あぁ。

不思議だな。


恐怖心がないと、こんなに冷静に状況を考察することができるんだ。

もし私にまだ恐怖心があったなら、全ての思考が停止し、体が膠着して、ただただ涙を流していたんだろうな。


あぁ、そうか……

そうなのか………


これが川島くんの本当の姿なのか――――


笑顔が可愛くて、誰にでもやさしい川島くんのあの姿は、世の中に溶け込むために、決して人前で脱ぐことのない頑丈な鎧ということか。

もちろん、私に見せていた姿も、全て存在しない偽りの姿。

今、目の前に広がる空間が全て真の答え。

川島くんの本来の姿。

そう。

殺人という快楽を味わうために、ターゲットの前だけで見せる姿が。

まさに、獲物の前だけで披露する、闇に支配された悪魔の造形そのものだ。


「…………」


ターゲットは私。

殺害欲を満たすための獲物が私。

そこに愛情なんか微塵もない。

なぜなら私は獲物だから。



「あぁ…………」



ポロポロ。

ポロポロ、ポロポロ。



「う……うぅ……」



ポロポロ。

ポロポロ、ポロポロ。



あぁ、ダメだ。

涙が。

涙が止まらない。



ポロポロ。

ポロポロ、ポロポロ。



そっか。

あのペットボトルのジュースも、凄く美味しいフランス料理も、可愛いハートのネックレスも、全て獲物を釣るための餌だったってことか。



ポロポロ。

ポロポロ、ポロポロ。



私が宝箱に大事に大事にしまった思い出は、全てが偽物だったのか。



ポロポロ。

ポロポロ、ポロポロ。



そっか……

そっか、そっか……





ポロポロ――

ポロポロ、ポロポロ――





今の状況を熟考し、そんなことを考えていたからか、私の目から大粒の涙が自然と、どんどん、どんどん溢れてきた。





「いいねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」





ただただ涙を流す私の姿を見た殺人鬼は、再び感情を高ぶらせ、甲高い声を張り上げた。





「恐怖で流れ落ちる涙ぁぁぁぁぁぁ! 最高だねぇぇぇぇぇぇ!!」





アァァァァァァァァハッハッハッッッッァァァァ!!!!――――





快楽に溺れる叫びだけが、この車内の閉鎖された空間に響き渡る。


ポロポロ。

ポロポロ、ポロポロ。


彼が高笑いを繰り返す間も、私の涙はダムが決壊したかのごとく、とどまることなく溢れてくる。


「…………」


でも、違う。

この涙は、違うの。



違うの!!――――



「違うの……」

「はぁ??」


思わずポロっと出た私の言葉に、男は首を傾げた。


「何が違うのぉぉぉ~? もう恐くて恐くて、どうしていいか分からないって感じだけどぉぉぉぉぉぉ~?」

「違うの……」


私は言った。


「恐くて泣いてるんじゃない……私には恐怖心なんかないの……この涙は……」



悲しみ――――



「好きで好きでたまらなく好きな人だったのに……こんな……こんなことって……」


……って。



ポロポロ。



…………



ポロポロ。

ポロポロ、ポロポロ。




ポロポロ――――




涙が溢れすぎたからだろうか。

それから先は、言葉がつまって何も言えなくなってしまった。

止まらない。

私の涙は、もう制御機能が破壊されている。

止まらない。

止まらない。



ポロポロ。

ポロポロ、ポロポロ。



自分の、男を見る目のなさ。

こんな奴を2年も好きだったのかという、果てしない絶望感。

悔しくて情けなくて、次から次へとさらに涙が溢れてくる。



ポロポロ。

ポロポロ、ポロポロ。



あぁ、ダメだ……

なんで私はこんな男を……



なんで……

なんで…………



「…………」





なんで――――





不思議な感覚だった。

途中から、流す涙の量に比例して、徐々に心の奥底から怒りがわき上がってきた。

腹が立つ。

自分にだけでなく、この男にも腹が立つ。

怒りが、怒りがおさまらない。




腹が立つ――――





「アァァァァハッハッハッッッッァァァァ!!!!」





私の複雑な感情などお構い無し。

変わらず甲高い声を張り上げる男は、期が熟したようにグッとサバイバルナイフを握りしめ、私に照準を定めた。






「さあぁぁぁぁぁぁ! 殺らしてもらうよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」





!?





グサッッッッ!!!!――――






考える隙もない、まさに一瞬の出来事。

鈍い音と共に、ナイフは左の首筋に突き刺さった。



「うぅ……うぁ…………」



しかし、それは私ではない――――



目の前の殺人鬼だ。



そう。

私の頭の横には、先ほど、シートに突き刺さったままの小型ナイフがある。

私はそのナイフを手に取り、男の首筋におもいっきり突き刺した。

ゴリッと骨に当たる感触があったがよく覚えていない。


「なんで……」


私は唇を噛み締め、小さな声で呟いた。


「なんで……なんで、こんな男を……私は好きに……なんで……なんで……」



なんで!――――




「なんでぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」





グサッッッッ!

グサッッ、グサッッッッ!!





怒りに任せて、瀕死になっていた男を何度も何度も突き刺した。

動かない。

男はもう動かない。




「うあぁぁぁぁぁぁ!!」





だが、私は止めない。

ナイフを降り下ろすのを止めない。

ナイフを一回刺すたびに、私の怒りが一つ消えていく。

消えていく。

消えていく。

そんな感覚が私の中に芽生えていく。

だから、降り下ろす。

何度も何度も降り下ろす。





「うあぁぁぁぁぁぁ!!」





グサッッ!

グサッッ、グサッッッッ!!





「うあぁぁぁぁぁぁ!!」





あぁ。

あぁ、不思議だ。

恐怖心がないからかな。



なんていうか、その……






人に殺される恐さもなければ



人を殺す恐さも全くない






「あぁ、よかった……」


なんだろう。

何回も刺したからかな。

すっごいすっきりしたかも。


目の前で血まみれになり息が途絶えている男を眺めながら、私は胸のつかえがスーッと取れていく心地よさを感じた。

――だが。


「あっ……」


それと同時に、ハッと我に帰る瞬間が訪れた。


まずい。

まずい、まずい。


私は、返り血を浴びて真っ赤に染まるワンピースを見ながら、少し焦りを感じ始めた。


どうしよう。

どうしよう。

早くなんとかしなきゃ。



早く処理しなきゃ――――



だって、

だって、だって、




このワンピース、超お気に入りなのに――――





「まいったな……」





帰ったら、すぐにクリーニングに出さなきゃ。








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