第六章 光の国

6-1. ヰセキは松山が誇るブランドです

 折角新しい章に入ったことですし、目次を見返してみてください。何か気づくことはありませんか? そうです、本稿の副題は頭文字がいろは順になっているんですよ。最初の難関である「る」「を」をあまりに自然にやりすごしたために、気が付いている読者は未だいなったかと思いますが。しかし、そんな私をもってしても、「ヰ」には敵いませんでした。なんてったって、現代日本語では使わない仮名ですから、無理があろうかと思われます。いや、考えもなしにいろは順を始めたわけじゃないんですよ。当初は『ヰタ・セクスアリス』にする予定だったんですが、いざ書く段になって俄かに垢BANが怖くなってしまい、日和りました。


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 どうして人を殺してはいけないのだろうか。直接的には、これは法に違反するからと言えるかもしれない。大陸であれ英米であれスカンディナヴィアであれ、あるいはシャリーアでっても、殺人というのは許されざる行為である。そういう意味では、普遍的に「いけないこと」なのだろう。だが、例外は存在する。戦争における場合である。戦争においてはむしろ殺さなかった場合に罰せられる。これもまた普遍的なものだ(*1)。これを考えると、だんだん雲行きが怪しくなってくる。


 ここでは、法律を取っ払って考えてみよう。論点は二つある。第一に、殺してはいけない範囲に関して。第二に、殺してはいけない条件に関して。


 まず、殺してはいけない範囲について。多くの場合、「殺してはいけない」と主張されるのは人についてである。動物の殺生は多くの場合推奨されていないが、禁止されているわけではないし、認められるための基準も人間よりはるかに緩い。ゴキブリだってサナダムシだって赤痢菌だってみんな生きているんだ、友達じゃあないのか。 代々木公園で行われた蚊に対するジェノサイド について、我々はもっと声を挙げるべきではないだろうか。また、進化論から明らかなように、種というのは恣意的な概念である。


 この点に関して、徳川綱吉の生類憐みの令は極めてフェアな態度をとっている。犬優遇という減点ポイントはあるものの、このルールは全ての生物に適用されたのであり、蚊を殺すことも許されない。さらに注目すべきは、人間の捨て子対策も動物殺生禁止と同時に行われていたことである(*2)。赤痢菌は対象ではなかったが、これは当時(志賀潔以前)の科学水準では生物として認識されていなかったことによるものであり、この法令の価値を棄損するものではない。だが、この態度は、無数の生物を殺すことで成立している現在のわれわれの生活態度から著しくかけ離れている。もちろんかけ離れているからといってその可能性を排除すべきではないが、現状から遠すぎてロードマップを描くのが難しいのは確かだ。


 より現実的な解決策としては、苦痛を感じるかどうか、未来を認識できるかどうかに基準を置くものである。対象となる生物が苦痛を感じず未来を認識できないなら、殺しても問題はないし、苦痛を感じるが未来を認識できない場合には苦痛を感じないような殺し方をすればよい。人間の様に痛を感じ未来を認識できる場合には、殺すことは認められない。だが、この考え方の欠点は、人間であっても、生まれたばかりの赤子であったり、重度の認知症であったりして未来を認識できる条件を満たさないこともあるという。尤も、子供がいつから未来を認識できるのかは外から見る限りはよく分からない。


 そこで登場するのが人間という恣意的な枠組みである。この枠組みは恣意的であっても、二条件を満たす生物をすべて含んでいる(*3)。だから、安全側として、全ての人間を殺さないという態度をとることを正当化することができる。


 次に、殺してはいけない条件に付いて。戦争の例があるように、何らかの殺すことを認める条件がありうる。


 とはいえ、「誰かに盗られるくらいならあなたを殺していいですか 」というような破れかぶれ、「あのこをたとえば殺してもあなたは私を愛さない 」というような目的不合理、「君の元カレ殺したいよ 君を汚したから 」といった私刑は断じて認められない。


 得られる結論は単純なものだ。人を殺した場合と殺さなかった場合の効用を比較して大きい方をとればいいのである。戦争における殺人もこの観点から肯定される場合があるだろう。すなわち目の前の敵を倒すことでいくつもの銃後の命が救われるのだ。軍歌なんか。この条件に従って考えれば、平常時にあっても、例えば飢饉の際に口減らしのために人を殺すことは許される余地がある。


 場合によっては人を殺して良い?


