3



 冬ほどではないけれど、春先の今も日が落ちるのはまだまだ早い。


 さっきこのお屋敷に着いたかと思えば、もう外は夜になっている。



「圭さん」



 食事と入浴を済ませ、部屋で飛行機の中で読んでいた医学書の続きを開いていたところだった。


 縁側の障子の向こうから名前を呼ぶ声が聞こえてきた。



「咲夜さん?」



 障子を開けてみると、やっぱり咲夜さんだった。


 もうすぐ春だとはいえ、夜はまだ肌寒い。


 だというのに白の小袖に薄い羽織一枚しか着ていない。


 昼間喘息の発作が出たばかりの人が着て動き回る服装とは思えないんですけど!


 私が専属医として雇われたからにはちゃんと生活習慣を改めてもらわないと!



「寒いでしょう? 何でそんな薄着なんですか! とりあえず中に入ってください」

「すみません」



 咲夜さんはコホッと咳を一つした。


 ほら、言わんこっちゃない。


 呼吸器系の病気を持っている人に寒さと乾燥は毒だっていうのに。



「ちょっと待っててくださいね」



 加湿器はこの部屋にはさすがに置いてないので、いったん外に出て、洗面所で濡れたタオルを二、三枚用意して部屋に戻る。


 ハンガーでその濡れたタオルを鴨居に吊るした。


 何もしないよりかはこれで乾燥も防げるだろう。



「それで、どうしたんですか?」

「眠れなくて。ちょっとだけお話しませんか?」

「いいですよ。じゃあ、なにか飲み物もらってきますね」

「あ、私も一緒に……」

「咲夜さんはそんな薄着なんですから、ここにいてください。すぐ戻りますから」

「……分かりました」



 再び外に出て、台所へ向かう。


 確か、こっちだったはず。


 ここを左に曲がって……あ、あった。


 台所にはまだ電気がついており、中からカチャカチャと固い何かを鳴らす音がしている。


 中を覗くと、ちょうど垣内さんがお茶を淹れているところだった。



「おや、佐倉先生。先生もお飲みになられますか?」

「じゃあ、お言葉に甘えて。あと、咲夜さんの分もお願いしてもいいですか? 実は今、私の部屋に眠れないからといらっしゃってて」

「咲夜様が? ……ほっほっほ。分かりました。少しお待ちくだされ」



 そう言うと、垣内さんはなにやら棚や冷蔵庫の中をごそごそと何かを探し始めた。


 そう間をおかず出してきたのはハチミツと砂糖、そしてレモンだ。



「はちみつレモンですか?」

「えぇ。小此木家では飲み物は日本茶と決まっているのですが、咲夜様は昔からこれがお好きで」

「喉にもいいですしね。体調のことを考えれば理にかなっていると思いますよ」

「先生もこちらにされますか?」

「そうですね。お願いします」



 垣内さんは慣れた手つきで手早く二人分のはちみつレモンを作ってくれた。


 きっとこの屋敷に咲夜さんが来る度に、こうして咲夜さんにこのはちみつレモンをこっそり作ってあげているんだろう。



「さぁ、できあがりました。きっとまだかまだかとお待ちでしょうから、早く戻ってあげてくださいませ」

「フフッ。分かりました。これ、ありがとうございました。おやすみなさい」

「おやすみなさい」



 垣内さんに挨拶をすませ、台所を後にした。



「お待たせしました」



 部屋に戻ると、咲夜さんが私が机の上に置いていたクローバーの栞を手に取って眺めていた。



「ありがとうございます」

「垣内さんが台所にいらっしゃって、はちみつレモンを作ってもらいました」

「そうですか」



 コトリと音を立て、咲夜さんの座る前にカップを置いた。


 しかし、咲夜さんはそれに口をつけようとせず、栞に目を向けたままだ。



「それ、幼稚園の頃、仲が良かった子にもらったんです。引っ越す前に。もう名前も思い出せなくなっちゃいましたけど」

「……覚えて、ない?」



 大きな目をパチパチと瞬きさせ、次第に曇っていく表情。


 え!? なんでそんな叱られた子供みたいにシュンってなってるの?


 私!? 私のせいなの!?



「えっとぉ、その、か、顔は覚えてるんですよ?ただ、名前が思い出せないだけで……」



 なんでこんな言い訳を咲夜さんにしているのかすら分からなくなってきたけど、とりあえず何かしら持ち直すようなことを言ってみる。



「圭さんは忘れてしまえるほどその子のことがどうでも良かったってことですか?」

「そんなことありませんよ! ……ただ、二十年以上も前のことだと、ほとんど覚えていないんです。それ以外でも朧気で、小さい子が遊んでるのを見て、あんなこともあったなぁって思いだすくらいで」

「ふぅん。そうですか。……じゃあ、今度は・・・何十年経っても忘れられないくらいたくさん思い出作りましょうね」

「え? あ、はぁ」



 先程までの表情とは一転、笑顔で咲夜さんが言うものだから、つい頷いてしまう。


 まぁ、あんまり重病とかの思い出は勘弁してほしいところがあるけど、こんなに嬉しそうにしてるんだからわざわざ水を差すような真似をするものなんだしなぁ。


 ……あ、もしかして、例の友達としてってことで言ってる?


 うーん。でも、もう頷いちゃったし。たまに食事に行くくらいだったらいいっか。



「圭さんに許可ももらいましたし、なんだか眠くなってきました。もう部屋に戻りますね」

「あっ、ちょっと待ってください」



 確か、ロンドンで買った厚手のショールがあったはずだ。


 あっちだとまだ少し冬みたいに寒くて、つい買っちゃったんだよね。どこにしまったっけ?


 手荷物は最小限に収めていたので、残りはトランクケースの中か実家に送っている。


 ショールは実家に荷物を送った後で買ったものだから、トランクケースの中にあるはずなんだけど……あった!



「これ、羽織って行ってください。廊下も冷えますよ」

「……ありがとうございます」



 羽織の上からショールを羽織らせてあげると、咲夜さんは花が咲いたように笑みを浮かべた。


 花も恥じらうとは本来若い女の人の美しさを表す言葉らしいけど、咲夜さんは男の人なのに本当にその表現が似合ってるんだよなぁ。


 立ち上がった咲夜さんに合わせて私も立ち上がり、部屋の障子を開けた。


 ひんやりした空気が暖房で暖められた部屋に入ってくる。


 先程私がショールを探している間に飲み干していたはちみつレモンのおかげか、今度は咲夜さんも咳き込むことはなかった。


 民間療法というか、昔からの知恵というのは馬鹿にできないなぁとこういう時に思う。



「それじゃあ、おやすみなさい」

「おやすみなさい、圭さん。いい夢を」

「咲夜さんも」



 ニコリとお互い微笑み合い、咲夜さんは隣の部屋の障子を開け……隣?



「え?」

「僕の部屋、ここなんです」

「うそ。昼間案内していただいた時は気づかなかった……」

「不思議ですね。忘れちゃってたのでは?」



 スッと閉められる障子。その向こうに消えた咲夜さん。


“忘れちゃってたのでは?”


 その言葉が、あの栞をくれた女の子への私の発言に対する意趣返しなんじゃないかと思ってしまったのは、布団に入り、眠りにつく間際だった。



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