三十五

 頭から足へ、悪寒が駆け抜けた。


 向けられた双眼は偶然網にかかった深海魚のようにぎょろりとして、気味が悪かった。かといって、必死さはない。それどころか、余裕さしか感じない。


 そうか。いや、そういえばそうだ。

 怪異にとって、対抗も反抗もできずただ逃げることしかできない人間など、そもそも眼中にないんだ。近づけばいとも容易く寿命を吸える存在としか思ってないんだ。エンドウさんはブレスレットがあるから、俺は運悪くただ居合わせたから、たったそれだけのことなんだ。


 体から痛みが消えた。代わりに恐怖が全身を包む。

 それを感じ取った怪異はゆっくり足を動かして、こちらへ向けてきた。じわりじわりと時間をかけてくる。それが恐怖を煽った。


 無理だ……


 俺は「逃げましょう」とエンドウさんに声をかける。が、目を限界まで開いて固まっていた。まるで初めて見るかのよう。

 返事の代わりに、怪異の躙り寄る足音が聞こえる。じゃりじゃり、と砂を踏み、足裏で擦れる音だ。


 マズい。俺はエンドウさんの肩を揺らす。ちくしょう、これじゃさっきと同じじゃねえか。俺は無理矢理にでも連れて行こうと、へたっているエンドウさんの腕を、首の後ろに回した。

 立ち上がろうと膝に力を入れる。いや、入れる直前だったかもしれない。俺は、気づいた。聞こえていた音が聞こえなくなっていたことに。忘れていたわけではない。だけど、逃げるのに必死で意識外にあったということは間違いなかった。

 俺は斜め右下に向けていた顔を正面へ。怪異は目の前にいた。


「ああぁ……」


 思わず声が漏れた。声帯ではなく、心が直接口に働きかけて出てきた。


 怪異が左腕を伸ばしてきた。

 それを見て、プツリと途切れた糸のように、体に力が入らなくなった。それは、本能で諦めた瞬間でもあった。


 もう無理だ……


 瞬間、左肩から何かが飛び出ててくる。膝立ち程度であった俺とエンドウさんなのに、驚きのあまり思わず尻餅をつく。怪異も波打つように、体を前方に動かした。


 飛び出してきたもの。それは、銀色に輝く刃だった。


「まだだぞ、デカブツ」


 刃が空いた脇に落ちる。刀が怪異から離れたと同時に、胴から左腕が分かれた。

 腕が無くなったことで、先ほどまで見えていなかった奥が見えるようになる。そこには、両手で持った刀を振り下ろし終えたイチ君の姿が。目尻と口元に血を滲ませていたり、頰や手の甲にかすり傷が出来ていた。


 腕は、ぼとりと音を立てて地面に。同時に、イチ君は怪異から距離を取る。


 腕が転がる。半円を描くように回り、断面が見えた。骨やら肉やら血管やら、動物であればあるはずのモノが何一つ見えない。吸い込まれそうなぐらいに黒い闇があるだけ。なんとも不思議であり、奇怪極まりなかった。


 怪異は小刻みに体を震わせ始めた。牙のように鋭い歯に力を込め、振り返る。


「おいおい……俺のせいにすんなよな」


 眉をひそめながら、捨てるように言葉を吐くイチ君。


 怪異が空気を吸い込む。そして、鼓膜を破らんばかりの異常な音量で叫ぶ。強烈な怒号に俺とエンドウさんは耳を塞いだ。考えもせず自然に手が耳に向かったのだ。僅かにある手の隙間から、閉じられた空間が地震のようにガタガタと震える音が耳に届く。

 明らかに怪異は怒っている。戦い始めた時とは比べ物にならないほど、怒りが頂点に達している。


「悪りぃのは、トドメささなかったそっちだろうが」イチ君は耳から人差し指を出す。「戦場で背中見せたらやられるのは当たり前な話だぞ」


「よく覚えとけ、気ぃ抜くんは終わってからって、なっ」


 イチ君が走り出す。怪異も微々遅れて走り出す。そして、戦闘が丁度中央で再開した。


 怪異は右肩を振り、弾こうとする。しかし、腕を失ったことで体のバランスが崩れたのか、体ごと持っていかれ体勢が狂った。

 その一瞬をイチ君は見逃さなかった。見えた背中に一振り二振りと、次々に傷を刻んでいく。浅い傷深い傷、様々だけれども、その数が増えていけばいくほど、怪異のスピードは落ちていった。素人目でもそれが何を意味しているか分かる。怪異は弱くなっているのだ。


 イチ君、頑張って……

 応援することしかできない。だからこそ俺は心の底から願い、強く祈っていた。


 怪異が右腕を真っ直ぐ伸ばす。真正面であったからか、刃を縦にして防ぐと、滑るように後ろへ行く。建物の陰に入ったためぼんやりとだが、イチ君の動きが見えた。しゃがんだ。で、立ち上がってすぐに刀を投げた。

