第十二話 山羊

(1)

 出会いと同じ数だけ別離わかれがある。我々は、その当然至極のことをしばしば忘れる。いや……忘れようとする。じゃが、どんなに意識の奥深くに押し込めておこうとも、別離は来る。事実として。逃れようもなく。


 旅支度を整えたテオとジョシュアは、今日屋敷を離れる。そして、二人がここへ戻って来れるかどうかは誰にも判らぬ。私にも、な。されば私も屋敷に残される者も、その道中の無事をひたすら祈るしかあるまい。


 私は執務室の椅子に深くうずまり、しばし黙考の底に沈んでいた。


◇ ◇ ◇


 私がアラウスカと仕合っていた間に、メルカド山に出向いていたテオとジョシュアも試練を迎えていた。年を経ていささか丸くなっていた前代の竜と違い、代替わりしたばかりの竜は本当に気が荒かったのだ。


 竜は居所きょしょおとなった二人に問答無用でいきなり襲いかかった。じゃが、前代の竜との仕合いを重ねて隅々まで鍛え上げておるテオは、そんな竜の攻撃をことごとく凌いだ。ジョシュアを庇いながらの立ち回り。それをこなし切ったということは、テオの実力がさらに一段上がったということ。まだ成熟し切っていない当代の竜は、その桁外れの力を認めざるを得なかった。


 そして不思議なことに、竜はテオよりもジョシュアをいたく気に入ったようじゃ。危機に怯えて背を向けず、毅然と仕合いに臨む気概を持つこと。まだ幼い少年が勇者として欠かせぬ資質を見せたことに、いたく感じ入ったのであろう。テオとジョシュアが竜との仕合いに謝意を示し、これから修行の旅に出る旨を竜に告げると、竜は相好を崩したという。


「ジョシュアを置いて行け。わしが鍛える」


 竜にそう言われ、テオは断るのに苦労したそうな。ははは。ジョシュアも見込まれたものよのう。


 竜の居所を辞す際、竜はジョシュアに一枚の透明な竜鱗を授けたという。


「それは訪問を認める印じゃ。お主がいかなる姿でここに現れても、それを身に付けておれば謁見を認める。必ず帰ってこい。また鍛えてやるゆえ」


 無敵の竜と友誼を結ぶ。ジョシュアはさぞかし喜んだことじゃろうな。


 テオがジョシュアに課した、竜との謁見の試練。ジョシュアは見事その試練を乗り越えた。そして、機は熟した。私の屋敷で休息を取って己を見つめ直したテオは、心身のずれを自ら正すべく、再びの旅に出る。それは、私の屋敷にテオが来た時からすでに定められていたこと。二つの道はない。

 ジョシュアもそうじゃ。ビクセンどのの命は『他国での修行』。あくまでも修行であり、他国でぬくぬくと過ごすことではない。決してない。先々、大勢の民の統率に責を負わねばならぬ身になるのじゃ。使役されることの意味と辛さをしっかり叩き込んでおかぬと、ただの暴君になってしまう。試練は外にはない。己の中にある。それを悟るための長い旅になるであろう。


 テオとジョシュアの出立しゅったつは、二人がメルカド山から戻ってすぐに屋敷の者たちに告げられていた。冷静沈着で、守護者としては最強のテオ。太陽のように明るく、一緒にいる者を幸せな気持ちにしてくれる屈託のないジョシュア。屋敷に欠かせない要素のように思えるが、二人はあくまでも居候に過ぎぬ。屋敷でいつまでものたくっておったところで、彼らのためにはならぬ。それは、彼ら自身がよく分かっておったはずじゃ。

 私は、テオやジョシュアに二度と来るななどとは言わぬ。修行が一段落したのち、また屋敷に戻って身を休めてくれと言い伝えてある。もちろん、二人とも心置き無く再訪するであろう。それはいい。問題は残される方じゃ。


 これまで数限りなく別離を経験しておる私は、いかなる寂しさにも耐えることが出来る。じゃがソノーやメイにとって、此度こたびのは初めて経験する辛い別れじゃ。心を通わせた者との別れじゃからな。さらにもう一つ悲痛な別れが控えておって、二人はまだそれに気付いておらぬ。


