第5話 脱線する気はあった

 上田秋成 『雨月物語』 について

 

 まあ、ネットググればテキストくらいはいくらでも出てきますので、とりあえず、現代語約も一緒に掲載されているページのリンクだけ載せておきます。

 

 

『雨月物語』本文 http://roudokus.com/Ugetsu/



 ◆◆◆ 

 

 第一話「白峯」冒頭

 

  あふ坂の関守せきもりにゆるされてより、秋こし山の黄葉もみぢ見過ごしがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海なるみがた、不尽ふじ高嶺たかねけぶり、浮嶋がはら、清見が関、大磯いそこいその浦々、むらさきにほふ武蔵野の原、塩竃しほがまぎたる朝げしき、象潟きさがたあまとまや、佐野のふなばし、木曽の桟橋かけはし、心のとどまらぬかたぞなきに、なほ西の国の歌枕見まほしとて、仁安にんあん三年の秋は、あしがちる難波なには須磨すま明石あかしの浦ふく風を身にしめつも、ゆくゆく讃岐さぬき尾坂をざかはやしといふにしばらくつゑを とどむ。草枕くさまくらはるけき旅路のいたはりにもあらで、観念くわんねん修行しゅぎょう便たよりせしいほりなりけり。

 

 ◆◆◆ 

 

 ところで谷崎潤一郎はその『文章読本』でこの「白峯」冒頭部分を取り上げ、(ねこのきが持っているのは古書店で買ってきた中公文庫版のもので、それだと68ページあたり)

 

 「私はこの秋成の文章を古典的名文の一つに数えたいのでありますが、これがなぜ名文であるかは追って説明いたしますから、今は別に申しますまい。」

 

 と書いているのですが、その後の「追って説明」する部分がどこにも見当たらないように思うのはねこのきの読みが足りないからなのでしょうか。何なんでしょうか。

 やれやれ。

 

 それはともかく、この『雨月物語』の第一話「白峯」冒頭、よく指摘される特徴としては、主人公の名前が出てこない(後で西行法師と明かされる)、ほとんどが地名、詳しく言うと歌枕として有名な場所を書き連ねることで文章が進められている、というところでしょうか。ちょっと書き出してみると、

 

 

 あふ坂

 秋こし山

 鳴海なるみがた

 不尽ふじ高嶺たかね

 浮嶋がはら、

 清見が関、

 大磯いそこいその浦々

 武蔵野の原

 塩竃しほがま

 象潟きさがたあまとま

 佐野のふなばし

 木曽の桟橋かけはし

 難波なには

 須磨すま

 明石あかし

 讃岐さぬき尾坂をざかはやし

 

 

 これだけ出てくるのです。

 これらをコピペして、ちょっと検索してみれば、どの地名からもたくさんの短歌がヒットするはずです。(たぶん)なんたって、歌枕だし。

 

 何が言いたいかというと、これらの地名には、たくさんの短歌がその背後にひしめいている、という事実です。

 

 これらの地名を書き連ねた「白峯」冒頭の道行き文の背後にも当然、無数のことばたちがうごめいているということでもあります。

  

 さらに付け加えるならば、後で主人公は西行法師と明かされるのですが、その西行が書いたとされる『撰集抄』の文章が、この冒頭文の元ネタになっていることがわかっています。

 これもネットから引っ張ってこれるので、こんなのだとざっくり見ておいてください。

 



 ◆◆◆ 


 西行法師『撰集抄』巻二第四 花林院発心


〈中略〉

  こしの白山雪積て、老曽の杜のはゝき木風になひきやすし、佐野の野原のほや薄そよめきて、同心のすゑ葉の露は、風に乱てしとろなる有様、木曽の梯、佐野の船はしなんと見侍しに、心も留るへき程なり。逢坂の関の関守とめかねし、秋こし山の薄紅葉見すてしかたく、浜千鳥跡ふみつくるなるみかた、ふしの山辺は、時しらぬかのこまたらの雪残り、浮嶋か原、清見か関、大磯小磯の浦/\は、過かたく侍るそや。此僧正は六そちに傾き給ぬれは、さやうの所を見いまそからんもかなはてや侍らん。さても何なる所に、思澄ておはすらん。返々ゆかしく侍り。哀、此身を思すつる心の、いさゝかなりとも、つけねかしと覚て侍るそや。



 digital 西行庵   http://www.saigyo.net/saigyo/text/senjyu.txt より

 

