第3話 ……事態の打開を求めて

 ところで、2016年3月23日のねこのきは近況ノートにこんなことを書きました。

 

 ……事態の打開を求めて、これからちょっと、日本ペンクラブ電子文藝館のサイトに行って、


 伊藤整の『近代日本人の発想の諸形式』


 http://bungeikan.jp/domestic/detail/75/


 をもういちど読み返してみよう。

 なんか、難しいんだけど、読むたびに、なにかヒントをもらってきたんだよ。


 ◆◆◆ 



 まあ、自分の小説にはまったく役に立てることはできなかったものの、人生何が役に立つかわかりませぬ。

 今回『騎士団長殺し』のプロローグを読んでいたとき、ふっとこの評論の内容を思い出したのです。

 

 

 

 ◆◆◆  

 

 破滅型または逃避型と、死または無による認識とは、日本人の認識方法の二原型のやうであつて、死を意識することによつて生命を認める点では似てゐるが、その方向は反対である。即ち、前者は、社会の実生活から下降し、又は遁走し、また破滅することによつて生命を味はうとする傾きを持つてゐる。後者は、自分が死に直面してゐるといふ意識から生活と自然とを味つて生きようとする上昇的な生命観を持つてゐるのが常である。しかしこれは両者とも、その存在感の究極を無といふ永遠性の中に見出してゐるのである。そのことは、次のことを示してゐる。人間は大地の上に立つてゐることを感じなければ安定しないやうに、危機に面した時には、自分の存在が何かの絶対なものと結びついてゐないと不安で耐へられなくなる。その絶対の形は一方の極が死または無であり、他方の極は完全性または神であるらしい。



 ■伊藤整 『近代日本人の発想の諸形式』

 http://bungeikan.jp/domestic/detail/75/

 ◆◆◆  



 死または無による認識というのは、あくまで語り手の意識にとってのものであり、どこまでも主観的なものだと思います。


 自分自身のみが把握しうる生命観、なかなか言葉では説明できないような領域のものなのです。

 

 それは、難解であったり、理解しがたい、ということではなくて、逆にあまりにもあたりまえすぎることがその理由だと思うのです。

 

 空はなぜ「そら」と言うのか、海をどうして「うみ」と呼ぶのか、「ねこのき絶対領域」とか呼んじゃいけないのか。いけないよな。

 

 日本人は、そのように名付けたものをそのように語り続けてきたのだ。そうだから、そうなんだ。そういう領域が確かに存在します。

 

 もちろん、ねこのきが自分の責任において、上空を指差して、

 

 「あれは、ねこのき絶対領域だ」

 

 と言うことは一応ゆるされているでしょう。

 ただそこには何の意味も発生することはないということです。

 

 意味を生み出すには、「そうだから、そうなんだ」という存在に乗っからなければ、何もはじめることが出来ないのです。

 やれやれ。

  

 もう一度、『近代日本人の発想の諸形式』に戻って、もうちょっと具体的に説明している所を探してみると、志賀直哉の作品が取り上げられているのを見つけました。

 ちょっと見てみることにしましょう。

 

 


 ◆◆◆  

 

 前にも述べたやうに志賀直哉の調和感は、強く意志的なものであるが、その調和の世界が危くなると、この二つの場面に出てゐるやうに、生命の小ささ、即ち無に近い方の極限を考へ、または死を設定し、死といふ無から見直すことによつて今存在する生活の意義を再認識する方法をとる。であるから、ここで、調和感なるものが、無の認識の上に築かれてゐることが見出されるのである。ここで分ることは、調和思想と存在の極としての無の認識とが、対立するものでなく、結びつき得る、といふことである。このやうな志賀直哉的調和の内容を支へてゐる論理は、直感または好悪に裏づけされたものである。主人公の時任謙作に言はせると、「何でも最初から好悪の感情で来る」ものであり「好悪が直様すぐさま、此方では善悪の判断になる。それが事実大概当る」のである。であるから社会現象、政治問題等もまた好悪によつて決定されるといふ危険を含むのである。この直感の判断は、彼が若い頃に学んだ内村鑑三のキリスト教的判断の系統を引いてゐるらしい。

 即ちここに、無の認識の上に立つて現世を肯定し、その調和を意志的に望み、その調和の秩序となる善悪の判断を好悪によつて定める、といふ志賀直哉的な世界が構成されてゐる。そして現在までのところ、日本の社会秩序に抵抗感を起させないやうな調和的人間像として、文学的に捕捉されるものでは、志賀直哉のこの構造が最も信用され、また実践性ありと見られるものである。

 

 ■伊藤整 『近代日本人の発想の諸形式』

 

 ◆◆◆  

 

 

 「この二つの場面に出てゐるやうに」というのは、この段落の前段で、志賀の小説作品を取り上げている箇所なんですけれど、引用が長くなりすぎるのもなんだかな、と思ってカットしてしまったのですが、更に具体的な作品説明として、やっぱり必要かもしれないです。


 なんか前後しちゃう上に引用がぐだぐだ続くんですけど、まあ、自分用のメモ書きと考えればしかたないよね。

 やれやれ。

 

 

 

 ◆◆◆ 

 

  志賀の無の認識が早いうちに顕著に現はれたのは、前記の『城の崎にて』(大正六年)であるが、彼の思想の全体を表現する大作と見なされてゐる『暗夜行路』(大正十年−昭和十二年)の認識形式もまたそれであると言はねばならないのである。この作品が私生活記録でなく、完全なフィクションであるだけ、作者の思想の骨骼は明確に現れてゐる。この作品の主人公は、母の過失によつて生れた。成年して後に彼はそのことをある時兄に知らされる。すると彼は、「広い世界を想ひ浮べた。地球、それから星、宇宙、さらに想ひ広めて行つて、更にその一元子程もない自身へ想ひ直す。すると今まで頭一杯に拡がつてゐた暗い惨めな彼だけの世界が急に芥子粒程になる。」といふ形で心のバランスを恢復する。だがその後に、彼は自分の妻が、姦通などといふ意志もなく外の男と間違ひを起したことを知る。この時の苦悩はもつと強烈である。妻と別れて旅に出、長い苦悩の果てに、彼はある時夜間に登山する。そして夜明けの広大な自然の風物の中に自分の生命を恢復したやうに感ずる。その登山の帰路から彼は重い病にかかり、死にヒンする。妻が看病に馳けつける。その重い病の治つてゆく過程に、主人公は妻の過失をゆるし、妻を受け入れて自分も生きるといふ調和を発見する。

 

 ■伊藤整 『近代日本人の発想の諸形式』

 

 ◆◆◆  



「無の認識の上に立つて現世を肯定し、その調和を意志的に望み、その調和の秩序となる善悪の判断を好悪によつて定める、といふ志賀直哉的な世界」



 これ、志賀直哉ってなってるとこを村上春樹に置き換えて、あとちょい手を加えれば、そのまま、『騎士団長殺し』にもあてはまるんじゃね?

 

 あれ、感想、終わったんじゃね?

 

 実際、ねこのきにとって『騎士団長殺し』の構成はそのとおりの認識だったりはするのですけれど、では、死または無に対峙される、具体的なエピソードなり、表現というのは、どういうものなのか。

 

 3.11の光景を前にして、ひとりの人間の内面を支えうる物として描き出されているのだろうか、という疑問はそこはかとなく残ります。

 

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