1-6. 変な人との日々の始まり
👉いままでのあらすじ
・白岡(野良の能力者)は、国の監視下にある私(川内)の救済を主張。
・私は、白岡(見てくれは良い)に呼び出され、何だかんだで休日出勤。
・白岡(ドイツ語カッコいい)は自分以外の能力者を探すことを目指す。
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私は高校から徒歩10分くらいのところに一人暮らしをしている。高校の東にある川を渡った先だ。川を渡らずに北方向に歩いた先には道後温泉があり、私は引っ越してきた直後に喜び勇んで行ったのだが、ネイティブマツヤマンの人に聞くといったことがない人も多いようだ。
寮のある私立高校ならともかく、高校生で一人暮らしというのも珍しいかもしれない。近くに大学があるため、大学生向けのアパートが多く存在しており、それらの一つを借りている。聞けば、白岡の家は私の家と同じ方向に歩き、さらに数分歩いたところにあるという。そういうわけで、まるで小学生みたいにしょぼい地理的な広がりだけれども、ごく自然な流れとして私と白岡は一緒に歩いて帰ることになった。
校舎から出る途中、嬉野に出くわした。彼もあまり休日に学校に出てくるようなタイプの人間ではないと思うが、どうしたのだろう。歩きながらPSVitaをやり、さらに湖池屋ポテトチップス(*1)をていたが(器用さの無駄遣いという感じがします)、俄かに顔を上げると、いつものように真顔で「じゃあな」と。どういった状況を目にしようといたずらに干渉してこないのは嬉野の美徳の一つである。
「なんかごめんね、無理やり引っ張ってきたみたいになっちゃって」
現金なもので、あれやこれやとこちらの事情も聞かずに決定されるとその主張内容を問わず反発したくなるものだが、このように相手の状況を慮るポーズを見せさらには原因において誠実な行為であるかのような言明をされると、逆に主張内容を問わず受容したくなる。
「わたし、うれしかったんだ。他の能力者に会えて。それでなんか舞い上がっちゃった」
今まで孤立して過ごしてきて、仲間を見つけて嬉しいというのは至極もっともだ。
「まあ、いいんじゃないの」
少しほっとしたのか、白岡はわずかに歩くスピードを速めた。
「それでね、活動方針の二つ目なんだけど……」
「言ってみなよ。安心しろ、これ以上俺のアンタに対する心証が悪くなることはない」
「川内君はもっと青春を楽しむべきだわ。もっと積極的に人と交流すべきよ。クラスの仲間とももっと話をして」
それこそ余計なお世話だ。能力何にも関係ないじゃないか。私はむしろ孤独を愛している。ひとりでも寂しくない 。
「それに、困難な状況を乗り越えるのは絆だよ。一人でいたってできることは限られてる。私のような人はそうそういるわけじゃないんだから」
人の絆で何かが変わるなんてまたしてもメルヘンチックだ。絆だ何だって言ったって、金がないから負け惜しみを言っているにすぎないわけだ。 It’s the economy, stupid! 時間停止なんてちんけな能力じゃなくてタイムトラベルが良かった、私だってバブルへGO!したい。
そうは言うものの、自分から促した手前、抗弁するのもはばかられる。白岡も察したのか、黙ってしまった。橋の北側の交差点で赤信号で立ち止まったとき、白岡はこちらに向き直る。
「でもね、川内君を助けたいという気持ちだけは嘘ではないの」
『でも』という接続詞は、その前の『舞い上がっちゃった』にかかるのだろうか。私は前方を向いたまま問う。
「それなんだけど、何でそんなに俺のことを考えるんだ。他人に過ぎないだろ」
「それが正しいから。川内君はもっと夢を見るべきだと思う」
野良で暮らしていると夢見る少女でいられる のだろうか。自分が能力者であるという事実はどうやら捕捉されているらしい、という結論にたどり着いたとき、彼女は果たして今と同様の態度を維持できるのだろうか。正直なところ、かなり疑わしいと私は思うのだ。