 ◆◆◆ 

 

 

 さらにさらに付け加えれば、当時の知識人の間で、中国ブーム、中国文学ブームがあり、輸入された中国小説に刺激を受け、それらをネタ本にした小説が数多く出版されていたという事実があります。


 『雨月物語』の解説本などを読めば、背景として必ず書かれているでしょう。


 つまり、『雨月物語』もまた、その流れの延長線上に位置づけられる小説なのです。

 事実『雨月物語』の中のいくつかは、ストーリーの源流をたどれば、中国で書かれた小説であることは既に多くの研究者から指摘されています。



 これらの技巧は、いったい何を意味しているのでしょうか、谷崎はあいにくと答えてくれませんでした。

 

 私の持っている、尚学図書『秋成集』では、こんなふうに解説していました。

 

 

 ◆◆◆  

 

 第一に、古典からの修辞の摂取は、逆に言えば自己の文章を古典に連続せしめることでもあり、それによってさらに自己の文章の世界を、現代の世俗的境域から断絶することであった。つまり、古典世界を「銀河」と仮称するならば、修辞的接続は、作者が架けた「銀河鉄道」の如き虚構のしわざであって、ここにことばの自立を前提とする反現実(むしろ反世界)的時空が成立するのであった。浮世草子作者たることの断念と、この方法の選択とが無関係でないことはいうまでもないであろう。

 

 第二に、秋成にとって、このような剽窃とは独創的な〈ことばの貼り絵〉コラージュの方法的駆使であったということである。材質としての修辞(古典の中の)には、いうまでもなく秋成自身は不在である。ことばをあつめることは、言い替えれば物語作者としての秋成の現実(または自己)からの逃避・逃亡である。けれど、そのような非自己的な材質の構成によって、自己を疎外し、また自己を韜晦しつつ、作品の完結において、古典修辞の洗礼を受けた新しい自己が浮上するのである。つまり、小さく狭い自己を殺すことによって、逆に作品が秋成の自我の結晶体になるという仕組みであった。没個性化の回路が取りも直さず、逆に強烈な個性の表現装置なのであった。

 

 いきなり、むつかしい解説になったかもしれない、けれど、「白峯」の冒頭の文には、以上の私のもってまわった解説を上回って、すぐれて構造的な何かがあるのである。

 

 尚学図書

『秋成集』(高田衛 編) P42−43

 

 ◆◆◆ 



 うん、さっぱりわからん、

 すぐれて構造的な何かって何だよ! ってねこのきもおもわず突っ込みそうになったよ。

 

 正直、「白峯」とその解説を読んだだけではちんぷんかんぶんだった。


 ただ『雨月物語』は短編集で、他にもいろいろな話をふくんでおり、ねこのきは、「夢応の鯉魚」という話を読んでいる時に、自分なりに気づく所があったのです。


 秋成の文体に慣れてきた、ということもあったのかもしれませんし、なんたってこいがでてきますからな、にゃー。

 

 

 さて、「夢応の鯉魚」というお話をざっくりかいつまむと、むかし、絵のうまいお坊さんがいて、なんやかんやあって、ふと気づいたら琵琶湖を泳ぐこいになっていましたとさ。という単純なもの。

  

 こいですが、何か? 


 と考えたのかどうか知りませんが、その事自体たいして気にもせず、るんるんで琵琶湖の中を泳いでいたものの、やがてお腹が減ってきて、やれいい匂いがするわいと思う方向へさそわれて行くと……みたいな話なのです。

 問題の、るんるんで琵琶湖を泳いでいるあたりを引用してみるとこうなっています。

 

 

 ◆◆◆ 


「夢応の鯉魚」(前出HPより)

 

 不思議のあまりにおのが身をかへり見ればいつのまに鱗金光うろこきんくわうそなへてひとつの鯉魚りぎょしぬ。あやしとも思はで、ふりひれを動かして心のままに逍遥せうえうす。まず長等ながらの山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、志賀の大湾おほわだみぎはに遊べば、かち人ののすそぬらすゆきかひにおどされて、比良ひらの高山影うつる、深き水底みなそこかづくとすれど、かくれ堅田かただ漁火いさりびによるぞうつつなき。ぬば玉の夜中よなかがたにやどる月は、鏡の山の峰にすみて、八十やそみなと八十隈やそくまもなくておもしろ。

