ったら金がかかるだろうが」
(この男は……いつもいつもいつも!)
「冗談じゃないわよ。言っとくけど私はアンタの便利な道具じゃないのよ! いつまでも昔みたいに私がアンタの言いなりになってると思わないでよ!」
威勢よく啖呵を切って香夏子は立ち上がった。秀司は黙っている。湊は心配そうにきれいな眉に皺を寄せて二人を見た。
「……何を言う。俺を捨てたのはカナ、お前だろ」
低い声が静寂を破った。香夏子は秀司を見下した。それから何も言わず財布から紙幣を取り出してテーブルの上に置き、そのまま店を後にした。
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