Bullet (8) 名前をつけて
***
さて、数十分ほど電車に揺られ、イリヤ宅の最寄り駅まで到着した両名である。
改札を抜けたところで、
「君、明日はなにか予定があるのかい」
とイリヤが口を開いた。
「休みだ」
自分でも忘れそうになるが、これでも一応大型案件を回した直後なのである。今日相良と打ち合わせをしたのはほんのたまたまで、それを除けば来週までは休むつもりでいた。浩は短くそう答えると、
「荷物を受け取ったら帰る」
と付け加えておいた。
「ふうん、そう」
イリヤは気のない返事をし、すたすたと先に歩いて行ってしまう。
自分も相当面倒な性格をしていると思うが、イリヤも大概である。自分から聞いておいてその態度はないだろう。浩は微かに眉間に皺を寄せた。
互いに言葉を交わさぬまま表通りの喫茶店を通り過ぎ、イリヤ宅までやってきた。時刻は二一時を回っている。自宅のある横浜までは一時間もあれば到着するので、今から出ればじゅうぶん早い時間に帰宅できるだろう。浩はポケットから取り出した懐中時計に目を向け、ぼんやりとそんなことを考えた。
イリヤが上着のポケットから鍵を取り出し、玄関の戸を開ける。
「さて、と」
先にイリヤが部屋に上がり、靴を脱いだ。浩は荷物を受け取り次第すぐこの場を去るつもりでいたが、夜風が多いのほか寒かったので、靴は脱がずに玄関先まで上がることにした。音を立てぬよう玄関の戸をそっと締めると、背後からぬっと長い手が伸びる。
イリヤのものだった。その手は戸口の鍵に触れると半回転させ、かちゃん、と錠の落ちる音がした。
怪訝に思った浩がのろのろと手の伸びた方向へ目を向ける。
「失礼、」
はっとして目を見開いた次の瞬間には、既にその細い体躯は宙に浮いていた。イリヤが抱きかかえたのだと理解するにはさほど時間はかからない。
「いりっ――!」
「なんとなく、君が簡単にお持ち帰りされる理由が分かった気がする。変に無防備だし、何より身体が軽すぎる。これくらいなら大人ひとりで十分持ち歩ける範囲だ」
そんなことをぶつぶつ呟きつつ、イリヤはリビングのソファに浩を放り投げた。ひとりで使うには十分すぎるほどの大きさがあるそれに尻餅をつくような体勢で着地した浩は、
「何をするんだ、イリヤ・チャイカ!」
と思い切り凄んで見せた。
肝心のイリヤはというとすがすがしいほど爽やかににっこりと微笑み、浩が逃げないよう両腕でソファの背へ追いやる。
「ねえ、俺から荷物を受け取ったら帰るんだよね」
そしてイリヤは不思議なことを尋ねるのだ。この男はなにかを企んでいる。そう感じた浩は微かに警戒した素振りを見せつつ、「そう、だよ」と短く答える。
「じゃあ、返さない。返さないし、帰さない」
浩はイリヤが一瞬何を言っているのかが分からずに言葉を失った。が、数拍置いてようやく揚げ足を取られたのだと理解した。
どのタイミングだろうか。どの時点からこの男はそんなことを考えていたのだろう。
イリヤのまなこは淀んでいた。先ほど「本音だ」と言葉を紡いでいたときと同じ目をしている。つまりは池袋を歩いていた頃には既に――、
「君は意外とおばかちんだね」
浩の思考はそこで止まった。
「……はあ?」
「自分の胸に手を当ててみれば全部答えは出ているのに、わざと目を背けているのかい。ああ、ぼうっとするんだっけ? そりゃあぼうっとするだろうよ。君のそれ、どう考えても恋煩いってやつでしょ。だから荷物は返さない。返してやらない。君がちゃんと認めるまでは、君のことも帰さない」
なにか言いたいことはあるかい? とイリヤはここでようやく発言権を浩へ譲った。
「……、要するに、監禁する、と」
「結果的には、そうだね。全部君が悪い。君があんなことを言うから『神様』は『死神』に弄ばれたのかと思って、少し傷ついている」
「そういう責任転嫁は嫌いだ。例え『かみさま』でも、強引が過ぎるとばちが当たるよ」
そこまで言うと浩はじっと口を閉ざし、イリヤの淀んだまなこを眺めていた。どれくらい時間が経っただろう、突然浩が小さくため息をつき、右足をぶらつかせる。
「靴、脱がせて」
「なんなのそのため息は」
「諦めた。もう帰らない」
というより帰れないんでしょ、と浩は吐き捨てるようにして言った。「本国でも室内で靴は履かないだろ。いいよ、脱がせてあげる。喜びなよ。君は尽くすことに喜びを感じる――って、さっき言っていたものね」
そしてくすくすと上品に笑う。言っている内容が凄まじくひどいのに、その笑みだけ見たらまるで花を慈しむかのような不思議な優雅さがあった。
「光栄だ。君は女王様かな」
いいよ、とイリヤが一旦手を離し、浩の前に膝をつき腰を落とした。よく磨かれた質のいい革靴に両手で触れたところで、
「教えて。イリヤ・チャイカ」
浩がぽつりと呟く。イリヤがその真意を確かめるべく瞼を持ち上げると、先ほどまで笑っていた浩の顔から表情が失われていた。彼が愛する人形のように、虚無のようなものがこちらを見つめ、そして追視する。
「君と名前のある関係になるのが怖かったけれど、もう腹を括ることにした。でも、さっき言った通り、俺は君の好意の受け取り方が分からない。どうしたらいいか教えてくれる?」
己の言葉から徐々に感情が失われてゆくのを感じた。
否、と浩は思う。感情を失うのではない。もともと自分の中に存在することのない感情を構築しようとしている最中なのだ。
「俺は君の望む姿になるよ。何者にもなれる。兄弟でも恋人でも師弟でも。君が名付けた関係になろう」
「――、」
「それと、誤解しないでほしいのだけれど。俺、そういうはしたないことは嫌いじゃないよ。日本人の全てが清楚で可憐だと思ったら大間違いだ」
だから名前をつけて、イリヤ・チャイカ。今すぐだ。
浩はそこまで口にすると、ぷいとそっぽを向いた。右足が構って欲しそうに数回動いたものだから、イリヤは思わず破顔して言う。
「それじゃあ――」
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