第六話 蟹甲
(1)
まだ柔らかかった若葉がかちりと固まり、日差しに太い芯が入って空気がひどく乾き始めた。同時に気温がじりじり上がり、屋敷が標高の高いところに位置するとは言え、日中はかなり暑くなってきた。元々は早春の精であったソノーは暑さがひどく堪えるようで、見るからに元気がなくなった。暑ければ暑いほど馬力の上がるシアとは好対照じゃな。
「のう、ソノー」
「ふぁい」
執務室のドアに背中をもたれかけて屈み込んでいたソノーは、よろよろと立ち上がろうとした。
「よいよい。まだ座っておれ」
「お言葉に甘えますー。ふう」
「建物にも熱がこもってしまったからな。外の木陰におった方が涼しいぞ」
「でも、執務が」
「いや、お主がへたばってしまう方が先々差し障る。今時期は里も町も繁忙期じゃ。依頼人の数はそれほど多くない。客は私が
「わ! いいんですか?」
「お主にもメイにも息抜きが必要じゃろうて」
「わあい!」
つい先ほどまで茹で上がった青菜のような萎れようだったソノーは、まるで蘇生の魔術をかけられたかのようにぽんと跳ね起きて、執務室をぱたぱた駆け出していった。
「ふっふっふ。ソノーも側と中身とが馴染んできたのう。よいことじゃ」
側が幼女で、中身が成熟したニンフ。取り合わせは決してよろしくない。じゃが、側は代えられぬ。中身が側に合わせてゆくしかないのじゃ。か弱いニンフには何も出来ぬが、これから成長していくソノーには成し得ることがどんどん増える。成長に伴って側と中身とのずれが小さくなり、違和感がなくなってくるはずじゃ。そして、ソノーはそれを必ず前向きに捉えるじゃろう。同時に、ニンフとして在ったために経験しえなかった幼児としての
「残念なことじゃが、私には親の代わりが出来ぬ。そこだけが、な」
◇ ◇ ◇
ソノーとメイが川で水をかき回すぱしゃぱしゃという音が、執務室まで飛び込んでくる。
「ふう」
中身はともかく、見かけはメイの方がずっと年長じゃ。メイの中ではソノーは姉ではなく妹であろうな。ソノーはメイと遊んでやっていると考えているじゃろうが、メイの中では逆じゃ。ははは。それでも、ずっと水音が絶えぬというのは二人が無心で遊んでいられるということ。これからは、そういう時間をもっと増やさねばならんの。
「それと」
執務室の壁一面を埋め尽くす魔術書を見渡す。
「教育をどうするかじゃな」
風聞に敏感なニンフ。ソノーがニンフであった頃は、学んだ経験がなくとも紙が水を吸うように知識を身に入れておったのじゃろう。もちろん入れられることは紙の容量までだが、日常はそれで十分じゃ。
問題はメイじゃな。処世術はすでに身についておるが、それは動物的な直感に等しい。先々独り立ちさせるには、どうしても自力で論を立てられるようにせねばならぬ。今のままでは、結局一生奴隷で終わるからな。論を立てられるようにするには、基本的な知識をきちんと学ぶ必要がある。そこをどうするか。
「ん?」
急に外が
「……。招かれざる客が、来るか」
◇ ◇ ◇
太陽が雲に隠れたのは一瞬のことで、そのあとは再び初夏の眩しい日差しが余すところなく降り注いでいた。執務に飽いた私は、二人が遊んでいる屋敷裏の川を見に行った。
「きゃっ!」
私の目を気にして、ソノーがくるっと背中を向けた。
「恥ずかしゅうございます」
二人とも全裸だからな。
「ははは。いかに私とはいえ、男の目は気になるか」
「は、はい」
「では」
小さく呪文を唱え、己の見てくれを変える。
「えっ?」
肩越しにこそっと私を見ていたソノーが、驚いて向き直った。
「あ、あのっ! ゾディさまは、本当はオンナ……」
「いや、魔術師というのはな、性がない」
「はああ?」
「もっと正確に言えば、性を持つ意味がない」
「どういうことでしょう?」
「いかようにも変えられるからじゃ」
「あ、そういうことかあ」
「名が男名ゆえ、最初は男であったのであろう。じゃが、今となっては男、女、どちらである必要も感じぬ」
「なんか、すごいなー」
「はははっ」
私も服を全て脱ぎ捨て、全裸で川に入って沐浴する。
「ふう。この季節の川は本当に気持ちいいの」
「はいー! 冷たくて、さらっとしてて」
足元の水を両手ですくい上げたソノーがそれを力一杯跳ね上げた。
ぱしゃっ! 細かく散った水滴が風で流れ、それが小さな虹を作る。ソノーは、それをうっとり眺めていた。しかしメイは、何度も同じ動作を繰り返すソノーの背中をぼんやりと見つめているのみ。自由に出来る時間を与えられても、どのように自分を表せばよいのかまだ分からんのじゃろう。これは時間がかかるのう。
「そうじゃな。まず、見える傷から癒すか。メイは屋敷の家事をしっかりやってくれておるゆえ、その依頼には報いぬとな」
「はい?」
くるっと振り返ったソノーの前で、呪文を唱える。
「リエラ!」
「あっ!」
ソノーが両手で口を押さえ、まじまじとメイを見つめた。
メイが、変化した自分の手足を不思議そうに見回している。いや、手足だけではない。メイの全身にくまなく刻み込まれていた無数の傷跡。それをまとめて消した。傷は、メイがこれまでずっと受け続けてきた虐待の跡じゃ。言葉を失うほどの心の傷を癒すには、まず過去を薄めねばならぬ。もちろん、側をいくら整えたところで中身が浄化されるわけではない。術は化粧と同じじゃ。それでも、日々自身の傷に向き合わねばならぬよりは、はるかに心を軽く出来よう。傷を負わせた者の顔を、毎度毎度思い出さずに済むからの。
自分の体をしげしげと見ていたメイは、屋敷に来て初めてにっこり笑った。水遊びの間は川岸の柳の枝陰に
「ウレシイデス! ウレシイデス!」
「ははは。女の子じゃからの。シアならともかく、お主らに傷があっても何の自慢にもならぬ」
その場に屈んだメイは、両手にいっぱい水をすくうと、先ほどソノーがやっていたように思い切り頭上に跳ね上げた。
ばしゃあっ! これまでで一番大きな虹がかかって、ソノーがはしゃいだ。
「うわあっ! おっきいっ!」
「はははっ。ソノーも負けずにやれい!」
「ようしっ! そうれっ!」
ばしゃあっ!
「そうじゃそうじゃ。その調子じゃ」
「きゃはははっ!」
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