③
* * * *
「う~ん、疲れた~」
これでもかというぐらい、まん丸い月が姿を見せ始めた午後7時。
会社の自分のデスクで、久しぶりの肩こりを味わいながら、私は当たり前な日常の幸せを味わっていた。
恐怖心がない――
素晴らしい。
ほんと素晴らしい。
何の不満もない。
今の状態に、感謝しきれないほど大大大満足だ。
「ユウコお疲れ! 先に帰るね~」
「あ~、ミカ、お疲れ! トモコは?」
「ついさっきあがったよ。あっ、そうそう、トモコが美味しいイタリアンの店、見つけたんだってさ。今度、行ってみようよ」
「うん、行く、行く!」
「オッケー! じゃあ、また明日ね」
「うん、お疲れ~」
エレベーターに向かうミカを、私は小さく手を振り見送った。
同僚との何気ない会話。
でもそれこそが今の私にとっては、かけがえのない幸せの形。
「アハッ、楽しいな」
会社に来てるだけなのに、胸の奥から込み上げてくるウキウキ感が止まらない。
ミカやトモコとも久しぶりに会えて、お昼は一緒にランチもしたし。
良かった。
本当に良かった。
「ふぅ、さてと……」
今日はあと、この書類だけまとめて帰ろっかな。
結局、5日も会社休んじゃったから、明日からも頑張らなきゃな。
「よしっ!」
私は頬をパンパンと軽く叩き、気合いを入れ、パソコンに向かおうとした。
――すると。
「波多野~」
声をかけてきたのは、同期の川島タケルくんだった。
ゆるめのパーマがかかったさわやかイケメン。
誰にでも凄くやさしくて、笑った時にエクボができる好青年。
川島くんを端的に言い表すとこんな感じだ。
「あのさ」
川島くんは、心配そうな顔で言った。
「たまたま小耳に挟んだんだけど、大丈夫か? なんか風邪こじらせて、ずっと休んでたんだって?」
「う、うん、もう大丈夫」
「そっか、良かったよ。じゃあ、また飯でもいこうぜ」
「うん、行こ、行こ!」
私はドキドキしながら他愛ない会話を進めていた。
ちなみに、川島くんは営業二課。
今年からそこに配属になったんだよね。
だからなんだ。
去年は一緒のフロアだったけど、今は部署が違うから、あんまり会う機会が無くなっちゃったんだよね。
だから、まあ、久しぶりだから話すのが緊張する……
うん、違うか。
うそ、うそ。
というわけでは……ない……かな。
そう。
うん、まあ、なんていうか……う~ん…………
はい!!
好き、好き!
大好きぃぃぃぃぃ!!
見た目も性格も全部大好きぃぃぃぃぃ!!
あー、もう!
抱いて!!
私をめちゃくちゃに愛してぇぇぇぇぇぇ!!
すんごいぃぃぃぃぃ!!
大好きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!
…………と、まあ。
川島くんに対する私の大好き具合は、端的に言い表すとこんな感じ。
おっきなおっきな恋愛感情があるから、なかなか緊張せずに話せないんだよね。
そっか……
入社してからだから、もう2年か……ほんと、ずっと好きなんだな、私。
「じゃあ、俺まだ仕事残ってるから」
「あっ、そういえば、今の部署ってどうなの? 順調?」
「まあ……」
川島くんは、笑いながら軽くため息を吐きだした。
「去年よりけっこうキツイかな……上司から振られる仕事やクレーム処理も、前の部署とは比べ物にならないぐらいしんどいし……かなり、ストレスたまるよ、ほんと」
まいったよ、と言わんばかりに両手でお手上げのポーズを見せて、おどけて見せる川島くん。
でも、同期の私にはすぐに分かった。
相当、大変なんだなと。
だけど、なんて言っていいのか分からない。
色々と言葉を探したけど、結局、
「頑張って。愚痴ならいつでも聞くよ」
と、笑顔で明るく励ますしかできなかった。
「ありがと」
すると、今の空気を変えようとしたのか、川島くんは茶化すように言った。
「あ~あ、こんなド天然でドジばっかの波多野に心配されちゃ、俺もおしまいだな」
「はあ!? ちょっと、それ、どういう意味よ!」
「ハハ! ウソ、ウソ!」
『ごめんな、おかげで元気でた』と笑ったあと、またな、と軽く手を上げ、川島くんは自分の部署に戻ろうとした。
「…………」
ゆっくり少しずつ遠ざかっていくその姿を、私は、ただただ無言で眺めていた。
「ハア…………」
それと同時ぐらいだろうか。
自然と少し小さなため息が、続けて口からこぼれ落ちた。
ほんの少し、ほんの少しの勇気があれば。
告白して気持ちを伝えれば。
もしかしたら恋人同士になれて、今とは比較にならないぐらい楽しい毎日を過ごせるかもしれないのに。
それに、そうなれば、川島くんが精神的につらい時、もっと私が支えてあげられるのに。
でも……
でもだよ……
でも、もし振られちゃったら、今のような友達関係さえも崩れちゃ……
「川島くん!!!」
……へ?
