第2話 Let's go to your house !

「かんぱーい!」

 湊の明るい声の後にグラスがカツンとぶつかり合う。香夏子は少しだけグラスを持ち上げる。すると隣からグラスを持った手が伸びてきて、香夏子のそれに軽くぶつけた。

「カナは何を怒っているんだ?」

 秀司が香夏子の身体に擦り寄ってきて首を傾げた。その様子を湊が微笑みながら見ている。

「そりゃー秀司が香夏子に全然連絡しなかったからじゃない?」

「なるほど。悪かったな」

 露ほどもそう思ってはいないだろう口調で秀司が言った。香夏子はますますムッとした。

「私は! 秀司の女じゃない!」

 秀司の身体を押し戻して香夏子はバンとテーブルを叩いた。

「それに! 秀司が連絡をよこさないからって、なんで私が怒らなきゃいけないわけ!?」

「それは二人が幼馴染だからでしょ? それに昔付き合ってたんだし」

 湊は持っていた枝豆で香夏子と秀司を指差しながら解説した。解説されなくても三人ともよくわかっている事柄だったが。

「ふむ」

 秀司はそれでも納得したような相槌を打った。

「それよりなんであんなところにいたのよ?」

 香夏子も気になっていたことを湊が聞いた。

「ああ、来月から俺が勤める職場の顔合わせがあって、その帰りにたまたまあそこを通りかかったわけだ」

「職場? 秀司、こっちで働くの?」

 湊が首を傾げて問いかけた。それに秀司は笑顔で答える。

「そう、だから十年ぶりに帰国したってわけ」

「どこで働くのよ?」

「大学」

「……はぁ!?」

 素っ頓狂な声を上げたのは香夏子だった。

「秀司が大学で教えるの?」

「もちろん」

 信じられないというように香夏子は秀司を見る。もともと秀司は頭が良かったが、まさか学者になるとは思いもしなかった。

「それで、カナと湊は今フリーなわけ?」

「そうなのよねー。香夏子はもう三十一だからって急に焦って彼氏募集中なのよ。もっと言えば結婚相手募集中」

 湊が香夏子の代わりにペラペラと答える。

「アイツ、どうしてるんだ? 聖夜のヤツ。カナと付き合ってないのか?」

 秀司は険しい顔をしている香夏子を無視して湊に尋ねた。

「それがねー、香夏子はずーっと聖夜くんが好きなんだけど、片思いなんだな、これが! この子ってばけなげに聖夜くんがちょこっとでも載っている雑誌は全て購入しててさ」

「雑誌? アイツ、芸能人になったのか?」

「違う違う! 美容師だよ。カリスマ美容師!!」

「ほぉ」

 秀司は感心したような声を出した。そしてチラッと腕時計に目をやった。

「聖夜も呼ぶか?」

「はぁ!?」

 香夏子は即座に大声で反応する。その香夏子に秀司は手のひらを上に向けて差し出した。

「何?」

「ケータイ貸してよ。俺、聖夜の番号知らない」

「本当に呼ぶつもり? 店からここまで遠いよ?」

 そう言葉では渋りながらも香夏子はケータイを取り出して聖夜の番号を探す。どうしようかと躊躇していると、横から秀司が覗き込んできて発信ボタンを押した。

「もしもし? ……カナ?」

 電話の向こうから驚いた声が聞こえてきた。聖夜の声だ。香夏子は突然緊張してしまい声が出ない。

「お、聖夜? 久しぶり!」

 何か言おうと思った瞬間、秀司がケータイを横取りして勝手にしゃべりだした。香夏子は忌々しい顔で秀司を睨んだが、秀司は聖夜との会話に夢中で香夏子のことなどまるで眼中にはなかった。

「30分くらいで来れるって」

 秀司は聖夜との会話を終え、満足げな表情でケータイを香夏子に返した。嘆息を漏らしつつケータイを鞄にしまう。本当にこの男は全く変わっていない、と香夏子は心の中で毒づいた。

