第十四章 Pray (3)

***


 しばらく車を走らせたところで、ようやく借りたペンションに到着した。深い森の中にぽつんと佇む平屋に、広いウッドデッキが備え付けられている。夏場であれば外でバーベキューを楽しむ人もいるとのことだが、

「ま、冬だしね」

 とイリヤはからっとした調子で言った。


 イリヤによると、同じオーナーが運営するペンションは近くにも何軒か存在するのだが、少し距離が離れているのであまり人目につかないそうである。人里離れた山奥という環境であるため、画家が数か月貸し切って作業場とすることもあるらしい。


「へえ」


 浩は荷物を降ろしながら相槌を打つ。それを聞いてなんとなく理解した。おそらくイリヤも作業場として借用したことがあるのだろう。今は自分のアトリエで作業することのほうが圧倒的に多いが、少し前は作業場を転々としていたと聞いたことがあった。


「と、いうわけで」

 イリヤがぽんと浩の肩を叩いた。「ちょっと付き合ってよ」



 ――その一時間後。昼食を摂ったのち、浩はひとり椅子に座らされることとなった。薪ストーブが焚かれているくらいで、その部屋にはなにもない。広い室内に、まるで己だけが飾られているかのような。そんな居心地の悪さを胸に、浩は「……ちょっと恥ずかしいな」とだけ呟いた。


 イリヤは荷物の中に忍ばせておいたイーゼルを立てつつ、微かに苦笑して見せる。


「照れているとそのまま描いちゃうから、描いてほしい表情でいてくれるかい」


 その一言を聞くや否や、浩は瞬時にいつもの怜悧な表情に戻った。


「うん。かっこいいよ。素敵だ」

「イリヤ、俺のこと莫迦にしているでしょう」

「してないよ。全然」


 よし、とイリヤは気合の一言を口にすると、鉛筆が入っている缶を開け、カッターで芯の部分を広く削り始める。


 ――君の絵を描こうと思うんだけど。


 イリヤがそう言いだした時はとても驚いたが、同時になんとも言えない気持ちになった。今年の春、確かに「自分の絵を描いてほしい」とは言ったものの、いざそれが現実のものとなると戸惑ってしまうものだ。


 一三年前にサンクトペテルブルクのアトリエで彼と対峙したときは、一体どんな顔をしていただろうか。


 浩はそう思いながら、のろのろとイリヤへ向けて瞼を押し開ける。

 既にイリヤはに足を踏み入れていた。下界の言葉など決して耳に入らない。そこにあるのはただひとつ、彼の中にある芸術とだけ繰り広げられる『対話』のみだ。


 あの七日間と比べると、彼は随分変わってしまった。当時はこれほどまでに人間離れした気配を背負いながら筆――今日は鉛筆だが――を走らせたりしなかった。それはまだ彼が『選ばれた子供』としての才を開花させる前だったからかもしれない。


 それでも、だ。

 あの日、人相を失った人々の中、初めて出会った『かみさま』。自分の目で初めて認識できた人。憧れていたものが眼前に迫り来るようで、浩は思わず胸が詰まるような思いがした。


 ――ねえ、イリヤ。俺は驚いたんだよ。


 胸の内でそっと呼びかける。


 ――一三年前も、日本で再会したときも。こんなに綺麗なひとがいるだなんて知らなかったから。


 彼があの日と同じようにこちらを見据え、ただひたすらに手を動かしている。耳に聞こえるは微かな息遣いと薪が爆ぜる音、それから紙を滑る鉛筆の乾いた音だけだ。


 ――


 浩はきゅっと目を細める。

 すると、睫毛が微かに震えたのをイリヤがすぐに気づいたらしい。


Циляツィーリャ

 彼は一言、そのように呼びかけた。「Что случилосьどうしたの?」


 浩はどきりとして、思わずイリヤへ目を向ける。彼の身にはまだ『神様』が降りてきているらしかった。今の彼の目には、己の姿は『松籟浩』としては映っていないのだろう。


 初めて呼ばれたその愛称を胸の内で何度か反芻し、浩はゆっくりと口を開いた。


Ничего平気だよ.」


 イリヤは小さく頷くと、再び眼前のスケッチブックに目を向ける。彼は数回咳をし、苦しそうに眉間に皺を寄せた。浩は席を立とうとしたが、イリヤの鋭い眼光が浩の身体の動きを引き止める。


 動くなと暗に言われた気がして、浩は身体を硬直させた。

 そうしているうちに落ち着いたのか、数回喘鳴混じりの息を吐きながらイリヤは再び鉛筆を動かし始める。


 ああ。浩は思う。


 どうか、このままで。

 どうかこのまま、ゆるやかに時が止まってしまえばいいのに。


 呪いにも似た祈りを胸に、浩はゆっくりと息をついた。

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