第9話 『春雨物語』と命禄
ようし、こんどはまた上田秋成に戻るよ。
『騎士団長殺し』で、騎士団長登場前に何やら意味ありげに取り上げられた上田秋成の『春雨物語』、 P233〜P235 あたりで、あらすじの紹介までされるのですが、
サッパリワケガワカラナイヨ。
みたいな感想がのべられた後は、物語からはあっさり退場し、その後は顧みられることはありません。
あの何となく意味ありげな取り上げ方は何だったんだ。
まあ、それはそれとして、迷惑メールが来る前に、もうひとつ取り上げておこうとしたことががあったのです。すっかり忘れてますた。
やれやれ。
『春雨物語』という小説のテーマについて、です。
放送大学の講座の中に、上田秋成を取り上げているものがあります。
これ→ http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H28/kyouyou/C/ningen/1554816.html
ここの 『春雨物語』の世界(一)というところの説明を見ると、こんなことが書いてありました。
◆◆◆
『春雨物語』は秋成が最晩年に書いた小説集であるが、断片を含め数種類の原稿が残っている。『春雨物語』の不思議な推敲のされ方、所収の話の多様さ、全体を統一するテーマである「命禄」について考察する。
◆◆◆
『春雨物語』の全体を統一するテーマ、それが「
なんじゃそら。
以前、調べてみた時にも、ねこのきには、ちょっとようわからんかったような……。
この放送大学の講座を担当している、講師の方(長島 弘明)の文章をネットで見つけたので、そこからもひっぱって見ましょう。
学内ホームページ用の、エッセイらしいんですけど。
◆◆◆
卒業論文のテーマを決めたときには進路は決めておらず、まさか一生秋成と付き合うとは思ってもみなかった。ただ、偶然に見えて、そうではない場合がある。秋成が晩年好んだ語に「命禄」がある。晩年の傑作の『春雨物語』のテーマといってよい言葉で、それと同時に、秋成自身の歴史認識の原理であり、身の処し方の指針でもあった。すなわち、晩年の秋成が抱いた思想がこの「命禄」である。元々は、後漢の王充の『論衡』の篇名であり、偶然として顕現する現象を支配し統御するもの、しかもそれは外在する理法ではなく、人や事物に内在する理法であって、人為ではいかんともしがたいものがこの「命禄」である。なるほど「命禄」とはうまいことをいう。偶然に見えても、必然であることもあるのだ。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/essay/2015/2.html
◆◆◆
「偶然として顕現する現象を支配し統御するもの、しかもそれは外在する理法ではなく、人や事物に内在する理法であって、人為ではいかんともしがたいもの」
わかったような、わからないような。
前回取り上げた、 中村 博保 氏の 『上田秋成の神秘思想』
には、具体的にいろいろな例が取り上げられていました。
たとえば『雨月物語』の「貧富論」という話には、金の精!というのが出てきて、私は神でも仏でもない、ただ非情の物、人間の善悪に従ういわれはなく、私にうやうやしく仕えるものに、集まっていくだけだ。と言わせていることとか。
こぼれた魚をくわえた犬が、けっきょく魚屋に取り返されてしまったのを、「それはおれのもんだ」という顔でどこまでも付いて行ったという見聞を記していることとか。
◆◆◆
秋成はこのような神や畜生等、不思議のあり方を在来の因果観や儒教的合理主義から全く離れたところに独立した論理として考えている。
〈中略〉
これを人間の思惟の世界とのつながりを全く断ち切られた、人間にとっては不可解な相対的原理に従う存在としているのである。
中村 博保 上田秋成の神秘思想
早稲田大学リポジトリ http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/42422
◆◆◆
秋成は、この世には、人間には伺い知れない領域が、確かにある、ということを、自分の経験と観察から、深く確信していたようです。若い頃、狐憑きにあったと主張したりもしていたらしい。
そして、そのような不可解な領域というものが、人間自身にも、もちろん自分自身の中にも例外なく存在している、ということにも思いを巡らせていたようです。
もしかしたら、自分の中に、人為ではいかんともしがたいものを強く感じていたからこそ、そのような神秘思想を信じるようになったのかもしれません。
◆◆◆
さてこのような秩序認識に基づく神秘思想は、自然の運転を人智をもっては測りがたいものとし、命禄をはばみ得ない運命的力とみたように、自己の内実に関しても持って生まれたものは動かし難いという認識に導かれてゆくことになる。命禄の不可避性が、逆にそれをうける人間を居直らしめているのである。
ここでは自己内部の「生」の認識が、自然原理のアナロジーを生み出したのとは逆の形で、外部に対する所与認識が自己の「生命」の自覚へ当てはめられているのである。
中村 博保 上田秋成の神秘思想
早稲田大学リポジトリ http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/42422
◆◆◆
内部に人為ではいかんともしがたいものを抱えたものたちが、あちこちにひしめいているのが、浮世というものです。
無論、自分自身も例外ではなく、その内実に、いかんともし難い何ものかをひそめているのです。
さらに言うならば、それぞれのいかんともしがたいもの同士がすれ違い、ぶつかり合い、互いに侵食し、もたれ合うように共存しているのが、この世界というものであり、ひょっとすると「あの世」もまたそこに含まれているのかもしれません。
そう、狐憑きってのは、本当にあるんだぜ。
あくまで、相対的意味合いにおいて。
先の 中村 博保氏の論文の最後に、
「春海が「とかく学問に私めさるよ」と非難してよこしたのに対して、「わたくしとは才能の別名也」とやりかえした」
といったエピソードが記されています。
「わたくしとは才能の別名也」
このような物言いは、現代ならともかく、江戸という時代背景においては、おそらく様々なトラブルを招かざるを得ないような気がします。
実際、秋成は、気難しく、頑固者、といった評判だったようです。
秋成とて、自分の物言いが、とかく面倒事を引き寄せることになりがちなのは判っていたはずです。そんなことに気づかない性格ではなく、むしろ、気づきすぎるくらい神経質な体質であったような気がします。
なんとなく。
それでも、たとえあらゆるトラブルが押し寄せてくることになるとしても、そうだから、そうなんだ。という信念は、いかんともしがたいことだったのでしょう。
そのようないかんともしがたいもの達が織りなす網目模様のありとあらゆる角度からの認識。
それが『春雨物語』のテーマ、「
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