第4話
『だって、そうだろう? 水月様が『欲しい』と言えば、断れる奴なんかこの里には誰もいねぇ。相手の意志を無視して決めちまえるんだよ』
雪葉の言った言葉を頭の中で繰り返しながら、水月は竜の姿に戻ると、ごろりと草の上に体を投げ出していた。
あの後、怒った長が雪葉を引っ張って家の中に戻って行くのを見てから、花空と水月は水月の住処に戻って来ていた。
「水月様! 今日のお昼ご飯、何にしましょうっ」
「花空の好きなもので良いですよ」
花空が話し掛けた時はきちんと応えてくれるものの、それ以外は考え事をしているようで水月は静かだった。
先程の雪葉の言葉を考えているのだ。
水月が望めば断る事が出来る相手などこの里にはいない。
それは水月自身も分かっていはいたが、今まではあえて気にはしていなかった。
頼み事を断られたくらいで水月は怒りはしないし、この土地を離れる事はない。
もしも離れる事があるとするならば、それはこの土地の人間が自分の命を奪おうとした時の事だろう。
「…………水月様、雪葉の事を怒っていますか?」
「うん?」
おずおずと花空が尋ねた。
水月が顔を向けると、花空は困ったように眉をひそめて水月を見上げている。
「いいえ、怒っていませんよ」
水月は首を振った。
そうだ、別に怒ってはいないのだ。
水月の言葉に花空はほっとしたように表情を緩めた。
「ただ」
「ただ?」
「図星を突かれて、ちょっと動揺しただけですよ」
そう言って小さく笑った。
正直に言えば、水月は花白と雪葉の縁談話を聞いた時、少し焦っていた。
小さなころからずっと見守っていた花空が誰かの嫁になる。
そう考えた途端にぞわりと嫌な気持ちが胸に広がった。
その途端に水月は長の下へ降りて花白を嫁にしたいと言っていたのだ。
自分の事ながら本当に心が狭い。思い出して水月は目を伏せた。
「水月様も」
ぽつりと花空の声が聞こえる。
僅かに震える言葉に水月は不思議そうに花空を見た。
花空は表情こそ笑顔だが、今にも泣き出しそうに目が潤んでいる。
水月は目を張って軽く顔を持ち上げた。
「は、花空?」
「み、水月様も、わ、わ、わたしが断れないから、断らなかったって思っているんですか……?」
水月はハッとして首を振る。
「そんな事は……」
だがみるみる内に花空の目に涙が競り上がり、ぼろぼろとこぼれ出した。
水月は慌てて竜の姿から人へと変わると、近くに置いてある服を引っ掴んで羽織り、花空に駆け寄った。
「そんな事はないです、花空。私は」
「ちゃんと好きです」
水月の言葉を遮って、ひくりと肩を震わせながら花空は言う。
ぼろぼろ泣きながらも、花空はその空色の目で水月を見上げた。
その表情はどこか怒っているように見えた。
「ちゃんと好きなんですよ」
涙と一緒に震えるが花空の声は決して掠れたりはしなかった
そうしてまっすぐ、ただただまっすぐに、水月の目を見る。
「竜の水月様が好きです。大きくて、綺麗で、格好良くて、空が飛べて、それで、空の上からわたしを見てくれる目が好きです。ぐるりとわたしの上を回ってくれるのが好きです。触るとひんやりして気持ちが良いのも好きです。わたしが泣いている時は、ずっとそこにいてくれるのが嬉しいです。楽しい時は一緒に笑ってくれるのも好きです」
ぐすっと花空は鼻をすする。
大粒の涙がぼろぼろと零れて地面を濡らす。
それを見ながら水月はこれでもかと思うくらい目を見開いた。
「花空……」
花空は服の袖でぐいと涙を拭う。
だが涙は止まる事なく後から後から溢れて落ちる。
「人の水月様も好きです。さらさらした薄い青色の髪が素敵で、青色の目が綺麗で、触るととてもあたたかくて好きです。わたしの頭を撫でてくれる手も好きです。わたしの名前を呼んでくれる声も好きです。隣に立てると嬉しいです。歩幅を合わせて一緒に歩いてくれるのも好きです。手を繋げるともっと嬉しいです」
花空は一度も目を逸らさなかった。
ただただますぐに水月を見ている。
その目に射抜かれ、水月は息を呑んだ。