「ふう。別れはいつも辛気臭いが。此度ほど湿っぽい別れはないであろうのう」


 出立の準備が整ったことを告げに来たのであろう。引きずるようなソノーの足音が、部屋の前で止まった。


「ゾディさま……」

「うむ。今行く」


◇ ◇ ◇


「何もこんな日に」


 ソノーが泣きそうな顔をしておる。無理もない。外は、伸ばした手の先が見えぬほどの猛吹雪であった。別離など絶対にさせるものかと何者かがあらがっているかのように、荒れ狂う風雪が激しい咆哮を繰り返す。じゃがテオは、出立しゅったつの時を頑として動かそうとしなかった。


「吉日、好日を選ぶと、襲い来る試練に打ち勝てなくなりまする」


 ううむ。芯から騎士よの。


「それでは、それがしはこれにて」


 そっけなく背を向けようとしたテオを、シアが呼び止めた。


「ああ、ちょっと待って」


 戸口に並んだ二人の前にひょいと出たシアが、我々の方に向き直った。


「テオたちだけじゃなく、あたしも今日までなの」

「えええーっ!? う、うそ……」


 絶叫したソノーが、その場に呆然と立ち尽くした。シアがその姿を見て寂しそうに微笑む。


「だから、娘のグレタと一緒にやってたのよ」


 ソノーは、私が告げておいたことを甘く見ていたのだろう。あと一期という言葉をな。じゃがシアは、化身を繕えぬようになるぎりぎりまでは留まらぬ。まだ己が動けるうちに自身の意思で別れを宣言し、その機をテオたちの旅立ちに合わせるであろうと思っておった。やはりか……。


「うん。楽しかったわ。これからはグレタがわたしの代わりに働くから、鍛えてあげてね」


 からっとそう言うと、つかつかとグレタの前に出た。


「一つだけ言っとく。あたしと同じで、あんたもこれから毎年出産と子育てを乗り切らないとなんない」

「……うん」

「気を抜いたら即あの世行きだからね。屋敷にいるから安心なんてことはない。絶対にない!」

「う……」


 グレタが真っ青になった。これが最後。そう思い詰めているシアの訓示には、一分の隙も容赦もなかった。


「いい? ゾディにとって、あたしたちは使い魔。代わりはいくらでもいる。あんたがくたばろうが何しようが知ったことじゃないの。そのゾディの首根っこ引っ掴んで、きびきびやりやがれってどやせるくらいじゃないと、認めてもらえない」

「あ……ああ」

「しっかりやんなさい!」

「……うん」


 最後まで母親としての顔を崩さなかったシアは、我々の顔を見回してぺこりと頭を下げた。


「出来の悪い娘でごめんね。よろしくね」


 ソノーの肩が小刻みに揺れている。人間の体を得て私の屋敷に来たばかりのソノーを、とことんかわいがったのがシアじゃった。ソノーにとって、シアは母親代わりじゃ。別れは……本当に辛いじゃろう。


 そしてもう一人、どうにも別れに耐えられぬ者がおった。


 メイが目を真っ赤に泣き腫らし、ジョシュアを直視出来ず、顔を背けたままで嗚咽している。腕白で鳴らしたジョシュアも、メイに対してだけは最初から最後まで優しかったな。男を怖いと思ってしまうメイも、ジョシュアに対しては徐々にその警戒を解いたのだろう。されど旅立ちは必定じゃ。メイは辛いであろうな……。


 メイの様子を心配そうに見ていたジョシュアは、兜を外して床に置き、メイの前に出た。


「帰ってくるから。それまで待ってて」


 そこでメイの自制が効かなくなった。倒れ込むようにしてジョシュアに抱きつくと、初めて声を上げて泣いた。メイの勢いに驚いたロビンが肩からぱっと飛び立つ。言葉を失ったはずのメイが、振り絞るようにして声を上げた。


「ジョ……シュア……ジョシュ……アア……ジョシュア……アア」


 うむ。とうとう自力でいましめを解いたな。


 泣きじゃくるメイを抱きしめていたジョシュアは、その背中をとんとんと叩いてあやした。それからメイの両頬の涙を吸い取るようにキスをし、最後に唇にそっと唇を重ねた。大人が恋人に対して見せるキスではない。子供が己の親愛を示すかわいいバードキス。それでも、その小さなキスから運命が動き始める。私は思わず天を仰いだ。


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