第十四章 Pray (4)
***
イリヤが風呂から戻ると、先ほどまでリビングにいたはずのヒロの姿がなかった。
夕食を摂った後は、確かに好きに過ごそうとは言ったが。だからといって勝手にあちこち動き回られても困るのである。なにせここは山の中。主に野生の動物等、普段あまりお目にかからない種類の危険だってあるだろう。冬だから安全だとは言い切れまい。
彼のことだからそう遠くには行っていないとは思うのだが。
ふむ、とイリヤは首を傾げつつ、リビングの広い窓を開け放つ。
すると、すぐにウッドデッキの上で浩の姿を確認した。彼は先週から少し学習したらしい。きちんと上着を羽織った状態でキャンプ用の椅子に腰かけ、ぼんやりと宙を仰いでいる。その手には湯気の立ち上るカップが握られていた。
「ヒロ」
そう声をかけられてはじめて、ヒロはイリヤの姿に気づいたようだった。その瞳がイリヤの姿を捉えると、微かに頬を緩ませた。
「何をしているんだい」
イリヤが靴を履きヒロの隣までやってくると、ヒロは囁くような声色で楽しそうに言う。
「星を眺めていた」
「星?」
「うん」
見て、と浩が天を指さし、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。「あれがオリオン座。その少し上にあるのがふたご座」
「ああ、本当だ」
まばゆい星が肉眼でも十分に見えるほど、あたりは漆黒の闇に包まれていた。満天の星とはよく言ったもの。普段街中で暮らしている二人にとって、天然の星空はとても新鮮に見えた。まるで氷の粒が光を纏いながらちらつくように、幾億の星がこちらへ向けて柔らかな光を放つ。
イリヤがへえ、と宙を仰ぐと、
「その下はこいぬ座だね」
と呟いた。
それを耳にし瞠目したのはヒロのほうだった。彼は心底意外そうに、
「驚いた。君が星座をちゃんと覚えているだなんて思わなかったよ」
「あのねぇ。全部君が教えてくれたんだろ」
イリヤは呆れ混じりに渋い声を洩らす。「出会ってすぐの頃、ニホンで見える星はこれだ、俺をものにしたいなら全部覚えろ――と理不尽なことを言って。まあ確かに、あの時はイケブクロのプラネタリウムだったけれど」
浩はきょとんとし、ややあって呆けた調子でイリヤへ目を向けた。
「覚えていたんだ」
「忘れるはずがないよ。あの場所は初めて誘ってもらった場所なんだから」
どれだけ嬉しかったか君には想像がつかないだろう。イリヤはそう言うと、再び宙を仰ぐ。唇からこぼれるは日本で知った歌だ。かつての文豪が作詞作曲したのだと言って、これもヒロから叩き込まれたものだ。ヒロが読書家であることもこのとき初めて知った。時々彼の言葉の選びかたが仰々しくなるのは、そういうところから日本語を覚えたからかもしれない、と。彼の生い立ちが垣間見えたようで、イリヤはとても嬉しかったのを覚えている。
「いい歌だ」
君のそういうまめなところは嫌いじゃないよ、とヒロは笑い、手にしていたカップをイリヤへ渡した。ほんのりと熱を持つカップには温かな紅茶が半分ほど注がれている。縁が濡れているので、少しは口に含んだように見受けられた。
「君こそ珍しいね。君はこういう、いかにもアウトドアなことをする人じゃないだろ」
「ああ、うん。目がちょっと」
ヒロはそう言うと、左の人差し指で己の眼球を指して言う。「最近疲れやすいんだよ。それで目を休めようと思って。今日は珍しく運転したりしたから、目に入る情報量が多かったのかな。前は平気だったんだけど」
それを耳にしたイリヤははっとする。その症状そのものにはとても身に覚えがあったからだ。イリヤ自身今の見え方になってからというもの、少し目を酷使すると頭痛がしたりと身体にそれなりの症状が出ることがあった。イリヤが知る限り、ヒロがそういうことを申告したのはこれが初めてだった。
「加齢かなぁ。ま、俺だってもう若くないしね」
ヒロはそう言ってけろっとしているけれど、口にしないだけで不安に思っているのではないか。というよりも、不安に感じたのはイリヤのほうだったのかもしれない。ただでさえ彼は自分の身体のことについてはあまり興味を持とうとしない。誰かがちゃんと見てやらないと、いつか彼はいとも容易くその身を亡ぼすだろう。
イリヤは少し厳しい声色で、
「ヒロ。そういう異変はすぐに言わないとだめだよ」
「うん? うん。だから今言ったんだよ」
君の咳に比べたら大したことないよ、とヒロは淡々とした調子で返す。
「――ねぇイリヤ。今日、しようか」
そしてなにやら突拍子もないことを口にし始めた。
何を、と言わずとも答えが分かってしまうのがまた嫌なところである。イリヤはぐっと胸にくるものを無理やり腹の中にねじ込むと、
「いいけど、……本当にどうしたの」
とだけ一応確認しておくことにした。
「今日ひさしぶりに『かみさま』の姿を見たから、ちょっとやる気が出た」
「ああ、そう……」
相変わらず色気もなにもあったものではない。少し気まずくて目を逸らすと、
「イリユーシャ」
ヒロがその名を大事そうに呼んだ。「そのとき、もう一度呼んでくれるかい」
「ん?」
「ツィーリャ、って」
ぴたりとイリヤが口を止め、それから微かに瞠目して見せる。その愛称はロシア人ならば正式な名くらいいとも容易く想像できてしまうものだ。しかし、彼はそれをなぜ「もう一度」だなんて言い方をしているのだろう。
「俺、そんな風に呼んだ?」
「呼んだよ。『かみさま』が降りていたときに」
まったく覚えていなかったので、口元に手を当てながら昼間のことをじっと回想するイリヤである。それでも本当に思い出せなかったことをヒロはすぐに察したようで、
「まあ、多分そうだろうとは思ったけど」
と呆れ口調で返す。「俺は君のことを時々愛称で呼ぶけれど、君は俺のことをそうは呼ばないだろ。俺も呼ばれてみたい。だからいっそのことそれでもいいかと思って」
「それは、君が嫌だろう?」
「思い出にしたいんだよ」
ヒロはぴしゃりと言った。「君との思い出にしておきたいんだ。ずっと覚えておきたいんだよ、君のこと」
イリヤは何も言わなかった。その代わりにぐいとヒロの腕を掴むと、強引にその唇を奪った。
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