Bullet (6) 名前のない怪物

***


「今日は楽しかったよ」


 ニホンのプラネタリウムはすごいね、とイリヤが興奮気味に言った。確かにここのプラネタリウムの精度は極めて高い。浩が初めてこの場所を訪れたときも、ちょうど今のイリヤのようにとても驚いていたのをとてもよく覚えている。


「満足した?」


 浩がそう尋ねると、嬉しそうにイリヤは頷いた。


「とても。ああ、きっとこの国にはもっと素晴らしいものがあるのだろうね。三カ月のうちにどれだけ見て回れるだろう。興味が湧いてきたよ、俺」


 三カ月。その言葉を耳にした浩は、微かに眉を下げる。今日一日だけで何度この期日を耳にしてきたろう。


「君は、三カ月したら本国に戻るんだろ」


 気づいたら、浩はそんなことを口にしていた。その問いに対し、イリヤは思わずきょとんとして見せる。


「まあ、納期が三カ月後だからね。もっと早く終わるかもしれないし、逆に伸びるかもしれない。ビザは少し長く取っているから、そのあたりは多少融通が利くよ」


 それがどうしたんだい、とイリヤがけろっとした調子で尋ねるものだから、浩は少し機嫌が悪くなった。また胸の中に妙な靄が沸き上がる。気持ちが悪くて、つい露骨にイリヤから目線を逸らしてしまった。


 外に出ると、冬間近の風が二人の体を強く吹き付ける。浩のほうが少し早足だったせいか、自然とイリヤがその後ろをついていく形となった。

 寒そうに眉間に皺を寄せたイリヤの姿を、浩が振り返る。


「――」


 そしてなにかを呟いた。

 道路を走る車の音でよく聞こえない。イリヤは浩がなにを言ったのか分からなかったので、すぐに聞き返した。

 浩の抑揚のない声。それが街の喧騒の中ようやくイリヤの耳へ届く。


「――イリヤ・チャイカ。俺、やっぱりよく分からない」


 なにをだい、とイリヤが問う。


「君のことは好きだよ。憧れて追いかけるくらいには、好きだと思う。だけど分からない。それって、いったいどういうことなんだろうか」


 イリヤは何も言わず、その言葉にじっと耳を傾けている。少し頬が引きつったような気がしたが、あいにく浩の目にそれが映ることはなかった。

 信号は赤だった。他にも人はいたけれど、浩は始終ロシア語で話していたものだから、その内容を誰にも正確に聞かれてはいなかった。大量に立ち並ぶマネキンの群れの中、ふたりだけが存在しているようにも思える。そんな奇妙な光景の中、浩は淡々と口を動かし続ける。


「今日、ずっと考えていたんだ。君はどう思う。例えば、こんな風に時々会って出かけるようなこと? それとも、昨日の夜みたいにことだろうか。でもそれって、……、別に遊びでも済む話じゃないか。その違いは一体なんだろう」


 そして浩はじっと表情のないまなこをイリヤへ向ける。「君のものになるってことは。一体俺は、俺たちは、どこへ行こうとして、なにになろうとしているのだろう」


 イリヤは一瞬口を閉ざし、それからためらいがちに口を開いた。


「……、君はどう思うの。分からないとは言っているけれど、その口ぶりだと答えに辿りついていそうじゃないか」

「少なくとも、今日ここにきて、俺が言った『星を覚えて』の一言に対して君が『無理だ』と言ったら躊躇いなく手を切るつもりだった」


 浩ははっきりとそう言った。

 信号が青になる。二人は深刻そうな顔をして黙々と歩いていく。街の騒々しさをこれほどまでにありがたいと思ったことはないだろう。これがもし本当に二人きりの状況であるならば、その沈黙に耐えかねて互いに要らないことを言ってしまいそうだった。


 ああ。

 浩は思う。

 これが一日抱えていた靄の正体だ。

 そしてその言葉を以て具現化したせいで歯止めが効かずにいる。まるで鉄砲玉だ。一度トリガーを引いたら最後、深く血肉を抉ってゆく。やり直しも制止も効かない。そんなものが、今、名前のない怪物となり眼前の『かみさま』を喰らっている。


「――怖いのか」

 イリヤは尋ねた。「君は、俺と何かしら名前のある関係になるのが怖いんだ。違うかい」


「怖いよ」

 浩が言う。「すごく怖いよ。だって、俺に関わるといつも碌なことにならないじゃないか。この間だって、君は理不尽に人質にとられただろ。俺と関わるということはなんだ。現状から何かが変わることを、俺は心の底から怖いと思う。君は違うのか」


「なるほど、理解した。君はとても繊細なんだね」


 イリヤはそう言うと、ゆっくりと浩へと目線を落とした。彼のガラス玉を連想させる透けた眼球がこちらを見下ろしている。浩は思わずきゅっと喉元が締まる思いがした。


「そしてとても不器用だ」

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