16 ヒカルとふたりで
保健室の戸を開けると、空の椅子と空いたベッドが二つそこにあった。昨日来た時と同じく先生は不在だった。まさか二日連続で朝っぱらから保健室に出向くことになるなんてと思いながら、百子は疲弊した彼女をベッドに座らせた。
「あたしのせいで」
ヒカルは口を割るなり弱々しく呟いた。やっと泣き止んだ目をふたたび潤ませて、下唇をグッと噛みしめた。
「違うでしょ」
俯く彼女の目の前に立ち、百子はそう言葉にした。
「あれはわたしが油断したせいだから。今までめんどくさいからって避けてきたのに、何であんな思いっきり喧嘩売っちゃったんだろ」
と百子は自嘲気味に続けた。
あとからじわじわ後悔の念が湧いてくる。
「わたしバカだな」
ずいぶん頭が軽くなった。こだわりはそこまで持っていなかったものの、一年以上も伸ばし続けていた髪を断りもなく切られたのはやっぱりショックだったみたいだ。
急に喪失感が襲ってくる。
「守れなくてごめんね」
ヒカルはそう言葉にすると、瞼の中にあった涙を重力に任せて落っことした。
「もー、泣かないでよ……」
百子はガシガシと頭を掻いた。切られた髪の残骸が指に挟まって、ため息が漏れた。
「ヒカルちゃんは悪くないよ」
ベッド周りのカーテンを引いてから、ヒカルの隣にひとり分空けて腰を下ろした。
すると、ヒカルが何を思ったのか百子の方に少しずつにじり寄って、ピッタリ身体をくっつけた。
「もう嫌。教室戻りたくない。ずっと一緒にここにいて」
そう言って、ヒカルは座ったまま身体をねじり、百子を抱き寄せた。彼女の細くて長い腕に包まれると、昨日と同じ甘い匂いがした。
「えぇっ! あの、ちょっと……ヒカルちゃ……」
百子はヒカルの腕に手をかけ、そこに顔をうずめた。
その瞬間からドクドクと脈打つ胸の振動が全身に響いた。顔が上気して赤くなっていくのが分かる。
--ち、近い、近いし熱い……。
その二の腕に触れた頬が溶け込むかと思うほどなめらかで、キメの細かいヒカルの肌。意識するほど鼓動は高鳴った。
どうしていいかも分からないまま、百子は目を閉じた。
--なんでこんなにドキドキするのよ!
カーテンの壁に囲われた空間に二人きり。脳内に、星とも花火ともつかない光がパチパチと散った。
ドキドキ暴れる心臓に、収まれ、収まれと呪文を唱え続けたが、身体の血流はますます活発になるばかりだった。
ふわっと首元にヒカルの吐息が吹きかかるのを感じた。ゾワゾワッと小さい何かが背中から首元にかけて走り抜ける。
その感覚で、瑛里華に喧嘩を売ったことも髪の毛をバッサリ切られたことも、何もかも忘れてしまいそうだった。
ついに耐え兼ねた百子は思い切って声を発した。
「あっあの!」
顔が強張ってうまく言葉が出せない。口をパクパクさせてヒカルの方を確認すると、彼女は百子の肩に頭を載せたまま目線だけをこちらに向けた。涙の跡は残っていたが、もう泣き止んだみたいだった。
「ごめん、ちょっと、こんなにくっつくの恥ずかしい」
息も絶え絶えになりながら百子は必死にそう言葉にした。
「ハッ! ごめんなさい!」
銃を向けられた犯人みたいに、ヒカルはパッと両手を上げて飛び退いた。
「ごめん、なんか緊張しちゃって」
と言い、百子はまだドキドキする胸を押さえた。
「そ、そっか、ごめんね。嫌だったよね」
ヒカルは彼女の真っ赤な顔を見るなり、それにつられて頬を赤く染めた。
「嫌とかじゃないんだけど、びっくりしちゃって……」
前髪を整えるフリをして、百子は照れをごまかした。
今まで別の友達にハグされたこともあったし、ましてや付き合った彼氏に抱かれたことさえあるのに、なぜこんなにも赤面しているのか。自分自身でも分からなかった。
そのあとしばらく沈黙が続いた。
恥ずかしさで目も合わせられず、どうしようか悩んでいると、ヒカルが切り出した。
「どうする? 百子ちゃん、戻る?」
さっきまでの雰囲気とは打って変わって、彼女の声は明らかに沈んでいた。
百子少し考えた末、
「んー、どうしよっか。このままどっか遊びに行く?」
と冗談交じりに、でも心の中では本気で問いかけた。戻りたくないと言った彼女のためになればと思ったからだった。
百子の問いかけに彼女はパッと顔を上げ、大きな目を二、三度瞬かせた。
「エッ、授業はいいの?」
「いいよ、一日くらい。だってわたしも戻りたくないし」
「本当にいいの!?」
真面目な彼女が堂々とサボり宣言をしたので、ヒカルは驚きを隠せずにいた。けれどその表情を一瞬のうちに弾けるような笑顔に変え、ベッドから飛び上がった。
「ねえ、じゃあさ、今からあたしがいつも行ってる美容院連れてってあげる! そのあとお気に入りの雑貨屋さん行ってゲーセンも行って、あと、水族館も行きたい! 遊園地も!」
ヒカルはしっぽをブンブン振り回している犬みたいに喜んだ。今すぐにでも散歩に出かけたそうに、ぴょんぴょんその場でジャンプしている。
「そんないっぺんには無理だよ」
そう咎めながらも、百子は彼女のはしゃぎっぷりにつられて嬉しくなった。
「じゃあできるだけでいいから! 早く行こ!」
ヒカルに手を引かれ、百子もベッドから降りる。カーテンをシャッと勢いよく開け、保健室を出ようと視界の開けた個室から一歩踏み出した。しかし、二人はピタリと足を止めた。目の前で保健の先生が、仁王立ちして行く手を阻んでいたのだ。
「せ、先生」
「もしかして聞いてた……?」
百子とヒカルはこわごわ声を発した。
二人は叱られる前の犬みたいに、耳を伏せて縮こまった。
「早く行きなさい」
そう言った先生の声は、氷のように冷たく尖って二人の心に刺さった。
「はい……」
彼女らはしょんぼりとして、トボトボと保健室の外へ足を運ぶ。十日前から楽しみにしていた遠足が中止になった時の子供のような気分だった。
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