②
* * * *
「はい……はい…………すみません…………今日も体調が戻らないので……休ませてください……」
ハァ…………
プツッ――――
私は深いため息と共に、静かに携帯の電源を切った。
あの事件から5日が経った――
私は会社はおろか、外に出ることも出来ず、独り暮らしの家の中に引きこもっていた。
恐い。
恐い、恐い。
人に会うのが恐くて恐くてたまらない。
そう。
私がとりつかれた恐怖心という十字架は、日に日にその重さを増していくばかりだった。
「あぁ……」
どうしよう……
このままずっと会社を休むわけにもいかないし……
何より外に出なきゃ、冷蔵庫に入ってる食べ物や飲み物も、もう底をつき始めている。
どうしよう。
どうしよう。
ポロポロ。
ポロポロ。
考えれば考えるほど、涙が溢れるばかりで、何も答えは見つからない。
出口の見えない自問自答を繰り返すばかり。
絶望――――
このまま死んでしまったほうが楽なんじゃないか……そんなことまで本気で一瞬、頭をよぎる状態になっていた。
「ねえー、ねえー」
――すると、その時だった。
「その恐怖心、あたしにちょーだい」
!?
バッ!――
私は声のしたほうを慌てて振り返った。
「あ、あれ……?」
しかし、誰もいない。
確かに声は聞こえた。
聞こえたはず。
しかし、誰もいない。
誰の姿もない。
「ここだよ。ここ」
!?
バッ!!――――
もう一度、慌てて周りを見渡す。
四方八方、目を見開いて首を動かす。
「お~い、ここだって~」
!!??
やはり聞こえる。
はっきりと聞こえる。
しかも、しかもだ。
おそらくだけど、テーブルの上のマグカップの裏側から聞こえたような気がする。
「……?」
ゴクリ――
生唾を飲み込み、ゆっくり恐る恐る、愛用のマグカップを覗き込んでみると、そこには、
「こんにちはー」
「ひっ!?」
ガタン!――――
私は二歩ほど後ろに飛び上がり、そのまま大きな音を立てて尻餅をついてしまう。
「!!?!?!!!?!??!???」
出ない。
何も言葉が出ない。
『固まる』とは、正にこのこと。
目玉が飛び出しそうなほど大きく見開いたまま、完全にフリーズしてしまった。
そう。
そこにいたのは、マグカップと同じくらいの大きさの、透き通るような青い羽を携えた女の子。
小さな小さな女の子が、手を振りながら、にっこりと微笑んでいた。
何??
何なの??
これは夢?? 幻??
私はそこまでおかしくなっちゃったの??
頭の中は大混乱のオンパレード。
もはや、一人では処理が不可能。
するとそんな私を見かねてか、
「あー、大丈夫、大丈夫、ちょっと落ち着いてー」
小さな女の子は、ゆっくりやさしく喋り始めた。
「実はね、あたしは妖精なんだー。名前はジュレ、よろしくねー」
ペコリと頭を下げ挨拶をする姿につられ、私も思わず軽く会釈をする。
でも、謎が解決したわけじゃない。
むしろ、加速度的にクエスチョンマークは増え始めた。
だ、だって、妖精だよ!?
信じられない。
信じられないるわけがない。
あっ、いや、待てよ。
そうじゃない。
そうじゃないのか。
この状況は、否応なしに信じなきゃいけないのか??
だって、目の前にはっきりと存在して、自己紹介まで丁寧にされたんだから。
でも……でも、何だろう……
あぁ……何だろう。
この不思議な感覚は。
まるで、暗闇の中に現れた一筋の光のように感じてしまう。
そう。
こんな非日常の体験をしているのに、人生に絶望している私は、なぜかその妖精が希望を照らしてくれるお釈迦様のように見えてしまった。
だから。
だからだ。
私は自分なりに積極的に妖精との会話を進めた。
「あ、あの……」
私は小さな声で尋ねた。
「えと、名前が……ジュレ……ちゃん……?」
「そだよー、そっちはユウコちゃんだよね?」
「あっ……私の名前……知ってるんだ?」
「うん、財布の中に保険証が入ってたからー。あっ、レシート、入れすぎだよー。古いやつからどんどん捨てなきゃー」
あとね、とジュレは言った。
「エステのクーポン券も、どうせ使わないんだから捨てちゃえば? ていうか、エステしてもそんなに変わらないってー。あんなもの、元が美人じゃなきゃ意味ないってー。あっ、別にユウコちゃんが不細工って言ってるんじゃないよー。あっ、でもあれだね、否定したら余計にそう思ってるように聞こえるかー。あははー」
「は、はは……」
…………
ぬおぉぉぉぉぉぉぉ!!!!
よく喋る妖精だなぁぁぁぁぁぁ!!!!
そして、なんか私、軽くディスられたよねぇぇぇぇぇぇ!!!!
ていうか、あと、なに勝手に人の財布、覗き見してんだよぉぉぉぉぉぉ!!!!
え??
なに、なに??
これは、新しい泥棒の形??
今は妖精が泥棒をする時代なの??
じゃあ、このジュレちゃんはお金目当てなの!?