 そんな馬鹿げたことがあるだろうか。


 この議論の究極的な目的をもう一度問い直したい。いかに幸福に生きるかだ。そこで、最も真摯に幸福を追求しているであろう、現代のオタクの行動を参照してみよう。彼らはえり好みの激しい人間だ。自分のやりたくないことはやらないのだ。だから私は彼らの怒りを買わないように、NTRやBLのような要素を適切に管理しながら 小説を執筆しなければならない。自分の胸に手を当てて考え直してみると、私は殺すなんて絶対に嫌だ。私はオタクとして生きていく。だから私は私の幸福を追求するために、どういう条件であっても人を殺さない。


 死刑執行人は必ず複数人でチームを組んで死刑を執行し、だれが死刑囚の生命にクリティカルな影響を及ぼしたのか分からないようにするらしい。人を殺すというのは、不可逆(*4)な行いであって、我々の精神に及ぼす影響は重大なものだ。先の死刑執行人の例で言えばいかに複雑なデザインを採用したとしても、執行人たちが一つのまとまりとして、生命を奪っていることには違いないだろう。これに対し他国の情報を盗むような行為は何らかの殺人に及ぼす可能性はあっても、なお遠い。ここを飛び越えるのに大きなハードルがあることは理解できる。


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 私の生活はおおむね通常に戻った。謹慎が明けたので、普通に食事し、普通に外出し、普通にツィンゾルの活動に参加する。


 翌日は、「研究室」で安国寺・ヒロミと一緒に文献調査を行った。


 やっていることはx章に記した場面と変わらないし、やはり同様に大した成果が上がったわけでもない。


「川内君はこっち、関さんはあっちの新聞の束の内容を見てくれる?」

「了解」

「おっけー」


 今日の新聞は九州から取り寄せたものであるようだ。


 30分ほどある束から適当に1/3くらいとって目を通していく。


 この作業もだいぶ長く続けたために、だいぶ慣れてきていた。


「なあこの事故、ちょっとおかしくないか?」

「一応調べてみようか」


 そう言いながら白岡は「Die Zinnsoldaten vol.23」と表紙に記されたキャンパスノートに書き込んでいく。白岡のノートもずいぶん積み重なったものだ。それが「知層」として成立しているのか、ゴミの山なのかは判断がつかなかった。だがほかに道は知らない。この作業を継続するしかない。


「うん、よろしく」


 私は短く返事をすると、すぐに次の記事に取り掛かった。


 そんなこんなの繰り返しで残り少ない夏休みの貴重な一日を空費したのであるが、不思議と徒労感はなかった。「ラボ畜」もそんなに悪いもんじゃない。


 その夜はアパートの自室の隣、25号室に呼び出された。それ自体はいつものことだが、いつもと違っていたのはまだ20時だったということだ。


 中に待っていたのは太田だった。


「やあやあ川内君、よく来たね。ところで晩御飯はもう食べたかい?」

「いえ、まだです」

「それは良かった! 今日呼んだのは能力残存検査じゃないんだ。あ、でも、改めて検査には呼ぶかもしれないから勝手に能力は使わないでね」


 いつもは部屋の中央に広い空間を設け、そこで課題を実行するのだが、今日は代わりにダイニングテーブルが置かれていた。太田が腰かけているダイニングのテーブルには料理が所狭しと並べられていた。理由は分からないが、私に夕食を食べさせようということらしい。一瞬毒でも盛られているのかとも思ったが、そんなまどろっこしい手段をとる理由が見つからないからそうではないのだろう。