 斜め上へ昇っていくように飛んでいく。怪異が体をのけぞらせながら、顔の前に飛んできた刀を掴む。にしては、少し小さいような……

 キラリと光ったのを見て、分かった。あれは刀じゃない。刀を入れているだ。

 怪異の足元で何かが動いたのが視界の隅に入る。見ると、イチ君がいた。体勢は、右膝を地面と平行になるぐらいにまで直角にした状態。


「おんりゃぁあ!」


 刀を水平に思いっきり振った。刃が右膝を通る。人間で言う半月板の辺りを抜けたのだ。そのまま、左手に投げるように逆手で持ち替え、地面に刺す。そして、今度は左足を地面に着けて、浮かせた右脚で切った怪異の足をサッカーのように蹴り飛ばした。


 だるま落としのように怪異の足が真横へ飛んでいくと、態勢が斜めになった。足は歪に転がり、壁に激突。

 今度は叫び声を上げなかった。代わりに、生き残っている右腕を振り下ろした。不意を突くような素早さで、イチ君を潰しにかかったのだ。


 地面と激しくぶつかった音とともに砂埃が舞う。ここからじゃ躱したのか否かが見えない。どっちなんだ、どうなんだ……


 見えた。躱してなかった。逃げてなかった。刀で対抗しているわけでも、潰されてもない。


 イチ君は、怪異の腕に乗っていたのだ。

 怪異もそれを確認すると、悔しそうに牙を見せた。続けて、降りろと言わんばかりに腕を払った。だが、振り過ぎた。その力を利用し、イチ君は高く飛ぶ。怪異の顔が上へ。俺もエンドウさんも同じく。


 体勢を変え、空に足を向けるイチ君。囲んでいるボウに足を着ける。膝を思いっきり曲げる。そして、地面に向かって飛ぶ。

 間髪入れず刀を投げる。怪異は顔を守るべく、目の上辺りを手を翳す。よけるのを諦めて、手に刺さらせた。


 それを見たイチ君は即座に体を回転。そして右足を伸ばし、柄の頭に踵が入った。だが、刺さらない。怪異が抵抗する。

 歯をくいしばり、力を込めるイチ君。牙を噛み締め、防ぐ怪異。刀が、怪異の腕がガタガタと震える。


「行っけぇえぇっ!!」


 俺は出した事もない声を、喉を枯らすほどの大声を出す。いや、気付いたら勝手に出ていた。


「おっらァァアァァァ!!!」


 イチ君は喉を潰すほど叫んだ。


 それは突然の事だった。止まっていた刀が一気に手の甲まで貫く。勢いは止まらず、より深く刺さっていく。刃の先は怪異の眼球めがけて真っ直ぐ。そして、刺さった。


 怪異の肘が落ちる。少し刀から足がずれたからか、イチ君はそのまま前に向かって何度も回転すると、怪異後方の壁へぶつかった。地面に落ち、叩きつけられる。

 怪異は残った左足をがくりと折ると、地面に膝を着けた。そして、無抵抗で顔から倒れ込んだ。


 静かな時が流れる。


「ふぅー」イチ君の声が聞こえ、すぐさま視線を向ける。もう近くまで来ていた。肩を回し、首を前後左右にポキポキと折っている。


 俺は歩み寄り、大事なことを尋ねる。


「た、倒したの?」


 イチ君は返事をしない。代わりに、片方の口角を上げた。それだけで意味は十二分に分かった。


 やった……やったっ……


「やったぁぁ!!」


 俺はエンドウさんと見合った。安心で一杯の満面の笑みを浮かべていた。おそらく俺も同じような顔をしていると思う。俺の顔を見て、エンドウさんの笑みが強くなったからだ。

 不思議と手が前に出て、自然にハイタッチ。胸の辺りまでしか手は伸ばさなかったが、普段ならしないハイタッチを決してしないぐらい、何度もしつこく繰り返した。だが、全くこれっぽっちも嫌ではなかった。息が荒くなる。こんなに嬉しいのは何年ぶり、いや今までに経験したことがない。全身が喜んでいる。歓喜している。


 ふと、空気が変わった。というよりは、空気が解放された。糸が切れるようにぷつりと。外の音が聞こえてきた。トー君が術を、ボウを消したのだろう。


 俺は空を仰ぐ。本当の意味での空を、だ。

 黒い夜空に点々と星々が散らばっていた。これまで、ちゃんと空を見たことがなかった。

 こんなにも空って星って綺麗だったのか……

 今更ながら、心底驚いた。


 てか、こんなにも素敵な情報がすぐそばにあったのに知らなかったなんて……記者失格だな、全く。


 ああ、そうだ。俺は生きている。

 イチ君とトー君の2人のおかげで、今、俺は生きている。

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