小此木家

1



「……い。圭さん、起きてください」

「んー」



 あと少し、もう少しだけ寝かせて。


 ちゃんと起きるから。


 しかし、無情にも身体を揺り動かされ、半ば強引に目覚めを余儀なくされた。


 顔にかかるこそばゆい柔らかな髪の感触、羨ましいほどの線の細い整った顔……。


 んんっ!?


 寝ぼけまなこで目の前にあるものをジッと見つめ、ソレが何か、誰か悟った時、一気に目が覚めた。



「ごめんなさいっ!」



 疲れていたとはいえ、なんて失態。


 雇い主の前で寝こけるなんて……終わった。


 西森先生、私やらかしちゃったよ。早々にクビかも。



「フフッ。大丈夫ですよ。長旅で疲れているんでしょう? 起こしてしまって申し訳ないんですが、着いたので一度降りて頂けると嬉しいです」



 ……貴方、やっぱり見た目通りの優しい人だ。拝んどくべきかな?



「佐倉さん?」

「あ、はいっ! 降ります降ります!」

「頭に気をつけて」



 小此木さんが先に降りて、ドアの縁に右手を当て、左手を伸ばしてくる。


 その手を取ると、ふんわりと優しく手を包み込まれ、私が地面にきちんと足をついて出てくるまで繋がれたままだった。



「ここは僕が東京の方で仕事がある時に使っている別邸です。本邸は京都の方にあるのですが、今日はここに泊まって、明日京都の方へ……佐倉さん、聞いてらっしゃいますか?」

「あっ! ごめんなさい! ……その、これが別邸?」

「はい」



 小此木さんは不思議そうに小首を傾げた。


 白い塀が長く続き、門構えは高級料亭のソレと同等の趣を持っている。


 お屋敷に入る前からちょっと足踏みしてしまうような敷居高い雰囲気がありありと伝わってきた。


 そっか、これで別邸なんだ……。


 本邸とやらを見るのがちょっと恐ろしいような、早く見てみたいような。


 小此木さんはそんな私の心情など当然ながら露知らず、早く早くとばかりに私を門の向こう側へと招き入れた。


 そこはイギリスの西洋庭園を見慣れた私にはとても懐かしく、これぞ日本と思えるような和の空間が広がっていた。


 様々な種類の植物が丁寧に整えられ、見る者全てを和の心、和の趣に浸らせてくれる。


 小さな橋がかけられた池には色鮮やかな鯉が放たれていた。



「咲夜様、お帰りなさいませ」



 私が庭を見渡していると、玄関からロマンスグレーの髪と髭を持った初老の男性が出てきた。



「あぁ、垣内かきうちさん。ただいま戻りました。佐倉さん、こちら、この別邸の些事を取り仕切ってもらっている垣内さんです」

「初めまして。皇都大の西森先生の紹介で本日から小此木家で専属医を勤めさせていただきます、佐倉圭と申します」

「話はお聞きしております。垣内と申します。何か分からないことがあればいつでもおっしゃってくださいね」

「ありがとうございます」



 良かった。この人も優しそうな人だ。


 とりあえず幸先の良いスタートを切れそうなことに、私は胸をなでおろした。



「イギリスからの長旅大変だったでしょう? お荷物はすでにお部屋に運んでありますから、まずはゆっくりくつろがれては?」

「そうですね。……あの、実はお家に鯉がいるのは初めてで、餌とかあります?」

「ほほほ。餌ならば専用のがあるので、とってきましょう」

「えっ! いや、今じゃなくていいんです! 餌とか決まってたら勝手に買ってきてあげるのまずいかなって思っただけなので!」

「ですが、咲夜様はすっかり餌を与える気になったようですな」

「……あれ!?」



 小此木さんがいなくなった!?


 辺りを見渡すと、お屋敷の裏へと回っていく小此木さんの姿があった。


 垣内さんの言葉からすると、そっちに鯉の餌があるんだろう。


 しばらくすると、垣内さんを呼ぶ小此木さんの声が聞こえてきた。



「やれやれ。やはり見つけられませなんだか。いつもは鯉なぞ見向きもされませんからなぁ」

「そうなんですか?」

「えぇ。あぁ見えてまだまだ子供のような方ですから、早く佐倉先生と仲良くなりたくて仕方ないんでしょう」

「垣内さーん! 早くー!」

「はいはい。今参ります」



 垣内さんはホホホと笑いながら小此木さんの声のする方へ歩いて行った。


 私が興味を持ったから、小此木さんは普段しないことをしようとしてくれている。


 これ以上ないくらいの歩み寄りに、胸にじんわりと温かいものが広がった。


 それと同時に、新米同然だからとウジウジしていた自分が馬鹿らしくなった。


 たとえ新米だろうとベテランだろうと自分は自分のできることをする。


 よし! これから頑張ろう!



