十二

 会場を出ると、もう三人の姿は見えなくなっていた。左右どちらか、交互に見合いながら、勘を頼りに右手に進んでいく。


 けど、その突き当たりの角にさしかかった時、姿が見えた。よかった、すぐさま後を追う。


 レーナは用具室の方に走っていた。軸のない身体で、どうすればあんなに早く走れるのかというくらいに早かった。 


 ちょ、なんであんなスピードが出るの!?


 まもなく用具室を横切るというところで、先頭を走っていたイチさんが唐突に右手を伸ばした。


「出番だっ」


 そう叫ぶと、用具室の扉が勢いよく開く。中から刀が飛んできた。


 ええっ!?


 あまりの動揺で、足元が一瞬覚束なくなる。


 けれど、イチさんはさも待っていたかのように刀を掴んだ。


 り、理解が及ばない。突然のこと過ぎて、処理が追いつかない。まるで生き物のような意志を持った刀が扉を勢いよく開け、飛んできたのだから。


 もう何が何だか分かんないよ……


 レーナは階段に繋がる分厚い扉を荒く開ける。


 閉まりかかっていた扉を掴み、勢いよく開けるイチさん。身体を手すりから乗り出し、上下を交互に見た。そして、階下へ駆け降りていく。トーさんも続く。


 一瞬立ち止まった隙に、最後尾の愛菜花との距離を縮めた。


「来たの?」


「来たよっ」


 息が上がりながら、僕らは階段を降りていく。視界の端へ微かに入るイチさんとトーさんの二人の姿を頼りに、走り続ける。


 階段から出たのは、一番深い地下二階まで降りた時。階段を出るとそこは、陽の光が入らないせいでなんとも薄暗い、ホテルの地下駐車場だった。


 それまで必死になって駆けていた僕ら。けど、イチさんは刀を構え、トーさんは本を手にしながら、ゆっくりと歩いている姿を目にして、一気に速度落とした。


 途端、呼吸が乱れに乱れる。足音さえも立てていない雰囲気から、僕は口を真一文字に閉じて、鼻呼吸に切り替える。

 身体は酸素を求めているから、吸って吐いての頻度が著しく高くなる。そのせいで肩が激しく動いてしまう。


 がらがらと開ける音が反響する。あまりの音に思わず身体がすくむ。続け様に、袋を引きちぎる音、何がボトボトと落ちる音が聞こえてきた。


 イチさんが振り返り、頭を左に傾けた。おそらくそっちにレーナはいる。


 頷きで返事をし、ついていく。


 がさごそと物を漁るような音が断続的に耳に届く。


 向かっている方には、一枚大きな壁がある。地面に従業員専用の文字と矢印が書いてあり、その奥も続いている。


 漁る音は段々と大きくなっていく。近づいている証拠だった。


 うっ。


 思わず肘を曲げて、慌てて鼻を覆った。これは多分、腐りかけ、もしくは既に腐っている生ゴミの匂い。強烈な異臭を放っている。前にも似た匂いを嗅いだことを思い出す。


 隣に並ぶ愛菜花もしかめ面になりながら、手の甲と手首辺りを鼻に押しつけていた。


 壁のところに差しかかる。そこには水色の業務用ダストボックスがずらりと並んでいた。そこに、しゃがんだレーナが袋の中のゴミを必死になって漁っていた。


 イチさんは構えの体勢を解き、刀を肩に乗せた。


「どうしたよ?」


 イチさんがそう呼びかけると、勢いよく振り返った。りんごの皮を口から飛び出させている。口元から頬にかけて、ケチャップやケーキを包むフィルムもついている。


「走ったせいで腹減っちまったのか。だったら、襲ってなんかいねえで、参加すりゃよかったろ。んなもんよりも美味えし、しかもタダ飯だ」


「ぎぃるぅるぅるぅるぅ」


 獣のような呻き声。顔を激しく振る動作。もはや人間の動きではなかった。


「ったく、言葉も通じねえんじゃ、苦労すんな」


「おまぁえらぁぁ、なぁんでじゃまをするぅ?」


 睨む目線は異常なまでに鋭かった。憎しみが混ざっている。


「なんだよ、喋れんのか。てこったぁ、聞く耳をもってなかったんだな」


 けど、イチさんは何も気にしてなどいなかった。


「あいつのぉ、せいでぇ、みぃんなぁおかしくぅ、なぁった」


 出す声が高音だからか、所々掠れており、はっきりと出ていないところもあった。


「広めたのはぁ、悪いのはぁぁ」


「てことは、呪いの言葉を広めたのはグラサン野郎ってわけだな?」


 近づきながら、イチさんは問いただす。


「ころさなきゃぁ」しゃがんだ状態のまま、一歩ずつ後退りしていくレーナ。「あいつぅぅがぜぇんぶ、ぜんぶのぉぉ……うぃっ」


 しゃくり上げると、背筋が不自然に伸び、固まった。そのまま後ろへ倒れると、電気でも走っているかのように全身が激しく動く。左右の黒目がそれぞれ、別の方に向いている。口元から泡を吹いている。


