十四

「まさかこんなことになるなんてねぇ……」


 私は視線を上げた。少し前に話している女性が二人いた。歳はそこそこ、お母さんぐらいの年齢だろう。


「ねぇ……まだ若いのに」


 耳に勝手に届く会話を、昨日の雨がまだ残っている石畳を歩きながら聞く。

 二人とも会ったことはない。けれど、私と同じく喪服に身を包み、香典返しを手に提げていることから、に来た人だというのは分かった。


「娘がって、親としてはやり切れないわよね……」


「最初に見つけたの、真奈美まなみさんだったんでしょう? 大丈夫かしらね……」


 真奈美……確か、由奈のお母さんの名前。


「そりゃあきてるわよ。酷く疲れてて、顔なんかやつれきってたわ」


「そうよね。ひとり娘を失えば、誰だってそうなるわよね」


「何かあったのかしら」


「特に無かったんだって」


「突発的だったってこと?」


「もしかしたら、うつ病か何かだったのかもね」


「あぁ、今若い人も多いって聞くものね」


 左手に逸れ、砂利の上に。あることないこと、しつこいぐらいに語る二人から距離をとりたかったのだ。


 何も考えてない私とは裏腹に、両足は大木のふもとにぽつんと置かれた青いベンチへと向かっていた。別に逆らうこともない。為すがまま、為されるがまま。私は歩みを進めた。ところどころ赤茶色に錆びて穴があいていることに近くへ来て気づいた。服に引っ掛けてほつれてしまわぬよう、位置を考えながら腰掛けた。


 ふぅと息が口から漏れ落ちた。まるで呼吸を忘れていたかのような、深く長い一息だった。吐ききってから、吸い込む。反動で大きくなる。

 脳内に酸素が取り込まれたからか、ふと記憶が蘇ってきた。

 たった三日前。けれど、とてもとても遠くに感じていた。


 あの時、ニノマエさんとツナシさんと一緒にいる時、かかってきた電話。ディスプレイには“由奈”と表示されたが、出たのは由奈ではなかった。


「佑香ちゃん」


 最初聞こえてきたのは、由奈ではない声と呼び方。由奈のスマホを使って、由奈のお母さんがかけていたのだ。予想外の事態に思わず「ど、どちら様でしょうか」と戸惑いの声を出したのを鮮明に覚えている。

 そのまま、由奈のことを聞き、呆然としたまま時は流れ、今に至る。


 今の時間に意識が戻る。まさか死んじゃうだなんて、思ってもみなかった。


 私のせいだろうか……私が強く詰めたりしたから由奈は……私は両膝に腕を置き、体を前に倒した。


 晴矢は未だ昏睡状態。目を覚ます気配はなく、容態は日に日に悪化していく一方。ニノマエさん曰く、「怪異のせいで生命力を失っているのかもしれない」とのこと。昨日の悪化の様子を見た限り、時間はあまり残されていない、とも言っていた。


 何より、こんな最悪な状況を打破するには、怪異を倒すしかない。けれど、肝心の怪異は警戒しているのか、あれから姿を現さなくなった。


 見つけたいのに見つからない、倒したいのに倒せない。なんとももどかしい。


 はぁ……


 ため息交じりに首をがくりと落とす。何も得られず、失っていくばかり。なんでこんなことになっちゃったんだろう……もう嫌だよ……


「佑香ちゃん」


 聞き覚えのある声。顔を向けて、予想と答えが一致する。

 すぐそばに立っていたのは喪服姿の、由奈のお母さん。


 私は少し瞬きを小刻みにしながら、慌てて立ち上がった。「このたびは……その、なんと言ったらいいのか……お悔やみ申し上げます」


「お気遣い、ありがとうございます」


 実を言うと、由奈のお母さんとは一度しか面識がない。しかも由奈と遊んでいる時に街で偶然、というぐらい。けれど、目尻に寄る皺やなんでも包み込んでくれそうな愛嬌ある笑みは記憶に刻まれている。


 今浮かべている表情も以前のそれと変わらないような優しさが見えるが、やはりどこか違った。疲れからくるやつれや老け込みだけではない。まるで、そう、笑みとは反対の感情があった。どこまでも辛い苦しみとどこまでも続く悲しみを掛け合わせたかのようだった。


