第十章 Jewelfish(6) 引き際

 そんなことを考えていると、イリヤが浩の耳元で「彼はなんて?」と問いかけた。鵜沢の話を簡単に通訳してやると、イリヤはからっとした調子でこのように返した。


「ワカリマシタ。オネガイシマス」


 耳を疑った。

 思わずがばりと身を翻すと、浩は早口でまくしたてる。


「イリヤ? 何を言っているんだ。ちょっと黙って」

「黙ったほうがいいのは君だよ、ヒロ。君はこの件に首を突っ込みすぎだ」


 君が考えていることは手に取るように分かるよ、とイリヤは鋭い口調で返した。


「それでもここは警察に任せるべきだと、俺は思うね」


 しかし、と浩はすかさず反論する。そんなことをしたら分かるものも分からなくなってしまう。『合成エメラルド』の件も『白梅』盗難の件も、今眼前で「捕まえてください」と言わんばかりにのだ。


 そんな浩の言葉を、イリヤは冷たく遮る。


「君の悪い癖だ。別に俺はこの件が『パイデス』と関わりがあろうがなかろうが心底どうでもいいんだよ。俺はただ平穏に暮らしたい。物事を蒸し返すつもりはない」

「だったら、今他の誰かが同じ目に遭っていたとしても君は放っておけるのかい」


「論点を履き違えるな、ヒロ」

 イリヤはぴしゃりと吐き捨てた。「君が今やるべきことじゃないと言っているんだ。君の仕事はあくまで『美術品の保全』であって、バイネームで誰かを貶めることじゃない。君は十分に役割を全うしたから手を引けと言っている。俺は何か間違ったことを言っているだろうか。これ以上に筋が通ったことを君が説明できるのなら聞いてあげる。さあ、言ってごらん」


 目の前で何やら口論が始まったものだから、鵜沢も相良もぽかんとして固まっている。


 浩は今にも噛みつきそうなほど怒っていた。しかし、最終的に反論する余地がないと思ったのだろう。一度口を閉ざしたかと思えば、微かに額に浮かぶ汗を左手で拭った。


「……すみません、お見苦しいところを。鵜沢さん、お願いできますか」

 浩は絞り出すような声で伝えた。「さきほどもお伝えした通り、もともと一五時から一時間ほど彼と会う予定を組んでいました。その機会に乗じて指定の場所へ向かえば、遠坂とも会えるでしょう」


 ええ、と鵜沢は頷き席を立つ。そして浩の傍までやってくると、彼は深々と浩へ頭を下げた。面食らったのは浩のほうである。何が起こったのか分からずに思わず言葉を失っていると、


「松籟さん、本当にありがとうございました。あとは我々にお任せください」


 彼ははっきりとした口調で言った。

 瞠目した浩がつい「Да ты чтоなんだって……」と本音を漏らすくらいには衝撃的な出来事だった。というのも、浩は十年近くこの仕事に就いているが、こんな風な態度をとられることなど一度もなかったのである。


「さすが相良さんが紹介してくれただけある。とても勉強になりました」


 こんなとき、日本語ではどういう表現をするんだったか。

 浩は戸惑いながらも「顔を上げてください」と伝えると、それから、自分でも驚くほど穏やかな口ぶりでこう言うのだった。


「いい結果が得られることを期待しています。なにかあったら、また連絡をください」


***


 鵜沢が諸々の手配のために動き始める。そんな姿を横目に、浩はイリヤへ声をかけた。


「君の言うことはもっともだと思うけれど、これで例の『合成エメラルド』の件を調べる手立てもなくなった。どう落とし前をつけてくれるんだ。ねえ、イリヤ」


 イリヤは小さく肩を竦めると、――浩の言葉を無視した。彼は代わりに相良へ声をかけ、同時に席を立とうとした浩の両肩を押さえつけその場にとどまらせる。


「ああ、やっぱりそうだったか。サガラ、悪いけどタクシーを一台呼んでくれるかい。ヒロが

「分かった。少し待っていてくれるかい」


 ――なんだ、今のやり取りは。

 浩は二人が示し合わせたかのような行動を取ったことに対し、思わず怪訝な顔をした。

 そんなはずあるか。浩は胸の内で思う。今の今まで元気に動いていたのに、何故そんなことを言われなければいけないのか。


 浩が口を開け文句を言おうとしたが、――ややあって、ぴたりと唇の動きが止まる。

 このとき初めて自分がということを自覚した。確かに文句を言ってやろうと思ったのだが、言葉が出てこない。本国の言葉と日本語が混ざり合い、どちらがどちらなのかまるで判別がつかなくなっている。あまり意識していなかったが、今まで自分はどちらを使って話していただろう。


 そういえば、先ほどから何かを考えるたびに一度思考が停止している気がする。


「君ね、いつにも増して引き際が分からなくなっているときは大抵体調を崩しているだろ。頼むから大人しくして」

 イリヤはため息混じりに言った。「今回は俺が止めたけれど、俺でなければサガラが止めていたよ。いずれにせよ今日の君はだめだ。全部あとで考えなさい。それで手遅れになることはないから」


 昨日頭を乾かさずに長時間話し込んだからいけなかったろうか。彼はそんなことを呟きながら、浩が抵抗しないよう両肩を押さえている。


Плохоひどい……」

「それはこっちの台詞だってば。さっきから君、自分が話せる言語すべてを混ぜて喋っていることは自覚ある? 何を言っているかさっぱり分からないんだけど。せめてどれかひとつにしてくれ」


 手のかかる子だよ本当、とぼやいたところで、相良が「あと十分待ってくれるかい」と言いながら戻って来た。

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