それにしても白岡のやり口は卑怯だ。私は白岡の主張するところに全く共感するところではないが、それでも客観的にみて白岡が私に対しある種の奉仕をしていることは認めざるを得ない。一方的な厚意は寝覚めに悪い。私の家まで来て立ち止まったとき、ふと思いついたことを提案しておく。
「そういえば、例のホームページ、募集者の名前があんたのものになっていたが、あれは俺の名前に変えて置いたらどうだ。活動の方向ははっきりしないにしても、あんたが能力者であることは知られないようにしておいた方がいい」
白岡は驚いた様子で目を細くし考え込む様子を見せるも、一秒後には目を見開き口角を上げた。
「ありがと、そうする。ちゃんと考えてくれていたんだね」
「別にそういうわけじゃ、俺なりに理にかなっ……」
「じゃあね! あ、あとこれ」
白岡は大きな声でそう言った。両手を差し出しながら近づいて私の右手を握り、そしてA4一枚の紙を渡した。
こちらに問い直す暇を与えず、白岡は小走りに去っていった。
紙を見てみると、『古典ガジェット研究会 』とある。先ほどとは別のフライヤーであるようだ。
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その日の夜は隣室での能力残存検査はないようなので、夜食を作って小腹を満たすことにした。緑のたぬきに湯を定量まで注ぎ込み、ふたをし、抑える。抑えた手をそのままに時間停止を開始した。このように、タイマーや時計を準備することなく、正確においしい緑のたぬきを食べることができるので、時間停止能力は大変重宝する。
時間停止の間、することもないので、カップ麺の話でもしようか(*2)。この緑のたぬきと並列で語られる商品に赤いきつねがあるが、私は断然緑のたぬきが好きである。赤いきつねの調理時間五分に対し緑のたぬきは三分であるから、上にも書いたようにタイマーを使わずに容易に調理できるというのも理由の一つであるが、それは副次的なものである。
主要な理由は二つある。
第一に、私は今でこそかりそめに四国の民になっているが、心は東京都練馬区、つまり関東の人間なのである。一般に東日本ではそばの消費量が多く、西日本ではうどんが多い。近年東京でもセルフうどん屋(*3)が増えたが、東京の立ち食いそばやにおいて無言で食券を差し出した場合に供されるのもそばである。
第二に、緑のたぬきはお湯に微妙に浸ったときのかき揚げが素晴らしい。最初はかき揚げを抜いて湯を注ぎ、途中で頃合いを見計らってかき揚げを挿入するのが正当な調理法だ。何分経過後にかき揚げを入れるのかはその時の温度湿度等々の条件に左右されるため、熟練を要する。また、ここでかき揚げを水平にせず傾けて入れるのも重要なポイントだ。三分後のかき揚げを見たまえ。一部分ではフリーズドライのままの硬さを保ち、一部分では湯を吸いきって今にも崩れそうである。その間のグラデーションには無限の宇宙が存在しているのだ。
これに対し、赤いきつねの揚げはそうはいかない。湯で戻さず食べるのには適当ではなく、ビタビタに柔らかくするほかない。わろし。
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〈註〉
*1 湖池屋ポテトチップス: この部分を書いてたら食べたくなってしまったので近所のスーパーに行ったが、欠品していた。つらい。読者の皆様にも同じ苦しみを味わっていただくことで鬱憤を晴らしたい。
*2 することもないので……: この語りはいささか不誠実である。というのも、カップ麺を調理しているのは当時の私であって、文章を書いている現在の私はそうではないからである。正確には、カップ麺の完成を待つ気の抜けた時間というあるあるを読者の皆様にも追体験していただきたいという文章構成上の戦術、と言ったところか。
*3 セルフうどん屋: ちなみに、「伊予製麺」というブランドのうどんチェーンが存在するが、愛媛県とは無関係である(大阪府の会社の運営だそうです)。
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