第10話 翳りゆくヴィジョン

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 その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた。海から南西の風が吹いてくるせいだ。その風が運んできた湿った風が谷間に入って、山の斜面を上がっていくときに雨を降らせるのだ。家はちょうどその境界線あたりに建っていたので、家の表側は晴れているのに、裏庭では強い雨が降っているということもしばしばあった。最初のうちはずいぶん不思議な気がしたが、やがて慣れてむしろ当たり前のことになってしまった。

 まわりの山には低く切れ切れに雲がかかった。風が吹くとそんな雲の切れ端が、過去から迷い込んできた魂のように、失われた記憶を求めてふらふらと山肌をただよった。細かい雪のように見える真っ白な雨が、音もなく風に舞うこともあった。だいたいいつも風が吹いているせいで、エアコンがなくてもほぼ快適に夏を過ごすことができた。

 

 第1部 顕れるイデア編 :第一章冒頭


 ◆◆◆



 いろいろ風呂敷を広げまくってきましたが、そろそろ収拾をつけたいんだよなあ、と思って、いまいちど物語の始まりに戻ってきてしまいました。

 

 そして、一通り物語を通り抜けた後で読み返してみると、この冒頭部分は、一見、ただの描写や状況の説明であるようでいながら、これから起こる一連の出来事に対しての淡いほのめかし、とでも言った表現になっているようです。


 今回、比喩は多用されますが、あまりぶっ飛んだ表現にはなっていません。


 端正で、落ち着いた文章です。ただし、その論理性と系統性は、話者である「私」によって一定の留保がつけられているのです。

 

 

 ◆◆◆ 


 この時期のできごとを思い返すとき(そう、私は今から何年か前に起こった一連の出来事の記憶を辿りながら、この文章を書き記している)、ものごとの軽重や遠近や繋がり具合が往々にして揺らぎ、不確かなものになってしまうのも、またほんの少し目を離した隙に理論の順序が素早く入れ替わってしまうのも、おそらくはそのせいだ。それでも私は全力を尽くし、能力の許す限り系統的に論理的に話を進めたいと考えている。あるいは所詮は無駄な試みなのかもしれないが、自分なりにこしらえた仮設的な物差しに懸命にしがみついていたいと私は思う。無力な泳ぎ手がたまたま流れてきた木ぎれにしがみつくみたいに。


 第1部 顕れるイデア編 :P15


 ◆◆◆ 

 


 実際に、読み返してみると、まさにここに引用しているようなスタンスで書かれた文章になっているようです。

 

 具体的に言うと、たとえば「私」には妹がいて、もう亡くなっているということが10章で語られるのですが、そのラストはこんなふうな書き方で閉じられます。

  

 ◆◆◆ 


 僕らは高く繁った緑の草をかき分けて、言葉もなく彼女に会いに行くべきなのだ。私は脈絡もなくそう思った。もし本当にそうできたら、どんなに素敵だろう。

 

 第1部 顕れるイデア編 :P179

 

 ◆◆◆ 



 これだけ読むと、これまたなんか脈絡のない比喩が出てきたな、くらいにしか思われないないのではないでしょうか。

 

 妹の名前が、「小径こみち」とわかるのは23章です。

 

 

 ◆◆◆


 妹は小径こみちという名前だったが、家族はみんな彼女のことを「コミ」と呼んだ。友人たちは「みっち」とか「みっちゃん」とか読んでいた。「こみち」と正式に呼ぶものは、私の知る限り一人しかいなかった。ほっそりとした小柄な少女だった。髪は黒くてまっすぐで、首筋の上できれいにカットされていた。顔の割りに目が大きく(それも黒目が大きく)、そのせいで彼女は小さな妖精のように見えた。

 

 第1部 顕れるイデア編 :P372

 

 ◆◆◆ 

 

 