 沖津島山おきつしまやま竹生島ちくぶしま、波にうつろふあけかきこそおどろかるれ。さしも伊吹の山風に、旦妻船あさづまぶねこぎ出づれば、芦間あしまの夢をさまされ、矢橋やばせの渡りする人のなれさををのがれては、瀬田せたの橋守にいくそたびか追はれぬ。日あたたかなれば浮かび、風あらきときは千尋ちひろそこに遊ぶ。

 

 

 ◆◆◆ 



 これらもまた、地名の羅列が主体になっていることにすぐに気づくでしょう。


 

 長等ながらの山おろし

 志賀の大湾おほわだ

 比良ひらの高山

 堅田かただの漁火

 夜中よなかがた

 鏡の山の峰

 八十やそみなと

 沖津島山おきつしまやま

 竹生島ちくぶしま

 あけの垣

 伊吹の山風

 芦間あしまの夢

 矢橋やばせの渡り

 瀬田せたの橋守




 そしてこれらもやはり歌枕、数々の短歌、紀行文がその背後には積み重なっていることばたちなのです。

 

 怪談、ホラーにジャンル分けされるであろう小説の、おそらくは最もファンタジックで不可思議な場所を描く部分が、歌枕の羅列によって表現されています。

 

 そして、『雨月物語』という怪談には、このような表現はいたるところに見られるのです。



 この文章の奥底にあるものを、ねこのきなりの言い方で言えば、作者は、実際にその場所を訪れたり、その場所そのものを知っている必要はない、そういう確信をたしかに持って書いていると感じることです。

 

 その場所を扱った紀行文やら、短歌を知っていればそれでいいのだ、と。

 

 少なくとも読者はその場所を訪れたことがなくとも、この文章を受け取り、楽しむ材料に不足することはないでしょう。

 

 それらの地名は、数えきれぬほど古典のなかで歌われ、讃えられ、地層のように積み重なっており、そのことばたちは秋の落ち葉が積みかさなるように、これから先も折節ごとに歌われ、描かれ、増えてゆくことが約束されているのですから。

 

 それは、過去と未来のことばの群れによって保証されているのです。

 

 別の言い方で言えば、「そうだから、そうなんだ」という足場とは、まったく別の場所に、意味をつくり上げることに、上田秋成は成功した。してしまったのです。


 それは、それまでの創作方法とは明らかに違う考え方を持ちながら、それに合った文体を自らの手で支えながら立ち上げるという、ちょっとわけがわからない力技のように思えます。

 

 

 上空を指差して、「あれは、ねこのき絶対領域だ」とか言っていたねこのきさんとちょっとくらべ……なくていいですから。 

 


 ネットで調べてみると、実はこのあたりの内容もしっかりまとめられているようなので、

 ここに引用しておきます。




 ◆◆◆ 


 中村 博保 「血かたびら」と寓ごとの方法


 早稲田大学リポジトリ http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/42924



 文字言語内部の意識の蓄積ーー言語の使用による意識の対象化ーーは、文化のある段階で飽和に達し、現実から分離するとともに、人間の内から意識を抽き出す(抽象)ことによって、意識と現実を分離させることになる。秋成が自己を形成した、享保から明和にかけてのいわゆる近世中期とは、近世というひとつの歴史社会の内部で、意識の蓄積が、まさしく飽和の状態に達した時期であり、意識の分離が鋭く自覚化された時期であった。この段階で、現実自体が現実との連続を断ち切った意識によって、対象化されたと同時に、虚構空間としての人間の内部もまた、現実から分離化され、更にそうした内部につながる言語として「文学言語」が改めて自覚化されることになった。この段階で漢文字言語は、秋成によって、漢文字一般としてではなく、「文学言語」として見直されることになったわけだが、その場合、文学言語としての漢文字世界の発見がいかに決定的であったか、またそれがいかに複雑多岐にわたるかたちを示していたかは、『雨月物語』の出典一覧が示しているとおりである。

 

 

 ◆◆◆ 

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