第8話 団長っ、騎士団長おぉぉぉ。


 ーーなんだよ、迷惑メールが着信してただけかよ。

 

 やれやれ。


 ええと、何の話だっけ? スッカリ忘レテシマッタナー。

 

 そう、騎士団長の話でしたかな?

 

 騎士団長は、雨田具彦という画家が描いた『騎士団長殺し』というタイトルの絵に描かれている人物のことです。


 騎士団長? らしき人物が若者に剣で刺し殺されている情景を描いたもの。

 ただし、人物、風俗は、日本の飛鳥時代と思われる様式で描かれた日本画です。


 作品内ではこのように説明されています。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 「これは雨田具彦さんが精魂を傾けて描いた絵だ。そこには彼の様々な深い思いが詰まっている。彼は自ら血を流し、肉を削るようにしてこの絵を描いたんだ。おそらく一生に一度しか描けない種類の絵だ。これは彼が自分自身のために、そしてまたもうこの世界にはいない人々のために描いた絵であり、言うなれば鎮魂のための絵なんだ。流されてきた多くの血をきよめるための作品だ」

  

 第2部 遷ろうメタファー編:P446


 ◆◆◆

   

 小説の中では、この騎士団長の姿を借りた、なんかよくわからないものが登場してきて、けっこう重要な役割を果たします。

 そして、自分のことを「イデア」だと言ったりするのです。


 作品内ではこのように説明されています。

 

 

 ◆◆◆  


 「イデアというのは、要するに観念のことなんだ。でもすべての観念がイデアというわけじゃない。たとえば愛そのものはイデアではないかもしれない。しかし愛を成り立たせているものは間違いなくイデアだ。イデアなくして愛は存在しえない。でも、そんな話を始めるときりがなくなる。そして正直言って、ぼくにも正確な定義みたいなものはわからない。でもとにかくイデアは観念であり、観念は姿かたちを持たない。ただの抽象的なものだ。でもそれでは人の目には見えないから、そのイデアはこの絵の中の騎士団長の姿かたちをとりあえずとって、いわば借用して、ぼくの前にあらわれたんだよ。そこまではわかるかな?」

 

 第2部 遷ろうメタファー編:P441


 ◆◆◆ 


  

 作品内で、騎士団長が何の観念を表す「イデア」なのかは言及されていないようですが、上記引用の中で例として挙げられている所からひとまず拝借して、あたらずとも遠からず、というところで、ひとつの仮設の解釈として下記の内容を設定しておきたいと思います。

 

 「愛そのものではないかもしれないが、愛を成り立たせているもの」


 もちろん、仮設というからには、もっとふさわしい解釈なり、発見があればただちに取り下げ、新たに定義を更新していくということになります。

 まあその、あくまで相対的意味合いにおいて。

  

 ところで、ネタバレ全開、読了前提と断っているのをいいことに、

 ストーリー紹介もせず、かなり脱線しながら書いているのに今さらながら気がついてちょっと不安になってきました。


 でもなあ、長い話だしなあ、と思いながら、ぱらぱら読み返したりして。


 

 ◆◆◆ 


 その当時、私と妻は結婚生活をいったん解消しており、正式な離婚届に署名捺印もしたのだが、そのあといろいろあって、結局もう一度結婚生活をやり直すことになった。

 

 第1部 顕れるイデア編 :P14


 ◆◆◆   

  

 ああ、第1部の1章冒頭でもうざっくり書いてあったわ、

 「そのあといろいろあって」ってのがいろいろあるわけだろうけれども。


 離婚問題は解決済みです、とあらかじめばらした上で、小説は進められてゆく。


 つまり、離婚問題という枠組みはこの小説上あまり重要ではなくて、「そのあといろいろあって」の方を問題にしている、ということなのでしょう。


 ネット上でよく見る、「村上作品での見慣れた道具立て」といった要素も、もしかするとそういった、どうでもいい部分の穴埋め的な扱いなのかもしれません。


 なので、ねこのきも、そういうのは、どうでもいいこと、と仮に扱って、「そのあといろいろあって」というところに腰を据えて読んで見ようかな、と思ったりもしたのです。


 しかしながら、先の引用箇所のすぐ後で、大事なはずの「そのあといろいろあって」がどんなものであるかも、やはりあらかじめやれやれな感触で予告されていることに直面するのです。

 

 ◆◆◆ 


 この時期のできごとを思い返すとき(そう、私は今から何年か前に起こった一連の出来事の記憶を辿りながら、この文章を書き記している)、ものごとの軽重や遠近や繋がり具合が往々にして揺らぎ、不確かなものになってしまうのも、またほんの少し目を離した隙に理論の順序が素早く入れ替わってしまうのも、おそらくはそのせいだ。それでも私は全力を尽くし、能力の許す限り系統的に論理的に話を進めたいと考えている。あるいは所詮は無駄な試みなのかもしれないが、自分なりにこしらえた仮設的な物差しに懸命にしがみついていたいと私は思う。無力な泳ぎ手がたまたま流れてきた木ぎれにしがみつくみたいに。


 第1部 顕れるイデア編 :P15


 ◆◆◆ 

  

 まあ、なんというか、大事なところだとしても、大分あやふやな話なんだぜ、とあらかじめ警告はした上で、物語は始められているようなのです。

 やれやれ。

 