 聖夜を待つ間、秀司と湊は空白の十年間を埋めるように会話を続けていた。


 秀司と聖夜と香夏子は幼馴染だ。香夏子の隣の家が聖夜の家で、向かいの家が秀司の家なのだ。それぞれ兄弟はいるが、偶然三人だけが同じ学年だった。それで幼少時はいつも三人一緒に遊んでいた。

 それが中学生になると少しずつお互いを意識するようになり、三人の関係は微妙に変化した。秀司と聖夜は何かとつるんでいたが、一人だけ女の子だった香夏子は次第に二人とは遊ばなくなり、話をする機会も減った。

 高校に進学して、三人の関係は決定的にいびつなものになった。聖夜だけが別の高校へ進学したのだ。

 そして秀司と香夏子は付き合うようになった。

 だが、その関係もすぐに壊れた。秀司は香夏子を避けるようなことはなかったが、香夏子のほうは気まずくて仕方なかった。

 大学は秀司とは違うところに入った。聖夜は専門学校へ進んでいた。香夏子が秀司のことをすっかり忘れた頃に彼が留学したことを彼の家族から聞いたのだった。そしてそれ以来、秀司は香夏子の前に姿を見せなかった。全然帰ってこないと秀司の母が漏らしていたので、おそらくほとんど帰国していなかったのだろう。

 香夏子は大学を卒業して中堅企業に就職した。理系の香夏子は設計等の部署にいるものの、結局他の男性社員の助手のような立場でしかない。それでも給料はそれなりにもらえるので我慢して働いていた。

 一人専門学校へ進学した聖夜は美容師になった。香夏子の就職先とそれほど離れていないところに彼が配属になり、香夏子は彼がまだ鋏を使わせてもらう前から通った。だが彼がスタイリストとして店に立つようになるとあれよあれよという間に人気が出て、今では芸能人までが彼の顧客だという。ファッション雑誌等でもよく顔写真つきで紹介され、聖夜を指名するなら予約は一ヶ月前に入れなくてはいけない。

 その聖夜に香夏子はずっと片思いをしていたのだった。


「本当に秀司だ!」

 三十分後にやってきた聖夜は秀司の顔を見てまずそう言った。

「おい、聖夜。なんだその髭」

「これ? 渋いでしょ」

 鼻の下に少し伸びた髭を触りながら聖夜は湊の隣に座った。香夏子の正面だ。彼の彫りの深い日本人離れした顔立ちに似合っていると香夏子は思う。

「秀司こそ何? ずいぶん真面目そうな格好してるけど。それ、いいスーツ着てるな」

「秀司ね、来月から大学で教えるんだって」

 湊が代わりに答える。聖夜は目を丸くしてヒュウっと短く口笛を吹いた。

「すごいじゃん! 末は教授? カッコいいな」

「聖夜こそカリスマらしいな。お前、有名人なの? 客がこっち見てるぞ」

 秀司が声をひそめて言った。確かに他の客が聖夜を指差す様子が見られる。香夏子はまるで自分も有名人になったような得意げな気分になった。

 だがそれに答える聖夜の声はつれない。

「別に嬉しくないよ。タバコ吸っていい?」

「どうぞ」

 湊が灰皿を渡した。香夏子は聖夜がタバコを吸うところを初めて見た。聖夜の店で施術してもらう最中にもよく思うが、指が長くてきれいだ。テーブルの下で自分の手を眺めた香夏子は短くて太い指にがっかりする。

