第十四章 Pray (5)※
***
――不安なんだよ。
己の腕の中、焦点の合わないまなこがぼんやりとこちらを仰いでいる。
嬌声。熱っぽい息。ひとりの男に休みなく喘がされて、組み敷かれたままの彼はからからに乾いた喉からようやくその声を絞り出した。
――君がいなくなるかもしれないって。そう思ったら、不安でたまらなくなる。
――いなくならないよ。約束しただろ。
そうなだめるように声をかけると、瞬時に彼は反論するのだ。
――嘘だ。気づかないうちに、お前はいなくなる。
そんな子供のような駄々をこねたことなど、未だかつてあったろうか。
そういえば互いに意識を保ったまま身体を重ねたことなど、そもそも数えられるくらいしかなかったかもしれない。じっと思案していると、続けざまに彼はこう言うのだ。
――俺が、女だったらよかったのに。そうしたら、君とのこの行為も無駄じゃなくなる。なにか残せるかもしれない。俺たちとの間には、そういう、明確に形に残るものがない。
――形が欲しいのかい。
尋ねると、彼は首を横に振る。
――欲しいよ。絶対的に繋ぎ止める、
そう言うと、彼は自分の胸の前で右手をかざして見せる。その薬指には、彼が気に入っていると言っていたリングの片割れがすっぽりと収まっていた。明かりもなにもない暗がりで、ただ鈍い金属の艶みたいなものが視界をちらついている。
――どうしてだろう、イリユーシャ。前はそんな風に思わなかった。こんなことを言って、君を困らせることなどなかったのに。怖いんだ。怖くてたまらない。
――困ってないよ。大丈夫。
そう言うと、ぐりと最奥の方までねじ込む。熱のこもる背中に彼の両手が触れ、爪で薄い皮膚を引っかかれた。甘い痛みにきゅっと瞼を細める。痛みが心地よくなるまで、じっと声を殺した。
――……っ、それを聞いて、安心したと言ったら、君は怒るだろうか。
妙な熱に浮かされてぼんやりした表情のまま、彼はのろのろと瞼を押し開ける。何を言っているのか分からない。言葉にせずとも、そんな心境がありありと浮かんでいる。
――君に一番あげたかったもの、ちゃんと、君に、届いていた。今それが分かった。
――イリ……っ?
安心させるように、強く抱きしめる。背のほうで足がばたつき腰を打ったけれど、次に押し寄せた波のようなものを受け止めた瞬間、微かに痙攣し、そして静かになる。
鎖骨のあたりに噛みついてまだ息を荒げている彼は、下腹部のべたつきに小さく舌打ちしていた。
――
――……、
――無駄じゃない。生物学的には無駄かもしれないけれど、君と俺との間に限っては、無駄じゃない。
はっきりとそう言い切ると、きつく抱きしめた肢体をそっと湿ったシーツの上に横たえた。ぽたりと、額から汗が零れ落ちる。瞬時に冷えて、それは氷のように冷たくなった。
――一度愛された経験のあるひとじゃないと、そういうこと、言わない。そういうこと、考えない。だから無駄じゃない。
ヒロ、と怒声にも似た声を吐き出す。まだ身体のあちこちが痙攣したまま泣きそうな顔をしている彼が、焦げ付いた思考の中でなにかをしきりに訴えていた。
一度大きく咳き込み、唇からこぼれた唾液を左手の甲で拭う。
――ちゃんと受け取ってもらえてよかった。愛している。ヒロ、誰よりも愛している。だからこれは決して徒労なんかじゃない。怖がらなくていい。
いりや、と壊れそうな声が耳に届く。
できるだけ優しく笑おうと思ったのだが、どうだろう。ちゃんと笑えただろうか。
――ここにいる。ちゃんと、その目で見ていて。
刹那、つうっと、彼の目から涙の筋が零れ落ちて行った。
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