ともだち
海は私の人生に優しい潮風を運んでくれる、心のオアシスでした。自宅からオフィス街を抜けて三十分。巨大なイベントホールと国際ホテルが立ち並ぶ側にある臨海公園。一大観光都市なのに、イベントホールの陰に隠れているからか、観光客の姿はほとんどありません。ここに来るのはすぐ近くにある高層マンションの住人や穴場探しに余年のない釣り人、そして二人だけの空間を求めてやってくるカップルたちです。
今思い返すと、人生の岐路にたったときはいつもこの公園から海を眺めていました。人にはとても言えないエピソードだらけなので一つだけ紹介いたしますね。まだうら若き大学生のときです。彼氏に振られ、怒りと悲しみに駆られた私はいつの間にかこの臨海公園にいました。迸る熱いパトスに従うまま私は彼氏からプレゼントされた数々の品ーーすなわち鞄、マフラー、パスケース、一緒にとったプリクラ、楽しかった思い出などを目の前に広がる海へ投げ捨てました。偉大な海は私の身体に染みついた記憶を海流で溶かしてくれると思ったのです。海の向こうは私の知らない広大な世界がある。そう思うと、私の失恋の痛みなどちっぽけなものに感じられました。パスケースの中には定期券が入ったままだったので海に飛び込んで回収するはめになりましたが……。浅瀬でよかったです。青春の一ページですね。
そんなこんなで私が感傷に浸っていると、いつの間にか白い物体が。クラゲさんです。
「平日だってのに子連れの人間が目立つねえ。新学期もう始まってるんじゃないの?」
クラゲさんは私に尋ねました。
「今は感染症が流行している影響で全国的に休校中なんですよ。子どもを家に閉じ込めてばかりいても限界があるでしょう。どうしても気分転換は必要なんです」
「そうかい、そりゃ大変だな」
クラゲは大きな波にも流されずに漂っていました。私と会話をする気満々です。私はクラゲが嫌いなのですが。子供の頃、海水浴場で左肩を刺されて以来、海は好きでも極力泳がないようにしているのです。パスケースの件は例外です。
「じゃあ君、しばらくは休みというわけか」
私の内心など知るわけもなく、クラゲは話しかけてきました。
「折り入って頼みたいことがあるんだが」
真剣な眼差しです。目はありませんが。
「なんでしょうか」
「俺と友達になってくれない?」
「嫌です」
「即答だな」
クラゲはニヒルに笑って言いました。
「いきなり友達になれと言うのも確かに強引だ。悪かった。ただ、そうだな……俺は普段から同族とはつるまない、いわばさすらいのクラゲなんだが、たまにはやっぱり誰かとしゃべらないと気が滅入っちまうんだ。感染症が収束するまででいい。ここにきて俺の話し相手になってくれないか。気が向いたらでいい」
「ーー嫌です。私はクラゲが嫌いなんです。子供の頃、クラゲに刺されました。まだ肩に刺された跡が残っています」
わざわざ敵対する生物と仲良くする道理などないはずです。すると、クラゲは私に諭すように
「そいつはすまなかった。同族が迷惑をかけたな。だかな、お嬢さん。世の中には悪いクラゲもいれば良いクラゲもいるんだ。俺は良いクラゲだ」
「自分を〈良いクラゲ〉と形容するクラゲは信用できません」
「そうか、でも考えてほしい。あんたはクラゲに刺されて傷を負った。ひょっとすると消えない傷かもしれない。だからクラゲが憎い。その気持ちは俺にも痛いほど分かる。本当だ。俺にだってそういう経験がある。いや、誰にだってあると言ったほうがいいかもしれんな。でも、だからこそ俺と友達になれるはずだ。クラゲという種族そのものは恨んだままで構わない。ただ俺という個体を受け入れてくれればいい。それが出来るのが人間のはずだ。俺はそういう人間を何人も目にしてきた、だから」
彼は少し躊躇いながらも、はっきり言いました。
「あんたもクラゲを信じてーー」
「嫌です」
クラゲは私の意志の強さにあっけにとられているようです。
「私はあなたがクラゲだから嫌いだけでなく、あなたというクラゲが嫌いなんです。鬱陶しい。人間は確かに敵対するグループのあいだでも友情や愛を育む場合もありますが、一例にすぎません。人間は"敵"という概念を作る生き物です。"敵
"に打ち勝とうとすることで仲間内の結束を強め、新しいものを発明します。それが人間の進化というものです。生き延びるための生存政略です。歴史が証明しています」
熱病に罹ったように私はしゃべりきりました。一分の沈黙の後、クラゲは言葉を発しました。
「見解の相違だな」
「見解の相違ですね」
私は自宅へ踵を返しました。
それ以来、この臨海公園でクラゲと会うことはありませんでした。彼は無事に友達が出来たのでしょうか?
もし友達だちが出来たのなら、願わくは"人間"という生き物ではありませんように。
きまぐれボックス 昇 @12cancer
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