第九章 Dual(2017/9/24)
第九章 Dual(1) ※ 忘れ物
長いバカンスも明けた九月中頃。イリヤが寝ぼけ眼を擦りつつ寝室を出ると、浩が妙に急いだ様子で外出準備をしていた。
焼いただけで何も塗っていないトーストをかじりつつ、カッターシャツは羽織っただけ。一日分の着替えを仕事用の鞄に放り込み、ようやくトーストを全て腹の中に収めると、開けたままにしていたシャツのボタンを留め始める。
普段ながらでそういうことをしない浩である。世にも珍しい『慌てた様子の松籟浩』を眺めつつ、なるほどこれは緊急のお呼びだしだなとイリヤは思った。
その時、浩の目がようやくイリヤを捉えたらしい。はっとした様子で浩は動きを止め、早口でまくしたてるように声を上げた。
「おはようイリヤ。ごめん、急な呼び出しで今から鎌倉に行ってくる。たぶん今日は帰れないと思う」
「え? ああ、うん。分かったよ……?」
鎌倉なら電車で一時間もあれば余裕で着くし、わざわざ泊まる必要はないのでは――と思うイリヤだが、そういうときに限って大事に巻き込まれ連泊になるのがお決まりのパターンである。ならば初めから泊まり覚悟でいたほうがよい、というのは実に賢明な判断だった。
「イリヤも今日は相良管轄の依頼を受ける予定だったでしょう。相良は俺と同行することになっている。代理を立てたから、彼と一緒に行動して」
「ああ、はい。分かった」
これが代理の名前だ、と浩はメモに名前と連絡先をメモし、それを呆けるイリヤの手に握らせる。
「待ち合わせ場所に変更はないよ。目印として胸元にウサギのピンを刺しているはずだから、探して」
浩の書いたメモに目を向けると、彼は相当急いでいたのだろう。漢字のみで名前らしきものが記されていた。人名にしては珍しい字面だったので、まったく読めなかったイリヤは思わず首を傾げる。
「読めないよ」
「
浩は言う。「相良直属の部下だ」
スリーピースのベストをしっかり着込むと、浩は仕事用に使っている鞄をひっつかむ。そのまま玄関へ向かおうとしたのだが、
「――、忘れ物した」
そう言いながらイリヤの元まで戻って来た。彼は怪訝な顔をしたイリヤの左頬にキスをひとつぶちかますと、
「俺がいない間に部屋を散らかしたらどうなるか分かっているよね」
「はい」
「明日のごみ出しお願い。いってきます」
そして吐き捨てるような冷たい声色で挨拶し、玄関を飛び出していった。
――まるで嵐のようだった。
ふんわりと漂う甘いすずらんの香りを感じつつ、ぽかんとしたままイリヤはその背中を見送る。それからため息まじりにのろのろと呟いた。
「あの子、慌てているときほど大胆になるよね……」
***
浩は電車を乗り継ぎ、鎌倉市某所のとある屋敷を訪れていた。
随分と立派な建物である。この辺りは昔ながらの建屋が多いと聞くが、なるほどこれは確かに風情のあるいい家だと浩は思う。
長々と続く塀を辿るように歩いていくと、路上駐車しているパトカーが数台あることに気がついた。
――まさか。
ものすごく嫌な予感がする。気のせいだと思いながら足を進めると、少し離れた門の前に相良が待機しているのが見えた。浩が遠目でも判別できるよう、彼はいつも胸元に魚の模様が入ったピンを刺している。それは今回も例外ではなかった。
「ああ、浩くん」
相良が浩の存在に気が付き、片手を挙げる。「急に呼びつけてごめんね。ちょっと急ぎの用で」
「構いませんよ。ええと、俺は何を鑑定すればよいのでしょう」
ちらりと浩は門の端にかけられた表札を見た。
「うん。事情は中で説明するね」
早速相良がインターフォンを押した。数拍置いて女性の声が聞こえ、相良がエレホンの使いであることを伝えると、門が勝手に開く。
ふたりが門を潜ると、よく手入れされた美しい日本庭園が広がっていた。ふむ、と浩は思う。昨日誰かが手入れしたばかりの状態に見えたのだ。専属の庭師でもいるのだろうか。これだけ広い庭なのに、作業に関わったのは一人きり。そのひとりによる癖が妙に気にかかる。それに、なんだかこの庭は変な感じがする。
いったいなんだろう、と考えていると、
「浩くん?」
相良に声をかけられるまで、浩はじっと庭園に目を向けていた。名を呼ばれたことでようやく我に返ると、先を行く相良のあとについていく。
さて、日本庭園の奥にはかなり大きな平屋の邸宅があった。正面から見て右側に細い渡り廊下があり、離れに繋がっている。さらに奥には、蔵、だろうか。決して大きくはないけれど、昔ながらの珍しいものがこの場所にはたくさんあった。
邸宅の戸口を開けると、この家の家政婦だという女性が対応してくれた。ふたり
は彼女に奥の客間へ通される。
だが、ようやく到着した客間を目の当たりにした刹那、彼らはその異様な光景に思わず息を飲んだ。
すでに大部分は片付けられているけれど、明らかにそこは事件現場だった。床には人を模した形に張られたテープ。数名の人間が動いているが、腕章を見る限り彼らは鑑識だろう。ちらりと浩は床に目をやり、血液が混じった唾液がしみを作っているのに気が付いた。
「……?」
それがあまりに不思議だったので、浩は思わず首を傾げてしまった。
そうしていると、奥にいたスーツを身にまとう男がこちらに気が付いた。彼は二人に会釈をし、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。
「相良さん、お久しぶりです。突然お呼びだてしてしまいすみません」
「
「ありがとうございます」
どうやら相良と彼は面識があるらしい。浩は例によって男の人相が判別できなかったので、突然目の前に現れた動くマネキンをぼんやりと眺めていた。
彼は相良と二言三言会話したのち、
「ところで、この方は?」
ようやく鵜沢と呼ばれた男が浩へ目を向けた。
「紹介するよ。彼が松籟浩くん。うちの秘蔵っ子だ」
どうも、と浩が適当に挨拶すると、鵜沢は声色を明るくして言った。
「ああ、あなたが。
「鵜沢くんは若いけれど優秀な刑事さんだよ。私の自慢の後輩だ」
後輩? 浩が首を傾げると、相良はからっとした調子で続ける。
「あれ、言わなかったかな。私は元々警官だったんだよ。身体を壊して辞めちゃったけど」
彼は最後に育てた子なんだ、と相良は鵜沢の肩を叩いた。
「今回は彼からのお願いでね。浩くん、ちょっと協力してもらえないだろうか」
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