 一体全体、何が起きて……


 レーナは頭と足を地面につけたまま心臓を高く突き上げると、唐突に力を失って地面に落ち、そのまま動かなくなった。


 流れる沈黙。だが、それを破ったのもレーナだった。


 止まっていた呼吸をするため深く吸い、詰まったゴミを吐き出すかのように胃液交じりの咳をしながら、上半身を起こした。


「あ、あたし……どうしてここに」


 えっ、記憶がない?


「何これ……なんなのこれ」


 口元を拭うレーナ。続けて、恐怖に慄いた顔で僕らを見てきた。


「何持ってるの。何したの、あなたたちっ」


 その表情や動作は先程までの異常さとは真逆、ただの普通の人のそれだった。


「もしかして」トーさんが呟く。「何かに操られていた?」


 操られていた?


「助けて、誰か助けてっ」


 レーナは涙を浮かべた必死の形相で、助けを求め始めた。


 隣で動く影。愛菜花だ。愛菜花がレーナの元に近寄ったのだ。


 最初は「いやっ」と差し伸べた手を払い除けられたが、すぐに両肩に添える。


「大丈夫、私たちは味方です。あなたを助けにきたんです」


「……助けに?」訴えた言葉に、レーナは落ち着きを取り戻す。


「はい」


「じゃあ……」レーナは俯く。「お願い。頼みをひとつ聞いて」


「え?」


 レーナは愛菜花の耳元に近づく。愛菜花も聞こうと傾ける。


 けど、愛菜花は尻餅をついた。「いったぁ……」


 苦痛で顔を歪める。イチさんが服の首元を強く引っ張ったからだ。


「何するんですかっ?」愛菜花は睨みの視線を向けた。


「助けてやったんだ」


「は?」


「ほれ」イチさんは顎で指し示す。


 見ると、レーナはもう白目になっており、その口の舌の上には何か黒いものが蠢いていた。


「きゃぁっ」


 愛菜花は尻餅のまま、後退りする。


「コイツが寄生していたっていうわけか」トーさんは遠目ながらではあるけれど、まじまじと眺めている。


 足が五方向に伸びた、まるでヒトデのような黒々とした気持ちの悪い物体は舌を這って、唇に出てくる。

 そのまま地面にぽとりと落ちると、レーナも糸が切れたように直後、地面に倒れ込んだ。その動きに力は無いけれど、それでもまだ愛菜花に向かってこようとした。


「来ないでよっ」愛菜花は後退りの動きを早める。


 間にイチさんが立ち塞がる。刃を真下に向けた刀を両手で持って。


「じゃあな」


 イチさんはヒトデに刃を立てて、真っ二つに。そのうちの片方は頭部なのか、切られても少し動いていたが、動きは次第に鈍くなり、小さくなっていく。

 ついに動かなくなると、シュワシュワと炭酸の泡のような小さな音を立てながら蒸発していった。ものの数秒で姿形すらなくなった。


「あ、あれは、な、なんなんですかっ!?」


 愛菜花は立ち上がり、イチさんに半分叫びながら問うた。


「何って、あれがあの女を操ってたんだろ」


 イチさんは飄々と、地面の鞘を拾った。


「操る?」


「そのままの意味だよ」イチさんは鞘に刀をしまう。「そんで、今度はお前に乗り移ろうとしてた」


「の、乗り移る? あれが??」


「あの身体がもう長くはもたねえと思ったんだろうよ」


 長くもたないって、ことは……


 視線を向けると、レーナの元にはトーさんがいた。手首に指先を当てている。そっと地面に置くと、静かに合掌した。


「駄目か?」


「残念ながら」


 二人は眉間に深いしわを寄せ、ため息をついた。


「ちょ、ちょっと待って」


 愛菜花は伸ばした両腕をイチさんとトーさんに向けた。


「勝手に話を進んじゃってるけど、私たちが追ってたのは呪いの言葉でしょ? なんでいつのまに、こんなヒトデが出てくるような事態になってるのよ」


「あれ、もしかしてヒトデ苦手なのか?」


 イチさんが子供のように笑うと、「そう、苦手っ。一番苦手。もう見てるだけで気持ちが悪くなる」と愛菜花は応えた。


「そりゃ災難」


「てか、いいんです。今はもう、とりあえず。とにかく、呪いの言葉とヒトデに何の関係が……」


「難しく考えんなって」


 イチさんは鼻の下を伸ばし、人差し指で掻いた。


「このヒトデ野郎が・・・・・・・呪いの言葉・・・・・、なんだよ」

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