「何、自分の手なんか見てんだ?」

 目ざとく横から秀司が香夏子の手を覗き込んできた。すぐに指を握って秀司を睨む。

「なんでもない」

「二人は相変わらず仲がいいね」

 聖夜が向かい側でまるで犬がじゃれあっているのをかわいいというような目で見ていた。香夏子は秀司を力いっぱい押し戻す。

「ぜんっぜん! それに私もさっき偶然十年ぶりに再会ばかりだし」

「へぇ。今でも恋人同士に見えるのに」

 そう言って聖夜は横を向いてタバコの煙を吐いた。思わず見とれてしまう。

「そうだろ? だから言ったじゃないか。『香夏子は俺の女だ』って」

 秀司がグラスを置いて湊に同意を求めた。湊はニコニコして頷く。

「違うっつーの!」

 香夏子はバンとテーブルを叩いた。店内は周囲の客もかなり盛り上がっていて、それくらいでは誰も驚きもしない。

「秀司とカナが別れたのって高3のとき?」

 聖夜が秀司のほうを向いて言った。

「そうだよ。もうずーーーっと昔のことでしょ」

 香夏子は間髪入れずにそう返事をしたが、なぜか他の三人は黙ったままだった。

「え? 何、この沈黙?」

「いや、高校時代なんて懐かしいな、って思ってさ」

 聖夜が香夏子を見てしみじみとそう言った。湊を見ると複雑な表情をしている。秀司は空のグラスをわざと音を立てておいた。

「おい、聖夜。今日俺を泊めろ」

 突然秀司がそう言い出した。聖夜は少し目を大きく見開いたが、タバコの灰を灰皿に落として煙を吐く。それから言った。

「泊めてあげたいけど、ウチ、遠いんだよね」

「それじゃあ湊でいいや」

「いいよ」

 香夏子は眉に皺を寄せた。自分だけ仲間はずれにされた気分だ。

 聖夜が腕時計に目をやった。

「あー、俺も終電ないや」

「じゃあ香夏子のウチに泊めてもらえ」

 秀司が平然と言った。

(え? 何? どういうこと?)

 香夏子は思ってもみない展開にますます険しい表情をした。

「うーん、でもカナに悪いからいいや」

「いいじゃん! 香夏子、大丈夫だよね?」

 湊が香夏子に目配せしながら大げさに問いかけてきた。

「……大丈夫だけど」

「よし、じゃあ今日はお開き。続きはまた今度ゆっくり会おうな!」

 言うが早いか、秀司は伝票を持って立ち上がった。彼はいつでもマイペースで強引だったが、十年経ってもそれは何も変わっていないようだ。


 店を出ると秀司と湊はすぐに手を振って湊の家へと向かっていった。

 その後ろ姿を見送った香夏子は小さくため息をつく。

「あの二人って付き合ってたよね。確か秀司がカナと別れた後……」

「うん」

 香夏子は聖夜を見上げて頷いた。聖夜と秀司が並べば秀司のほうが背が高い。だが、背が低い香夏子からすると二人とも見上げなければ視線を合わせることができなかった。

「秀司は……すげぇな。だって湊さんってカナの親友でしょ?」

「うん」

 香夏子と聖夜はゆっくりと歩き始めた。

「カナと別れてすぐカナの親友と付き合うってところが……」

「うん」

 返事をする声が暗いトーンになるのは仕方がないと香夏子は思う。

「でも秀司はカナが好きなんだよね?」

「さぁ? 違うでしょ。からかってるだけ」

「そうかな? それにしてもそれを湊さんはニコニコ笑って見てるし。ちょっと普通じゃないよね、あの二人」

「うん」

 そうだ、彼らは香夏子には全然理解できない。

「湊さんは今も秀司が好きなのか?」

「さぁ? 嫌いじゃなさそうだけど」

「じゃあカナは?」

 香夏子はドキッとした。聖夜を見上げると目が合ってますますドキドキする。

「嫌い」

 聖夜がプッと吹き出した。

「はっきり言うね。もし『秀司が好き』と言ったらここからタクシー拾おうと思ったけど、やっぱりカナのウチに行くわ」

 もう心臓が胸から飛び出してくるんじゃないかと思うくらい激しくドキドキしていたが、香夏子は余裕のある表情を作って頷いた。

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