 まあ、それはそれとして、ちょっと騎士団長が初登場するあたりの場面に移って見ることにしましょう。

 

 何と言うか、主人公以上に存在感を放つ、免色、という人物から肖像画の注文を受け、その制作に主人公が行き詰まる、というシチュエーションで、どこからか耳元で囁くような「ヴォイス」として、騎士団長は現れます。


 

 ◆◆◆ 


 、と誰かが言った。

 私はその声をはっきりと耳にした。大きな声ではないが、よく通る声だった。曖昧なところがない。高くも低くもない。そしてそれはすぐ耳元で聞こえたようだった。


 〈中略〉


 、と誰かが言った。相変わらずとてもはっきりした声だった。まるで無響室で録音された声のように残響がない。一音一音が明瞭に聞こえる。そして具象化された観念のように、自然な抑揚を欠いている。


 〈中略〉

 

 。まるで謎かけのようだ。深い森の中で迷った子供に、賢い鳥が教えてくれる道筋のようだ。免色にあってここにはないもの、それはいったい何だろう?。

 

 第1部 顕れるイデア編 :P278−280より抜粋


 ◆◆◆ 


 そして、ねこのきは、その後に続く文章に惹きつけられます。


 「全力を尽くし、能力の許す限り系統的に論理的に話」されようとしている文章だからです。


 ◆◆◆ 


 長い時間がかかった。時計が静かに規則正しく時を刻み、東向きの小さな窓から射し込んだ床の日だまりが音もなく移動した。鮮やかな色をした身軽な小鳥たちがやってきて柳の枝にとまり、しなやかに何かを探し、そして鳴きながら飛び去っていった。円い石版のようなかたちをした白い雲が、列をなしていくつも空を流れていった。銀色の飛行機が一機、光った海に向かって飛んでいった。対潜哨戒をする自衛隊の四発プロペラ機だ。耳を澄ませ、目を凝らし、潜在を顕在化するのが彼らに与えられた日常の職務だ。私はそのエンジン音が近づいてきて去っていくのを聞いていた。

 それから私はようやく、ひとつの事実に思い当たった。それは文字通り事実だった。どうしてそんなことを忘れてしまっていたのだろう。免色にあって、私のこの免色のポートレイトにないもの。それはとてもはっきりしている。。降りたての雪のように純白の、あの見事な白髪だ。それを抜きにして免色を語ることはできない。どうしてそんな大事なことを私は見逃していたのだろう。

 

 第1部 顕れるイデア編 :P280−281


 ◆◆◆ 


 えーっと、これをちょっと整理してみたいと思います。

 ねこのきはねこのきで、「自分なりにこしらえた仮設的な物差し」で見なおしてみたいと思ったからです。


 まず、それぞれ意味のある文章ごとにナンバリングしてみましょう。


 ①長い時間がかかった。時計が静かに規則正しく時を刻み、東向きの小さな窓から射し込んだ床の日だまりが音もなく移動した。

 

 ②鮮やかな色をした身軽な小鳥たちがやってきて柳の枝にとまり、しなやかに何かを探し、そして鳴きながら飛び去っていった。

 

 ③円い石版のようなかたちをした白い雲が、列をなしていくつも空を流れていった。

 

 ④銀色の飛行機が一機、光った海に向かって飛んでいった。対潜哨戒をする自衛隊の四発プロペラ機だ。耳を澄ませ、目を凝らし、潜在を顕在化するのが彼らに与えられた日常の職務だ。私はそのエンジン音が近づいてきて去っていくのを聞いていた。

 

 

 ⑤それから私はようやく、ひとつの事実に思い当たった。それは文字通り明白な事実だった。どうしてそんなことを忘れてしまっていたのだろう。免色にあって、私のこの免色のポートレイトにないもの。それはとてもはっきりしている。彼の白髪だ。降りたての雪のように純白の、あの見事な白髪だ。それを抜きにして免色を語ることはできない。どうしてそんな大事なことを私は見逃していたのだろう。



 こんな感じに分けてみて、


 ①はまあいいでしょう。それには長い時間がかかったのだと。

 ②小鳥たちも何かを探し、

 ④自衛隊のプロペラ機もまた耳を澄ませ、目を凝らしている。

 

 その間に


 ③円い石版のようなかたちをした白い雲が、列をなしていくつも空を流れていった。

 

 という文章が挟まれて、⑤のエウレカ!に繋がるように配置されています。

 

 

 つまり⑤の文章の前には、あらかじめ③のほのめかしが用意されているといった構造になっているようなのです。

 

 

 ③円い石版のようなかたちをした白い雲が、列をなしていくつも空を流れていった。

 

 ここだけを取り上げてみれば、それは何の変哲もないただの描写でしかありません。

 しかし、読者がその前後の文章との関係性に思いを馳せたとき、

 

 「愛そのものではないかもしれないが、愛を成り立たせているもの」

 

 が顕れてくる場面に、

 私たちは立ち会うことになるのかもしれません。


 その相対的な関係性の繋がりが保証する、ささやかな足場を共有することによって。


 それはまるで「深い森の中で迷った子供に、賢い鳥が教えてくれる道筋のよう」に。

 

 やれやれ。

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