Bullet (7) もっと欲しがれ

 横断歩道を渡り切ると、人の流れは自然と駅のある方角へ続いていく。ふたりの足取りも自然とそちらに向かい、店の立ち並ぶ明るい道へ徐々に近づいていった。


 イリヤは静かに続ける。


「そういうことを言わずともなあなあにできたりするのに、君はそういう誤魔化し方を知らない訳ね」

「なあなあって――」


「オーケー、君の性格が少しずつ分かってきた。俺が言える君の問いに対する答えは、『何者にもならなくていい』、だ」


 そしてイリヤは浩の言葉を遮るようにして、はっきりとした口調で言った。「昨日の俺たちは一種のというか――あまり冷静じゃなかったのかもしれないね。君が何者かになろうとしていると思ったからそう提案したのだけれど、違うのなら無理強いはしないよ。君は、とりわけ人と関わることに対し強いストレスを感じる性質たちなのだろう。ごめんね、気づかなくて」


 呆気にとられたのは浩のほうである。あまりにイリヤが淡々とした調子で言うものだから、内容はさておき怒られているのだとも思った。否、この内容でむしろ怒られないほうが不思議なのだけれど、少なくとも今の浩はそこまで頭が回っていなかった。これは確実に――すべてにおいて自分のせいだが――愛想を尽かされている。


 どう答えるべきか慎重に言葉を選んでいる浩をよそに、


「……というのは建前で、ここからが本音」

 さらにイリヤが続けた。「。大体にして、俺の精巧な贋作コピーを作っておいて今さらなにを言っているんだい。君の性的嗜好を考慮しても、一度本物に出会ってしまったら最後、君は『本物』を欲しがるに決まっている。俺なら贋作でも十分に満足できるものを用意できるけれど、そもそも、そんなことができるのは世界中探しても俺だけだ。君ですら、その点に関しては俺を越えられない」

「イリヤ・チャイカ、」

「君は、君が思うよりずっと貪欲だ。それが君の本性」


 というより、その『目』を持つが故の宿命みたいなものだろう。イリヤはそんなことを呟いて、ふっと口元を緩ませた。


「あいにく俺は尽くすことに喜びを感じる人間だ。君が欲しいものならなんでもあげるよ。金も愛情も身体ですらも、君が望むものならなんでもあげる。君はそれを利用すればいい。君は俺を利用して消費して、全部使い切ってしまえばいい。俺の心を奪った君にはそれが許される権利がある。俺以上に価値のある人、他に存在するのかい? もっと欲しがれ、ヒロ・ショーライ。俺は君が望むものをすべて用意できる」


 さあ何がお望みだ、とイリヤはその目を浩へ向けた。数日前に見た、底なしの暗闇を連想させる覇気のないまなざしだ。それを浩は苦しそうに見つめ、ゆっくりと言葉を吐き出す。


「そんなずるいことを考えて君とあんなことをしたんじゃないよ」

「じゃあ、どういうことを考えたの。なんでの」


 地下へと続く階段を降り、電車の改札を潜る。この時間でもまだ駅は随分と混雑していた。人混みをかき分けながら、帰路へ着く路線に乗り込む。電車の中はそれほど混んでいなかったが、席は埋まっていた。彼らは吊革に掴まると、決して目を合わせずにぼそぼそと言葉を紡いでいる。お互い結構ひどいことを言っている自覚はあった。ロシア語が堪能な人物が他にいないことを祈りつつ、


「……、分からないだけだよ」

 電車が動き出した頃、ようやく浩が口を開いた。「俺は、分からない。君の好意の受け取り方が、分からない」


「そう。少なくとも、さっきの言葉はだめだ。それだけは覚えておいて」


 そうだね――、と浩は曖昧に言葉を返し、電車の揺れに身を任せた。胸の中に溜まる靄はまだそこにいる。罪悪感。浩は靄に対しそんな名前を付けておいた。別にこの男に対し、そこまで言わせるつもりなどなかったのだ。


 浩は微かに呻く。


「なんでうまくできないのかな。本当に頭が回らない。すごくぼうっとしてしまって駄目だ。それを抜きにしても、今日の俺は少し変なんだよ」


 浩の言い分に対し、横で大人しく口を閉ざしていたイリヤはぴくりと眉の端を動かした。


「具体的に、どう変だって言うの?」


 他の乗客に迷惑がかからぬようそっと囁くと、浩も同じくらいに声色を落とす。


「たくさんある。出張に行きたくない、三カ月くらいは関東にいたいと思ったこと。相良の言動にいちいち動揺したこと。君がこの場所に長く留まることができないと知りつつ、そう尋ねてしまったこと。買い物だってそうだ。……いつも買わないものを買ったりしている」


 あの中身は普通のものしかなかったと思うけれど――とイリヤが呟いたところで、彼ははたと目を見開いた。あの買い物袋を浩から奪ったとき、ひとつだけ違和感のあるものが入っていた。シャンプー、だ。


「――どうしたの」

 その様子に気づいた浩がイリヤへ目を向け、小さく首を傾げて見せた。「変な顔して……」


「君の言うことがようやく理解できた」

 気づかなくてごめん、とイリヤが呟く。「君が言うは、たぶん杞憂だから放っておいても大丈夫なやつだ」

「どういうこと?」


 ここではちょっと――とイリヤが言葉を濁し、明後日の方向へ首を動かす。それを怪訝な顔をしつつ、浩は眺めていた。

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