第十一章 Fever(2018/10/28)

第十一章 Fever(1) パートナーらしいこと

 病院に着いた頃には体温が四十度近くまで上がり、点滴を打ったのち強制的に自宅へ送還されたヒロである。


 感冒だということではあったが、昨日の電話での内容によればどうやら暑い中外を歩き回っていたようなので、その影響も少なからず受けているのではないか、とイリヤは思う。いかんせん彼も己も元は寒い国の生まれだ。長く日本に住んで多少身体が慣れてきた――と思いたいが、ちょうど先週も暑さでぐったりしていた覚えがあるので、それは正直無理な話であった。


 さて、マンションのエントランス前までタクシーで乗り付けたはいいが、ここからが問題である。


 イリヤがヒロに歩けるか尋ねたところ、半ば死んだような返事をしてきた。というよりも、何語で返事をされたのかよく分からなかった。得意不得意はあるものの、伊達に何か国語もマスターする男ではないということだろうか。文法すら無視した滅茶苦茶な日本語だということだけを理解したイリヤは、運賃を支払いながら嘆息を洩らす。


「失礼」


 そして仕方なしにヒロの身体を横抱きにすると、タクシーを降りた。


 自室内の短距離なら何度となく担いだことはあるけれど、エレベーターを含めた自宅までの数十メートルという距離はさすがに挑んだことがない。彼の身体は確かに細いし軽いけれど、ずっと持っていられるほどではない。


 イリヤがエレベーターに乗り込み戸を閉めたところで、ヒロはイリヤの鎖骨のあたりに汗ばんだ額を乗せ、微かに呻いた。


「はいはい、もう少しで着くからちょっと我慢してね」


 もう彼が何を言っているのか皆目見当もつかないので適当に返事しておくことにしたイリヤである。


「それと、それ以上重たくならないでね。結構腰にくるんだよ、横抱きって……」


 そしてついでと言わんばかりに、どうせ覚えていないだろうと踏んで、少々失礼且つ無茶なお願いをしてみた。


 そんなこんなでようやく自宅に到着し、ヒロの身体を落とさないようにしながらイリヤは戸を開ける。


 そのまま彼をヒロの私室に運ぼうとしたイリヤだが、少し考えて、やっぱりやめた。経験上、熱を出したヒロは放っておくと何をしでかすか分からない。目を離した隙に突拍子もないことをされても困る。それであれば初めから自分の寝室に連れ込んでおいたほうがある意味安全である。そんな理由から、自分の寝室に連れて行くことにした。


 ベッドの上にヒロの身体を降ろすと、引き出しから着替えを出してきた。履きっぱなしになっていた靴を脱がせ、汚さぬようとりあえず底が上になるように床に置く。


「ヒロ。こっちに着替えて横になって。脱げる?」


 尋ねるも、ヒロの反応がない。ぼうっとしたまま正面を見つめ、ややあって小さく首を傾げて見せた。


「……分かった。大人しく両手を上げるんだ。ほら、ばんざーい」


 完全に子供相手の所業である。するとようやくヒロが口を開き、怪訝な顔をしながらイリヤへ話しかけた。


「裏? 何を裏返せって……? 意味が分からない、莫迦じゃないの」


 ようやくイリヤが聞き取れるロシア語が聞こえてきた。ここまでがとてつもなく長かった気がする。つまりは少しだけ熱が下がってきたということだろう。


 ほっと肩をなで下ろしつつ、


「ヒロ、Uraじゃない。万歳ypaだってば。そういう高度な聞き間違いしないでくれる」


 病人相手に思わず本気でツッコミを入れてしまうイリヤだった。


「もういいや。せめて大人しくしていて」


 このままでは埒が明かないのでイリヤは適当に彼の服を引っぺがし、寝るときに着ている薄手のシャツに着替えさせた。そしてヒロの身体をベッドの中に押し込むと、


「冷却シート持ってくるから、大人しく横になっているんだよ。いいね」


 とまるで子供に言い聞かせるようにして寝室を出た。


 ――まったく、手のかかる子である。

 とは思いつつ、通常時のヒロをここまで甘やかすことなどない。本人がそうさせてくれないからだ。そんな訳で、今のイリヤは不謹慎ながら少し楽しくもあるのだ。少しくらいはパートナーらしいことをしてあげたいという、ささやかな願望のようなものでもあった。


 脱がした靴を玄関に戻し洗濯物を脱衣場に持って行くと、冷蔵庫から買いだめしてある冷却シート、それから常温保存していた水を小さい水筒に入れて寝室に戻る。


 さすがに一度身体を横たえてしまえば動き回る気も起きなくなるようで、ヒロはぼうっと天井の一点を見つめている。

 額に冷却シートを貼ってやると、冷たさに驚いたのかぴくりと睫毛が震えた。


「ありがとう」


 ヒロはぽつりと呟くと、力の抜けた笑みを浮かべる。


「少し眠りなよ」

 ここに水を置くよ、とイリヤは枕元に水筒を立てて置いた。「そうでなければ、なにか持ってこようか。どうする?」


 ヒロはしばらく口を閉ざし、ゆっくりと考え事を始めた。ややあって「それ、貸して」とイリヤの着ていたボートネックのカットソーを掴む。


 事の真意が分からずに、思わずイリヤはうん? と首を傾げる。


「もう着替えたいの? 新しいの持ってくるよ」


 そう尋ねると。ヒロは「そうじゃない」と妙にはっきりとした口調で言った。


「脱いで、って言っている」

「……、お、おう」


 言われるがままにカットソーを脱ぐと、ヒロは手を伸ばしそれを手繰り寄せる。胸の前でぎゅっと抱きしめると、


「ちょっと借りる……」


 その言葉を言い終わる前にすうっと瞼を閉じ、そのまま眠りについてしまった。

 新手の追い剥ぎに遭ったイリヤはぽかんとしたままヒロの寝顔を見下ろしていたが、しばらくして寒くなってきた。

 引き出しから別のシャツを出し、袖を通す。


 彼が満足ならそれでいいのだ、それで。彼が本人を目の前にして自分を連想するものに夢中になるのはいつものこと。もうひとりの『イリユーシャ』然り。


 しかし、だ。


「……匂いのするものが欲しいなら添い寝くらいするっての」


 とぼやかずにはいられないイリヤであった。

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