「川島くん! ちょっと待って!」
あ、あれ!?
あれ!? あれ!?
キョトンと目を見開く私がそこにいた。
そう。
川島くんを呼び止めたのは、他の誰でもない。
私だった。
「あ、あのね……」
え?
え??
ちょ、ちょっと待って!
あれ?
こ、このままじゃ、私……!
「えとね、聞いてほしいことがあるんだけど……」
と、止められない!
もう止められない!
口から溢れだすこの想いはもう止められないぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!
「川島くん!!!!」
あ~~、言え!!
もう言っちゃえぇぇぇぇぇぇ!!
「あのね!!」
私は叫ぶように大声を張り上げた。
「ど、同期で入社した時から、ずっとずっと好きだったのぉぉぉ! だ、だから、だからね、私と付き合ってくだしゃい!! 川島くんの彼女にしてくだしゃいぃぃぃぃぃぃ!!!!」
しゃいぃぃぃぃ……
しゃいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ…………
しばらくの間、私の大音量での告白の余韻がデスクの周りに響き渡っていた。
「ひゃっ!?」
バッ!――
そして、すぐさま、周りを慌てて見渡す。
幸い、誰もこのフロアにはいない……と思われたが、よく見ると窓際の奥のほうで、課長が帰り支度の手を止めたまま、こちらをポカンと眺めていた。
ただ、課長もどうしていいか分からないのだろう。
少し『ハハ』と完全な愛想笑いをしたあと、そそくさと部屋から出ていった。
あぁ。
今の対応でわかる。
普段、厳格な課長があんな愛想笑いをするなんて。
よっぽど、私の勢いが凄かったんだろうな。
多分、課長の中で、私のあだ名は『絶叫告白バカクソガール』とかになってるんだろうな。
あ~あ……
あ~あ……
…………
「…………」
「…………」
そして、この部屋には、私と川島くんの二人だけになった。
なんて。
なんて、静かな空間なんだろう。
少なからず、周囲の雑音はあるはずなのに、いっさい何も耳に入らない。
静寂――――
お互い、何も言葉を発さない。
川島くんは頬をポリポリかきながら、ポケットに手を入れたり出したり。
一方、私はひたすら、下を向いて手をモジモジ。
『手』だけが、せわしなく動いている感じだ。
長い。
1秒がとてつもなく長く感じる。
ただ、こういう恋のドキドキ感は久しぶりだ。
高校の時に、1個上の先輩に告られた時以来かな。
なんていうか、私と川島くんの周り、半径2メートルぐらいまで、宇宙空間の中にいるような。
全ての音がかき消されたかのような不思議な感覚。
そしておそらく、ひとつだけ。
この無音の空間を、パリンと打ち砕く方法はひとつだけ。
そう。
私の告白に対する川島くんの返事だ。
その答えの最初の言葉を切り出した時、おそらくこの空間の雰囲気は劇的に変わり始めるはず。
だから。
だからだ。
私は変わらずうつむいたまま、無言でその時をじっと待っていた。
「あっ、えと……」
すると数秒後、川島くんが静かにゆっくり口を開いた。
き、きた!
きた、きた!!
その最初の一言がスイッチになったように、全身にビクッと電流が駆け巡る。
いま、私の顔はおそらく真っ赤っか。
恥ずかしさと緊張で、顔を上げることができない。
困った。
困った、困った。
じゃあ、しょうがない。
こうしよう。
このまま聴覚だけを頼りに、この一大イベントを乗り越えよう。
「あのさ……」
「は、はい……」
「えと……」
少し間を置いたあと、川島くんは続けて喋り始めた。
「あ、ありがとう。すっげぇ、嬉しかったよ」
「ど、ども……」
「波多野……」
「は、はひ!」
「実は俺も……」
川島くんは言った。
「ずっと好きだったんだ」
パリィィン!――――
半径2メートルの異質な宇宙空間は、華々しい花火を打ち上げながら、美しく消え去った。
それは、最高に素敵な結末。
これ以上ない展開だった。
「これから、よろしくな」
「は、はひ……よりょしく、お願ひしましゅ……」
あぁ、まいった。
まいった、まいった。
胸の高鳴りが凄すぎて、もう私の滑舌はおかしなことになっている。
でも、嬉しい。
嬉しくてたまらない。
ギュッ――
笑顔で握手を求める川島くんの右手を、私は両手でそっと握り返した。
や、やった!
川島くんが恋人になった!
自然とこぼれる笑顔というのは、最高にハッピーな証。
そう。
それはまさに、私に突然訪れた幸せ。
でも、これは全て『彼女』のおかげだ――――
全ては、彼女がいたから。
小さな小さな妖精さんが私の元に来てくれたから。
ジュレ、ありがとう。
『告白したら振られるかも』っていう恐怖心もないから、恋がうまくいったよ。
全ては、あなたが私から恐怖心を取り去ってくれたおかげだよ。
ありがとう。
本当にありがとうね――――
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