「ね、ねえ!」
私は頭をポリポリとかきながら尋ねた。
「そ、その、ジュレちゃんは、いったい、何が目的……? お金……? それとも…………」
もしかして、と恐る恐る言った。
「私の……魂とか……?」
「あははー! 違う、違うー!」
あのね、とジュレは言った。
「あたしは、食料がほしいのー」
「食料?」
「うん、そうそうー、実は、あたしの食料はね」
人間の恐怖心なの――――
ジュレはニコッと笑って、『ちょうだい』とでも言わんばかりに、可愛く手を差し出してきた。
「あ、あの!」
その手を遮るように、私は間髪入れずに質問を投げ掛けた。
「ちょっと、あまり意味がよく分からないんだけど……恐怖心が……その感情が、ジュレちゃんの食料なの……?」
「そだよー」
ジュレは言った。
「人間から恐怖心を貰ってー、それを食べて栄養にしてるのー」
ちなみに、とジュレは言った。
「もちろん、恐怖心を貰った場合、ユウコちゃんから恐怖心っていう感情は無くなっちゃうわけー」
でもね、とジュレは言った。
「今のユウコちゃん、恐怖心なんかいらないでしょー? むしろ、邪魔でしょうがないでしょー? だから、ちょうだいー」
「え……い、いや、急に言われても……」
「ん~?」
じゃあ、とジュレは首を傾げながら言った。
「このまま過ごすのー?」
「あっ……い、いや……」
「しんどくない? その恐い思いをした記憶は消えないんだよー。ずっと頭に残ったまんまなんだよー」
「…………」
「そんな恐怖心なんていらないよー」
「…………」
「ねえ、どっちー?」
ジュレは『早くちょうだい』と言わんばかりに、さらに手を差し出して急かしてくる。
「いらないよねー?」
「…………」
「ねー、ちょうだい! ちょうだい!」
小さな妖精は、ここぞとばかりに、畳み掛ける。
「ねえぇぇぇぇーー!! ちょうだいよぉぉぉぉぉぉぉぉーーーー!!!!」
「う、うん……」
私は勢いに負けて、コクりと静かに頷いた。
いや、違うかも。
正直言うと、ジュレのその強い押しを待っていたのかもしれない。
もっと押して、もっと押してと強く願っていたのは確かだ。
もちろん、こんな取引なんかしたことがない。
それがいいことなのか良くないことなのかも、分からない。
だからだろうな。
自分で判断できないから、崖から突き落とされるぐらいの勢いで、相手に強く強く背中を押してほしかったんだろうな。
無くなってほしい――
恐怖心なんか1ミリ残らず無くなってほしい。
そうすれば、日常の生活にまた戻れて、会社にもショッピングにも、それこそ全く効果が無いかもしれないエステにだって、どこにだって出かけることができる。
だから。
だからだ。
「お、お願いします……」
ペコリ――――
私は小さな妖精に向かって、これでもかというぐらい深く深く頭を下げた。
「わーい、ありがとー!」
ジュレは、キャピキャピと女子高生のように飛び跳ねながら言った。
「じゃあ、取引成立!」
パチン!――――
嬉しそうに軽く指を鳴らすと、私の胸の辺りがボワンとまばゆく光り、その光の塊が、次の瞬間、スポンと頭の上に飛び出した。
そう。
その塊こそが、恐怖心らしい。
「いっただっきまぁぁぁぁす!」
バクン!!――――
ジュレはその光の塊を勢いよく飲み込んだ。
「す、すごい……」
私はただただ、目を丸くして眺めているばかり。
なぜなら、その光景は異様そのもの。
口だけが、体の何十倍にも大きくなり、一口で丸のみ。
例えるなら、まるで、ヘビがネズミを丸のみする時のような。
ジュレの可愛い顔からは全く想像できないほど、かなりグロテスクな光景だった。
ピキン!!――――
「あっ……」
ピキン! ピキン!!――――
次の瞬間、それは突然訪れた。
そう。
頭の中で何かが『ピキン!』と音を立てて壊れたのを確実に感じることができた。
何かが。
何かが劇的に変わっていく。
今まさに、自分が新しく生まれ変わろうとしているのを感じる。
「う、うそ……」
それは、とても心地よい感覚。
まるで、背中に大きな純白の羽が生えたような。
どこまでも、どこまでも、自分の行きたい世界に飛んでいけるような。
目覚める。
新たな自分がこの世に誕生する。
この取引の効果が即座に現れたのは、私にもすぐに理解できた。
「……く…………ない…………?」
恐く……ない……?
そう。
体の中から、浄化されたように、恐怖心が完全に消え失せていた。
「す、すごい!!」
ない!
恐くない!
何も恐くない!!
「やったー! ありがとう! ジュレちゃん、ほんとにありがとう!」
「アハハー、よかったねー」
お腹をタプタプに膨らませ横たわっている小さな妖精は、ゲップをしながら言った。
「これから毎日が楽しくなるといいねー。じゃあ、あたし、もう行くねー」
スパン!――――
ジュレはそう言い残すと、その場から一瞬で姿を消した。
「え!?」
待って!
待って、待って!
「待って!!」
私は慌ててマグカップの周りを見渡した。
でも、いない。
やはり、ジュレの姿はどこにもなかった。
「そんな……」
せっかく、友達になれたと思ったのに……
もっと話したいことや、何よりもっともっとお礼を言いたかったのに……
「ジュレちゃん…………」
ギュッ――
私は、ジュレがもたれかかっていたマグカップをやさしく握りしめ、心の中で呟いた。
ありがとう。
ほんとにありがとう。
これで、私は人生をやり直すことができるよ。
どうやっても脱げなかった恐怖心という重い重い鎧から解放されるよ。
本当にありがとう――――
それは、ある日、突然起こった奇跡の出来事。
私の日常に、もう一度、溢れんばかりの希望を与えてくれた決して忘れることのできない一日だった。
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