「お待たせしました」

「いえ、私の方こそすみません」

「謝るのは無しですよ。さ、餌やりしましょう」

「はい」



 餌が入った袋を小此木さんから受け取り、橋の上でしゃがみこんだ。


 袋を開けるためにガサガサと音を立てると、人が近づいてくると餌をもらえると理解しているのか、たくさんの鯉がパクパクと口を開けて寄ってくる。


 本当に一匹たりとも同じ模様の鯉がいないので、見ていてとても楽しい。



「ほぉら、餌だよー」



 餌を投げ入れたらすぐに餌争奪戦が始まった。


 まだ体の小さな鯉はそれにすぐ負けてしまうので、なんだか可哀想になってしまってついついその子がいる方へ投げてしまう。



「あ、食べた!」



 見事その鯉が餌をゲットした時は思わず声が出てしまった。


 160㎝はあっても、欧米人は背が高い人が多い。


 日本にいる間はそうでもなかったけど、渡英してから周りはイギリス人がほとんどだったから、背の小ささは割とコンプレックスだった。


 小さい頃は弟妹がいる環境に憧れていたし、基本的に小さなものが好きなんだとも思う。



「変わらないね」

「え?」



 鯉達が元気に飛び跳ねる水音に紛れ、上から声が降ってきた。


 見上げると、ちょうど小此木さんの肩の位置に太陽が来ていて、完全に逆光になっていた。


 眩しくて目を細めると、小此木さんの手が私の方に伸びてきた。



「……あんまりこちらを見ると、目を傷めますよ」

「あ、そう、ですね」



 すっと目蓋を覆われた手が温かい。



「小此木さんは餌あげなくていいんですか?」

「えぇ。幼い頃から見慣れているものですし。あまり与え過ぎるのも彼らの健康上良くないでしょう?」



 確かに。


 獣医学は専門外だからよく分からないけど、人間と同じように食事のとりすぎは良くないかも。


 もう餌やりは終わりだと鯉達に言外に伝えるべく立ち上がった。



「餌、ありがとうございました。後で垣内さんに場所を聞いて直しておきますね?」

「私から直すよう言っておきますよ」

「大丈夫ですよ。これ以上小此木さんの手を煩わせるようなことできませんから」

「……私はそんなに頼りない?」

「え!? いや、そういうわけじゃ!」



 表情に陰りをまとわせ、僅かに目を伏せる小此木さん。


 白皙はくせきの美青年がする表情としては反則だ。


 私はただ、雇用主の手を煩わせる使用人がいるかってことで。


 ……分からないけど、なにか負けた気がする。



「それなら……すみませんが、お願いします」

「はい。じゃあ、中に入りましょうか。垣内さんが美味しいお茶を淹れて待っていてくれてますよ」



 そういえば裏から戻ってきたのは小此木さんだけだったっけ。


 一足先に垣内さんは中に入っていたんだ。


 しかも、同じ使用人の私にお茶の準備まで……本当に良い人だなぁ。


 小此木さんが手を引いてくれるのに合わせて私は橋から降りた。



「そういえば、さっき変わらないっておっしゃってませんでした?」

「……いや、鯉達が餌に勢いよく寄ってくるものだから」

「なるほど。確かにすごい勢いでしたね!」



 あぁ、鯉達のことだったんだ。


 一瞬、実はどこかで知り合ってたのかと思った。


 それだと本当に失礼だし、良かった良かった。


 内心ほっとしている私を、小此木さんは口元に変わらぬ笑みを浮かべてジッと見つめてきた。



「そうそう。ここは小此木家ですので、使用人達以外は皆、姓は小此木です。ですので、私のことは咲夜と呼んでいただけますか?」

「そう、ですよね! 分かりました。では、咲夜様と」

「イヤです」

「はい?」



 お呼びしますねと続く言葉よりも早く否を唱えられてしまった。



「で、でも、垣内さんは咲夜様って呼んでましたよね?」

「様づけで呼ばれるのは好きじゃないんです。ただ、垣内さんは私が生まれた頃から言い続けているので、今さら変えて欲しいと言うのは可哀想でしょう? その点、佐倉さんは今日からだし」

「では、何とお呼びすれば?」

「咲夜、と」



 い、いやいやいやいや!


 無理でしょ!


 どこの世界に雇い主を呼び捨てにする使用人がいるの!?


 お断りだ、断固お断りしなければ。



「すみません。さすがに呼び捨てはまずいので、咲夜さんとお呼びする方向でいかがですか?」

「……分かりました」



 すごく渋々って感じだけど、これでもお互いの妥協点良いところついたと思うんだけどなぁ。


 小此木さん……咲夜さんは見かけによらず意外と強情だ。


 高級料亭を思わせる美しい日本庭園を抜け、私達は木目の引き戸式の玄関から中に入った。



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