 いち読者としては、できれば、この部分だけでも、あらかじめ10章にさしはさんでくれなかったものかな? と思わずにはいられない。読み返さないと気づかないよ、こんなの。少なくともねこのきにはさ。




 ーーー


 妹は小径こみちという名前だったが、家族はみんな彼女のことを「コミ」と呼んだ。友人たちは「みっち」とか「みっちゃん」とか読んでいた。「こみち」と正式に呼ぶものは、私の知る限り一人しかいなかった。ほっそりとした小柄な少女だった。髪は黒くてまっすぐで、首筋の上できれいにカットされていた。顔の割りに目が大きく(それも黒目が大きく)、そのせいで彼女は小さな妖精のように見えた。

 

 僕らは高く繁った緑の草をかき分けて、言葉もなく彼女に会いに行くべきなのだ。私は脈絡もなくそう思った。もし本当にそうできたら、どんなに素敵だろう。

 

 ーーー



 こんなふうにね。


 でももし、「私」を目の前にすることが出来て、ねこのきが今のような文句を言ったとしたら、この「私」という人物は、


「でも私はここではできるだけ論理的、系統的に描こうと務めているんです。横顔を描いているのに、そこに両目を描きいれることなんて、出来やしませんよね?」


  とか、マジ顔で問いかけてきそうな感じだ。

 まあ、そんな書き方になっているということなのです。


 やれやれ。


 そう、言ってみれば、ある一つの形象を、いくつか別々の角度の視点で描いているということなのです。

 

 「わたしを月に連れてって」という歌がもとをたどれば「In other words」というタイトルだったらしいというように。

 ちょっと違うか。

 

 しかしながら、それはこの世か、あの世かわかりませんが、角度は違えども、ある一点を見つめているであろうことは、疑いようのない、確かなことではあるのです。

  

 そう考えてみれば、ねこのきが最初に疑問を持った、第1部、32章の唐突さというのも、何か意味があるのかもしれません。

 

 たとえば、その前の章との相対的なつながり具合においてだとか。

 

 

 ◆◆◆ 


 私を絵にするんじゃない、と私は自分自身に向かって命じていた。私は壁にかかった鏡の中の自分に向かって、激しく人差し指を突き立てていた。私をこれ以上絵にするんじゃない!

 

  〈中略〉

 

 ぼくもぼくのことが理解できればと思う。でもそれは簡単なことじゃない。

 

 

 第1部 顕れるイデア編 :P503−504

 

 ◆◆◆ 


 

 やっぱりまたまとまりがつかなくなりそうだにゃあ。


 やれやれ。

 

 ただ、この小説の文章が、どこか、ある一点に対して、目をこらしているようだということは、ねこのきにとってのたしかな感触です。

 

 

 さてさて、だいたい言いたいことは言ってみたようだし、話題をもう一度変えてみて、音楽の話でもしてみましょうか。

 

 例によって、様々な音楽の話題が出てきてましたよね。

 

 たとえば、リヒャルト、シュトラウスの「薔薇の騎士」のこと。

 

 今の時代は、 Spotify に無料登録してしまえば、大体の音楽に接することができてしまいます。小説中に出てくるショルティ指揮のものも、多分聞けるはず。(間にコマーシャルがはいるかもしれませんが。)

 

 ねこのきは、その演奏時間を前にしてびびりまくったがな!

 そして聴き通すことはなかったがな!

 

 とりあえず、ネットでざっと調べた感じでは、シュトラウスさんは、何と言うか、「時間を味方につけること」をさせてもらえなかった作曲家だったようです。

 

 

 ◆◆◆  

 

 リヒアルト・シュトラウスは戦前のウィーンで(アンシュルスのの前だったかあとだったか)、ウィーン・フィルハーモニーを指揮した。その日の演奏曲目はベートーヴェンのシンフォニーだ。物静かで身だしなみがよく、決心の堅い七番のシンフォニー。その作品は明るく開放的な姉(六番)と、はにかみ屋の美しい妹(八番)とのあいだにはさまれるようにして生み出された。若き日の雨田具彦はその客席にいた。隣には美しい娘がいる。彼はおそらく恋をしている。

