第八章 Phantom(6) ※愛の幻影

 その時、ねえ、とイリヤが口を開いた。


「俺、画家は辞めたんだ」

「うん」

「今は贋作師をやっている」

「うん。知っている」

「――自信が、ないんだ」


 その言葉を聞いた彼女は、ぴたりと身体の動きを止めた。イリヤがどういう意図でそのようなことを言い始めたのか分からなかったからだ。イリヤはそんな彼女の様子が目に入っていないのか、今にも消え入りそうな声で呟いている。


「とても……、とても、自信がない。恐怖さえ感じる」


 彼女は柔らかな口調で問いかけた。


「それは、続けていくことが?」

「そうかもしれないし、違うかもしれない」

 君はそう思うことはない? とイリヤは尋ねた。「俺が一番恐れているのは、この『目』が元の状態に戻ること。今のパートナーと肩を並べていられるのは、この『目』があるからだ。だから、失うことを、ひどく恐れている」

「……」

「俺は、ずっと、ずぅっと、彼にとっての『神様』でいたい。憧れの存在でいたい」


 彼女はイリヤの言葉にじっと耳を傾け、それからひとつ息をついた。それから淡々とした口調で「イリヤ・レナートヴィチ・チャイカ」と彼の名を呼ぶ。


「私は、『松籟浩』は、あなたが芸事の神様でなくてもいいと思っている」

 握っていた手が微かに震えた。「『松籟浩』があなたを『かみさま』と呼ぶ意味と、周囲の人間が『神様』と呼ぶ意味はまったく違う。芸事の『神様』でなくても、あなたはずっと『かみさま』。その事実に偽りはないと、私は思う」


 どうしてそんなことを言い出したのかは分からないけれど、と彼女は前置きした上で、さらに続ける。


「あなたのパートナーならこう言うでしょう。――もしも君の『目』が見えなくなったとして、」

 そのときは、と彼女はやわらかく笑った。「『松籟浩おれ』が君の『目』になる。ただそれだけのことだよ……って」


 そうか、そうだね……とイリヤは呟き、それからゆっくりと身体を起こした。


「彼は優しいから、きっとそう言うことだろう」


 大事なことは本人に直接言ったほうがいいよ、おそらく彼はあなたの抱える不安の正体に薄々

 彼女はそう言ながら身体を反転させ、イリヤと向かい合うようにして座った。大きく開いたシャツの襟もとからキスマークのついた肌がちらついて見える。


「大事だから何度でも言うけれど――、の関係を、そこらに転がる性愛と一緒にするな」


 そして彼女はかなり強い口調で言い放った。


 ――その言葉に何度救われただろう。『彼』から繰り返し言われたその一言を改めて耳にしたら、なんだか胸の内がすっと晴れていくような気がした。


 今日は心を揺さぶられるようなことがたくさんあったから。それで、少し疲れてしまっていたのかもしれない。


 イリヤはその青みがかった灰色の瞳を細めつつ、右手で彼女の頬をそっと撫でた。まるで壊れ物に触れるかのように指を滑らせると、優しいすずらんの香りが鼻孔を掠めていく。


「ねえ、ツェツィーリヤ。俺、誕生日なんだ」

「知っている」

「ロシアの誕生日はね、本人が大切な人に祝ってもらう日じゃないんだ。本人が大切な人に感謝する日なの。もちろん君は知っていると思うけれど」


 イリヤがそう言うと、彼女はなんとなく彼が言わんとしていることを理解したらしい。なにかくれるの? とやけにさっぱりとした問いかけをした。


「お望みのものなら、なんでも」

「そう。……それじゃあ、」


 刹那、彼女の手がイリヤの胸元を掴んだ。はっと目を剥いたのもつかの間、次の瞬間には彼女の口腔がイリヤの唇を塞いでいる。子供でもできる触れるだけのキス。そっと口唇を離すと、彼女は掠れた声で囁いた。


「――『思い出』だけ貰っていくよ、イリヤ・レナートヴィチ・チャイカ。私のことは今夜だけのまぼろしだと思ってほしい。これは最初で最後。私はもう二度とあなたの前に現れない」

「随分眩しいまぼろしだね。目がくらみそうだ」

 イリヤは思わず苦笑する。「もう一度、してもいい? 今度は激しいやつ。君が忘れられなくなるくらいの」


 その言葉に、彼女は何を思ったのだろう。生気のないまなざしをイリヤへ向けたかと思えば、彼をそっけない態度で挑発した。


「君のパートナーが嫉妬するよ」

「どちらも君だ。どちらも愛せる」

「死体よりも?」

「もとより君は死体みたいなものだろう」


 そうだね、そうだった……と彼女はのろのろと呟き、瞼を閉じた。

 互いの呼吸を間近で感じながら暗がりに溶けてゆく。まぼろしが胸の内を焦がしていく痛みを覚えながら、イリヤは思考の一切を手放した。

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