「里の為じゃないです。土地の為でもないです。わたしは、ちゃんと好きだから、頑張ってヴェールを編んだんです。会心の出来です。かぶって、水月様のお嫁さんになりたかったんです。わ、わだ、わだし、嬉しかったんですよ……ううう……ううううう……」
そこまで言って花空はぶるぶると震え出した。
堪えきれなくなったようにぎゅうと目を閉じると、握った拳を目に当てる。
「うあああああああん」
そうして声を上げて泣き出した。
花空は小さい頃から水月を見上げながら育った。
空を羽ばたき、ぐるりと飛び、土地を、里を守ってくれるこの青い青い大きなこの竜を、ずっとずっと見上げながら育ったのだ。
はやり病で家族を亡くした花空にとって、見上げればいつも、変わらずそこにいてくれる水月の存在がどれ程に、どれ程に、心強かったか。
「花空、ああ、どうしよう、泣かないで下さい、花空」
水月は花空に手を伸ばす。
竜の証である鱗のついたその腕に、花空の涙がぽたりと落ちた。
じわりと広がるその熱に、水月は苦しげに目を細めると、花空を抱きしめる。
「私も」
水月は目を閉じる。
「私だって、花月がちゃんと好きです。ちゃんと、好きなんですよ」
花空が水月を見ていたように水月もずっと花空を見ていた。
生まれる前から、それこそ赤ん坊の頃からだ。
初めて立って歩いた時は転ばないかとハラハラしたし、拙い言葉で自分の名前を覚えて読んでくれた事は嬉しかった。
家族をはやり病で亡くして毎日泣いていた花空が心配で、一日に何度も何度も様子を見に行った。
里長の皆に内緒で花空を背中に乗せて空を飛んだ時、ようやく花空が笑ってくれたのが、本当に本当に嬉しかったのだ。
そうして成長していく彼女を見守る事が水月には幸せだった。
そんなある日、花空に縁談話が持ち上がった時、じくりと胸が痛んだのも本当だ。
親心のようなものだろうと思っていた。
娘を花婿に取られる父親のようなそんな感情なのだと思っていた。
だが、違うのだ。
「花空の笑顔が好きです。私を見て手を振ってくれるのが好きです。竜の体でも臆することなく触れてくれる手が好きです。人の姿で歩いていれば、どこにいても走って駆け寄ってくれるのが好きです」
花空を見るとあたたかい気持ちになるのだ。
その隣に立って自分の手で幸せに出来たらいいなとも思うのだ。
それは父親の感情ではない。
もっと別のものだ。
だから花嫁の話が出た時に水月は花空の名前を上げた。
自分の立場を利用しても花空と共にいたいと思ったのだ。
けれどそうして花嫁として迎える事が出来るようになった時、水月は自分のした事が恐ろしくなった。
花空の気持ちも意志も無視をしての事だったからだ。
何とか忘れようとしていたそれを、水月は雪葉の言葉で思い出した。
「すみません、本当に、すみません、花空」
「何で謝るんですかぁ……」
泣きやまない花空に、水月の抱きしめる手に力がこもる。
自分の気持ちだけだと思っていた。けれど花空は違うと言う。
水月は自分の目にも熱の塊が昇って来るのを感じた。そうしてぼろぼろとこぼれる。
ああ、ああ、そうか。
この熱だ。
泣いている花空を背中に乗せて空を飛んだ時、自分の背中に落ちたこの熱さを何とかしたいと、水月は思ったのだ。
たぶん、きっと、その時に。
自分は。
「うああああああああん」
「……う」
そのまま二人は、夜が明けるまでずっと声を上げて泣き続けた。
そうして気が付いた時には泣き疲れて、二人揃って一緒に眠りこけていた。
ふと、花空が水月の寝床の端に置いていたヴェールが、朝の風に吹かれてふわりと舞いあがる。
ふわり、ふわりとゆっくりと空を飛ぶそれは、やがて花空と水月の頭の上に舞い降りた。
ヴェールが掛かった二人は、むにゃと、同時に少しくすぐったそうに身じろぎをしたが目覚める事はなく、どこか幸せそうに口元を上げてすうすうと寝息を立てていた。
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