 私はウィーンの町の光景を思い浮かべた。ウィンナ・ワルツ、甘いザッハトルテ、建物の屋根にひるがえる赤と黒のハーケンクロイツ。

 

 第2部 遷ろうメタファー編:P343

   

 ◆◆◆ 



 リヒャルト・シュトラウスは、そのような時代を、戦後まで生き抜いた作曲家のようです。


 ご存知の通り、先の大戦をくぐり抜けた後、いわゆるクラシック音楽のジャンルからは、誰もが知っているような大作曲家、を生み出す力は失われてしまいました。

 鉄と火の雨がすべてを叩き潰そうとする中、かろうじて残った才能も、その災厄を逃れるために新大陸へと移り、音楽の主人公もまた、新大陸アメリカの大衆音楽とその担い手たちによって主導権が握られることになります。


 リヒャルト・シュトラウスは、そのような時代をもまた生きることになったのです。


 ねこのきにはそれ以上のことわかりません。


 もうひとり、「私」自身が愛好するらしき音楽として、ブルース・スプリングスティーンのアルバム「リバー」が出てきます。


 ねこのきは、かつて、近況ノート欄にスプリングスティーンの曲をとりあげたことなんかもあったりして、ちょっとは知っていました。


 もともとは、佐野元春がとりあげていたということで聞きはじめたんですけどね。

(佐野元春については、ねこのきのツイッター見てね!)



 ◆◆◆ 


 九八年や九九年にまだロック・ジャーナリズムがあるとするならば「ブルース・スプリングスティーンはアメリカ白人ロックンロールの系譜の中で一番最後に位置する」という表現をすると思う。それはロックンロールが細分化されていくということではなくて、彼を超える、あるいは同等の白人ロッカーが出てくるとは思えないからなんだ。これはビートルズみたいなバンドが出てこないというのと同じような話。「今」を描けるリアルな人が出てくるかもしれないけれども、それには随分時間もかかるだろうし、もし出てきたとしても、白人ロックンロールという系譜からは逸脱した所から生まれるような気がする。



 角川文庫 佐野元春 『ハートランドからの手紙』 P203


 ◆◆◆ 



 「リバー」もCD持ってました。二枚組の大作です。


 持ってましたけど、引っ越しの時にしまいこんだままで探しだすのが面倒だったので、 Spotify に無料登録して聞き返しました。ぜんぶしゃなくて、アルバム代表曲の「リバー」と、かつて村上春樹もエッセイで取り上げていた「ハングリー・ハート」などをちらほらと。

 

 アルバム代表曲の「リバー」、日本語で言えば川。

 

 ここでも聞けるみたいです。

 ■YOU TUBE : Bruce Springsteen VEVO の The River 動画 →  https://www.youtube.com/watch?v=utVR3EgQkHs

 

 ひとりの男があなたに話しかけてきます。

 故郷の川の話です。


 男の故郷は、男は親父と同じ仕事をするように育てられます。

 

 その男の故郷に流れる川は、

 ハイスクールのメアリと一緒に泳ぎに行った川であり、

 メアリを孕ませた後、建設会社に職を得て結婚した日にも泳ぎに行った川です。

 (式はあげなかった。) 

 

 ぼくは思い出すと川に行くんだ。

 川はもう干上がっているけれど。

 

 そんなふうな歌です。

 

 

 そんなふうな歌を聞きながら、とりとめとなく目の裏に浮かぶ翳りゆくヴィジョンを追いつつ、ねこのきは思います。


 そういえば、このあいだ、チャック・ベリーの訃報を知ったのも、佐野元春のホームページ見ている時だったなあ、と。

 

 そんなこんなでとりあえず、第3部読むまでは、結論はおあずけナリよ。

 

 

 やれやれ。

 

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