第6話 まだ上田秋成の話

 秋成のもうひとつの代表作とされているのが、晩年に書かれた『春雨物語』で、こちらも奇譚・怪談に分類される小説集です。

 

 『騎士団長殺し』に出てくるのは『春雨物語』の中の「二世の縁」という短編です。

 

 どんな話かというと、地面の中から鐘の音が聞こえるので、不思議に思って掘り出してみたら、ミイラみたいなおっさんが出てきましたとさ。

 

 こりゃむかし偉い坊さんが、修行だかなんだかのために地中にこもっていたものだろうと水やら食べ物上げてみたら、おっさんもりもり食って復活! したものの、昔のことは全然覚えてない。

 

 復活したあとは、どこにでもいる普通のおっさんで、魚などの肉も食うし、後には結婚もした。

 世間からの評判はあまりよくないらしい。


 というような、おもわず「やれやれ」と言いたくなる話です。

 正直言って、この話はねこのきもお手上げなのですが、今一度ネットから解説を引っ張ってきましょう。



 ◆◆◆


 中村 博保 上田秋成の神秘思想


 早稲田大学リポジトリ http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/42422

 

 周知のように、この作品は、禅定したまま百年をへた僧が、かすかな鐘の音をたよりに掘り出されて蘇生し、全く平凡な人間として「生」に執着を示す姿を描いている。この定助と呼ばれる男は高僧の面影はおろか人なみの誇りすら示そうとしない。貧しい後家に婿入りするあたりは、性慾を露骨に示してむしろグロテスクでさえある。表題の「二世の縁」とは仏法の尊厳と人々の仏法に対する期待をつぎつぎと裏切ってゆく「生」の姿を示している。だが一見全く奇怪なこの「生」の姿も、観方を変えてみるならば、そこにアイロニカルに強調された人間の本質をまざまざとみることができるのである。円地文子のような作家が特別にこの作品に関心を示したのも故なきことではなかった。むしろ「人間」を描いている興味においては、「二世の縁」は秋成の全作品中最も小説的であるといっていいだろう。


〈中略〉


「二世の縁」は単に仏教否定の思想小説であったにとどまらず、教理を超えた生命の本質を描いていた。「力ありたけの相撲取」における悲劇的な生の努力、「血かたびら」に描かれた人間の情慾と、それを支配する命禄、これらに彼は人間の本質をみようとしている。つまりこのような命禄の下でどうにもならない自己を認識することこそ人間にとっての「生」の確認だったのである。


〈中略〉


 この独特の感受性と現実透視の直感によっている秋成の思想は、構想を求めるにはあまりにも抽象性を欠き、普遍的理論化を求めるにはあまりにも個性的であった。我々はただヴィジョンとして、その思想を理解することができるに過ぎない。


 ◆◆◆ 

 

 『雨月物語』で、かなり技巧的であった秋成は、『春雨物語』を書くころになると、技巧を正面に押し出すのではなく、いったん脇に置いた上で最後には破壊するかのように、自己の直感や思想を映し出すエピソードを、ひとつのヴィジョンとしていわばむき出しの形のまま読み手に提示することを選んで語っているようなのです。

 

 それは秋成にとって、もうひとつの「そうだから、そうなんだ」としか言えないものであって、秋成自身ですら動かしがたい、何ものかの声に動かされただけのものだったのかもしれないと言えるのではないでしょうか。

 

 秋成の差し出すヴィジョンが現代の人間にも何事かを訴えかけてくるのだとしたら、おそらくはその裏にある「切実さ」をどこかの回路で私たちが受信しているということになるのでしょうか。

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