第八章 Phantom(7) ※『彼女』の残像
***
次に目を覚ました時、イリヤは布団の中にいた。
カーテンも開けっ放しだったので、朝日が生きとし生けるものを焼き殺さんとばかりに室内を照らしている。今日も随分と暑そうだな、とイリヤは思う。
そのままぼうっとしていると、右隣に自分のものではないぬくもりがあることに気が付いた。
「ん」
のろのろと目を向けると、ヒロが仰向けの状態で熟睡している。毎度のことながら、彼の寝姿は死体のようである。よくよく観察して、微かに胸のあたりが上下するのを見て、それでやっと「生きている」と判別するくらいにはぴくりとも動かない。
少なくともそういう寝相がイリヤの需要を完璧に満たしていた。最近訳あって頻度は減ったけれど、わざわざ睡眠薬を服用させた上で事に及んでいるくらいにはときめきを覚える姿だった。
とはいえ、昨日の今日ではそんな気も起きない。ぼうっとヒロの寝顔を眺め、それからイリヤは己の瞼に手をやった。
――はっきり言って、目に毒である。
罪作りなやつめ。イリヤは思いながら、ゆっくりと上体を起こす。そういえば彼はウイッグをいつの間に外したのだろう。辺りを見回したところ、ベッド裏にこっそり隠してあった。さすがに睡眠をとるには邪魔だったらしい。
本当に彼には驚かされることばかりだ。行動を共にするようになってからもう六年――否、もうすぐ七年目を迎えるというのに、まだまだ新しい顔をたくさん見せてくれる。昨日の『彼女』の姿だって、『イスタニア・コレクション』の件がなければ知ることすらなかったろう。
「――、」
脳裏に焼き付くは、『彼女』の残像。
あれが最後だと彼は言った。確かに『彼女』の名は既に捨てたものだし、何よりその姿を求めることは彼の傷をじわじわと痛めつけているだけに過ぎない。
それゆえの『思い出』なのだと、イリヤは改めて思う。
「――さようなら。ツェツィーリヤ」
ありがとう、と。
そう呟いたとき、もぞりとヒロの身体が動いた。インクルージョンの少ない宝石のような瞳がのろのろと開かれ、焦点の合わないまなざしが宙を仰ぐ。
「あれ、早いね……。もう起きたの?」
おはよう、とヒロが掠れた声で呟いた。
「おはよう。もう少し眠っていてもいいよ」
そう言うと、ヒロは前髪を掻き上げながら上体を起こす。
「腰痛い。イリヤ、覚えていろ。あとで殴る」
「ええ、俺のせいなの? それ」
なんでも人のせいにするのはよくないよ、とイリヤは口を尖らせた。
「別に今日も予定はないからいいけどさ。ああ、だめだ。これは多分しばらく歩けないやつだ。今日は寝ていることにする」
そう言うとヒロは再び布団の中に身を投じる。だらけた生活を送れるのは今のうちだけ。そういう意味では、別に一日布団でごろごろしていてもいい気がする。何しろ、外は暑いのだ。涼しいところで大人しくするのも悪くないだろう。
「イリヤ」
そうしてから、ヒロはその名を呼んだ。なんだい、とイリヤが答えると、ヒロは抑揚のない口調でこのように言う。
「いい夢、見られたかな」
イリヤは暫しの逡巡ののち、
「うん。とても幸せな夢だった」
と答えた。
「それはよかった。無理した甲斐があったよ、本当。もうやらない。年齢的に厳しい」
ヒロはひらひらと片手を振り、うつ伏せの状態で野垂れている。イリヤはそんな彼の髪を撫で、苦笑交じりに言った。
「――ヒロ、ありがとう。あのね、ちゃんと自分の口で説明できるようにするから……、少しだけ、待っていてくれるかい」
ぴくりとヒロの肩が震える。彼は決してイリヤへ目線を向けることはなかったが、その代わり、いつも通りの淡泊な口調でこのように答えた。
「……うん、待つよ。君が言いたくなったら、そのときは教えてね」
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