「今日は楽にしていいんだよ、座りなさい」

「はあ」


 太田の勢いに気圧されながら、彼の向かいに着座する。


「本当は可愛い女の子が良かったんだろうけどね、今日のところは我慢してくれ。私たちとしては――そう、私たちだ。あの堅物の豊田さんだって同じだよ――本心としてはね、ああやって拘束することはしたくないんだよ。今日はそれを君に示したくてね。お詫びとして受け取ってくれんかね」


 いつもから砕けた話し方をする太田であったが、今日はより一層粉々になっていた。まるで万博誘致の大阪弁バージョン のようだ。


「なるほど、そういうことですか」

「好きなだけ食べなさい、遠慮するのはやめたまえ、育ち盛りだろう? あ、ただ質問はしないでね、たぶん答えられないから」


 先にも記したように、謎の手紙でおびき寄せられ広島で拘束された一件は、外務省の罠であったように思われた。自ら罠をかけておいて、白々しいことこの上ない。理性を排して率直に感情を述べるならば官僚の人々は基本的に憎たらしい限りであるが、この人ばかりはどうも憎む気になれなかった。この人も組織の一員として、できる範囲のギリギリのところをやっているのだろう。


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 さらに翌日。やはりまだ夏休みなのだが、運動会の準備とやらに駆り出された。私の高校では、運動会にグラウンド劇なる出し物をする妙な伝統があって、その準備もあるので運動会前は忙しいのだ。とはいえ、全日拘束されるわけでもなく、昼には帰宅の途に就く。


 ところが、下駄箱に一枚の紙を見つけた。A4の紙に明朝体で印刷されている。


「突然お呼び立てして申し訳ございません。『研究室』でお待ちしております」


 内容からしたら白岡かヒロミ、あるいは山北や嬉野だろうが、なぜこんな方法で呼び出すのかよく分からない。その日は水曜日で、古ガジェの活動はなかった。


 疑問に感じながら「研究室」に向かうと、見知らぬ少女がピアノを演奏していた少女はうちのものではない制服を着ている。声をかけようと思ったのだが、しかし、その姿を目にするにつけ、口を動かす気がうせてしまった。細く折れそうなのに、不思議な存在感で視線をとらえて離さない体躯。盤上を滑るたおやかな指。部屋中に響く高く澄んだ声。淡い香水の匂い。いつもの研究室が近寄りがたい高貴な宮殿の一部のように思われた。しかも、(どこかのなんちゃってお嬢様と違って)演奏しているのはモーツァルト(*5)である。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトである。ここからモーツァルトに関する気の利いたうんちくを語って衒学的な欲求を満たしたいところであるが、残念なことに上が私がモーツァルトについて知るところのすべてである。


「すみません、ピアノが目に留まりましたので、つい演奏してしまいました。川内重信さん……ですよね?以前お手紙を差し上げました、安国寺綾です」


 手紙の主は女の子じゃないと思った?


 すごいよ!フィクションだと思っていた女の子が実在しているよ! 何か高級そうな和菓子の袋を引っ提げているが、私、もみじ饅頭(*6)の方が良かったんだけど。


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〈註〉

*1 戦争において……: 我が国の自衛隊に関していえば、国内法の観点から厄介な問題があるが。

*2 人間の捨て子対策も……: 生類憐みの令は複数の法令の総称であり、これを含めるというのはちょっと無理があるかもしれない。

*3 二条件を満たす……: 但し、近年のチンパンジーなど類人猿についての研究成果はこれを覆すかもしれない。

*4 ほかの行為も不可逆であることは変わらないんだろうが、例えば金銭補償とかで、完全にではないにしても、失われた価値を回復することができるはずだ。

*5 モーツァルト: 曲は『フィガロの結婚』から「恋とはどんなものかしら 」だった。[1]で同曲を聞くことができるのでBGMにぜひ。

*6 もみじ饅頭: 私は寛大なので、にしき堂、やまだ屋、藤い屋、その他を問わない


〈参考〉

[1]「モーツァルト 《フィガロの結婚》『恋とはどんなものかしら』シュヴァルツコップ」『youtube』

 https://www.youtube.com/watch?v=mYLSIe-scrE

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