「また会うのがこんなの場所でなんてね……できれば、三人でご飯でも食べながら、笑って会いたかったわ」


 弱い笑顔。底まで落ちている声のトーン。


「……ええ」


 座って、と促され、私は少し横にずれて腰を下ろした。少しズレたそこへ、傍らに葬儀用のバッグを置いて由奈のお母さんが座った。


「佑香ちゃんに聞きたいことがあるんだけど」由奈のお母さんはおもむろに口を開いた。「由奈のことで何か知らない?」


「え?」眉がぴくりと動く。


「その、何かで悩んでいたとか、気がかりなことでも何でもいいのだけど、聞いていたりしてないかな?」


 心がきつく締めつけられる。確定ではないが、心当たりはあったからだ。


「いえ……」


 けど、口から嘘を吐いた。言い訳をさせてもらえるのなら、こんな時に信じてもらえるような話でもないし、不謹慎だと捉えられてしまうかもしれないと思ったからだ。


「そっか……」


 沈黙が流れる。


「亡くなる前に会ったのはいつでした?」今度は私から。


「前の日の夜。家に帰って来た時に少し。玄関で立ち尽くす姿を見た時、落ち込んでるって分かった。だからどうしたか聞いたけど、答えてくれなかったわ。そのまま自分の部屋にこもっちゃって……」


 膝の上で重ねた指を小さく絶え間なく動かしていた。


「不機嫌なんかじゃなかったのよ。なんていうか、ひどくショックを受けていたというか。一人にしておくべきか、話を聞いてあげるべきか悩んで、結局部屋まで行って声をかけたんだけど、返事がなくて。扉開けたら……」


 その時の悲惨過ぎる光景を思い出してしまったのか、由奈のお母さんは一瞬にして溢れ出した涙を拭った。


「なんですぐに聞かなかったんだろう、無理矢理にでもすぐにリビングに連れて来て、聞くべきだったんじゃないかって自分を責めた。けど……そんなの……ほんと、母親失格ね、私は」


 葬儀用のバッグからハンカチを取り出すと、とどまらぬ涙を拭いた。

 なんと声をかけたらいいか分からなかった。どんな慰めの言葉も同情の言葉も、軽薄になるように思えて、私には視線を深く落とすことしかできなかった。


「ごめんなさいね」


 由奈のお母さんは震わせた声をひと呼吸置いて整える。


「そうだ、佑香ちゃんに渡さなきゃいけないものがあるの」と、バッグから何かを取り出す。背中で見えないが、振り向きざま、「これ」と手渡される。


「これって……」


 水色が地になって、赤の水玉模様が書かれた封筒。真ん中には、“佑香へ”と書かれている。


「手紙、ですか?」


「ええ、由奈からよ。机の上に置いてあった。中身は見てない。だからもし、由奈が命を絶った理由が書かれてたら、教えてくれないかしら」


 真っ直ぐ、切実な目で由奈のお母さんは見てきた。


「わかりました」その目を見て頷いた。それに安心したのか、由奈のお母さんは「そろそろ戻らないと」と、立ち上がった。まだやることがあるのだろう。


「いつでもうちに来て。由奈も喜ぶから」


「はい」


「それじゃあ」斎場へと帰っていく。


 姿が小さくなるのを見て、私は視線を手紙へ向けた。


 ごくりと喉が鳴る。死の寸前に書いた手紙……


 裏返し、封を上に開いた。中から折りたたまれた白い紙が顔を覗かせていた。中身を取り出す。何枚もの紙が一緒に四つ折りにされている。


 緊張が走る。中には一体、何が書かれているのか。死を選んだ理由だろうか。もしかして、私に対しての恨みつらみだろうか。


 恐怖さえ芽生え始めてきた気持ちを封じ込めるように、私は目を閉じた。


 よし。


 意を決して呼吸を整え、私はゆっくりと手紙を開く。そして、視線を始まりの左上へと向けた。


 “ごめんなさい”——手紙はその一文から始まっていた。

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