第四章 Shot(6)その一撃

 その時だった。


「イリヤ・チャイカ」


 和やかに会話を繰り広げていた彼らの前に、妙に声の大きい男が姿を現した。始終穏やかな表情を浮かべていたイリヤの表情が瞬時に張りつめたものへと変わる。


 記憶によると、この男は確かエレホン幹部のひとりだったはずである。

 浩が微かに眉間に皺を寄せたので、イリヤはさりげなく彼を自分の背後に隠した。


「お久しぶりです」

「今年も君の働きにより十分すぎるほどの業績を上げられたよ。感謝する」


 ありがとうございます、とイリヤは返す。

 口ではそう言いつつも、自分の業績は浩と比べたら微々たるものだと胸の内で毒づいた。なにせ自分の時間当たりの基準単価は一〇万ルーブル。浩の三分の一程度しかないのだ。


「ところで、珍しい組み合わせだね」


 隠したつもりではあったが、幹部の男はしっかりと浩の存在に気づいていた。そして彼がどんな人物であるかも。男は浩を横目に、さっぱりとした口調でイリヤに言い放った。


「どこで知り合ったのかは分からないけれど、彼とはあまり仲良くしないほうがいい。それが君のためだ」


 ぶちん、とイリヤの脳裏で何かが切れた音がした。

 一応は理性を保ってはいるが、少しでも何かの衝撃を与えたら一瞬で壊れそうだとも思った。イリヤはじっと次に何を言うべきか思案し、――腹を括ることにする。本当はもっと上層部の人間に宣言するのがよいと思っていたが、この男が大声でそんなことを言ってくれたものだから、周囲の視線は十分に集めることができていた。


「……ああ、なるほど。彼の存在はエレホンに不要ということですか」


 イリヤは抑揚を殺した声で言った。

 次に続く言葉を口にすれば、世界が変わる。その一撃が最も効果的になる瞬間は今だということも理解している。


 もう後には戻らない。イリヤはその怜悧な眼差しをじっと眼前の男へ向けた。


 ――見ていて、ヒロ。『神様』にできないことはない。


「それじゃあ、俺に下さい」

「……はっ?」


 あまりにひどいイリヤの言い草に、幹部の男はおろか、周囲でそのやりとりを聞いていた人々、浩本人ですら瞠目している。


「彼は俺のパートナーだ。エレホン総合売上一位の彼と二位の俺が手を組めば、もっと収益をあげられる」

 それに、とイリヤは続ける。「彼の目はこんなところで飼い殺しにするべきものではありません。彼の能力を一〇〇パーセント使うには、彼にとって不要と思われる労力を可能な限り減らすべきと考えます。これはあくまで効率の話です」


 何を言っているんだ、と幹部の男が口を開く。


「いくら『神様』の名を欲しいままにする君でも、言っていいことと悪いことがある」


「エレホンが営利団体である以上どうしても金銭の話は絡むでしょう。彼という存在がどれだけこの団体に貢献しているか考えてみればいい。もしも希望が叶えられないと言うのなら、俺は彼と共にエレホンを脱退する。そうなった場合の損害がいくらになるのか、あなたが知らない訳がない」

 イリヤはきっぱりと言った。「年間三百億ルーブル。残る技術者だけでそれらを稼げるというなら話は別だ」


 そこまで吐き捨てた刹那、イリヤの言葉を黙って聞いていた浩が二人の間に割って入った。彼は右手で己の前髪を掻き上げ、生気のない目をじっと男に向ける。


 吸い込まれそうなほど美しいインクルージョンの少ない瞳。


 ぞっとするほど底のないまなざしが男の胸元を射抜く。そこには花をモチーフにしたブローチが付けられ、地味な衣装を華々しく飾っていた。


「……、なんだね」


 男の問いに、浩はゆっくりと口を開く。


「ラリックのブローチですか」


 ちらりと見ただけでそのように言ったものだから、男ははっと目を見開く。


「それがどうした」

「いいえ。とてもよい品ですね」


 そう言った浩が珍しく口元に笑みを湛えたものだから、イリヤはおや、と思う。その表情に妙な違和感があったためだ。


 浩が「前髪を上げた」状態で「微笑むこと」。数か月共に過ごして気づいたことだが、彼がこの表情を浮かべるときは、口からついて出た言葉とその真相は真逆になる傾向にある。


 それを思い出したイリヤは、浩がこれからなにをしでかそうとしているのかようやく理解できた。まったく血の気の多い男である。イリヤの知る日本人はもう少し大人しい印象だったはずなのだが。短気なのは自分ひとりだけでいい。


「ヒロ、この場でそれはまずい」


 小声でイリヤが制止しようとしたが、浩は聞かなかった。代わりに口を突いて出たのが、


「あなたにとてもお似合いな『偽物』だ」


 という決定的な一言だった。

 瞬時にその場が凍り付いた。幹部クラスの男がこれみよがしに身に着けている宝飾品がまさかの偽物。それはエレホンにおいては恥でしかない。


「な……でたらめを言うんじゃない。これは確かに、」


 男が一瞬慌てふためいたのを、浩は見逃さない。


「そんな雑な造りのものがラリックの仕事であるはずがないでしょう。あなた、本物を見たことがないのですね。お可哀想に」

 それよりも、と浩は続ける。「そのブローチは色々とまずい経路を辿ってあなたのもとまでやって来たようにお見受けする。その彫金の癖には心当たりがあります。今ここで作者の名を出すこともできますが、いかがなさいますか」


 たがが外れたかのように浩が唇を動かす。その場にいる誰もが、言葉の狂気を振りかざす彼の姿に目を奪われた。


 ここまで饒舌に話すところなど見たことがない。ただの、一度もだ。それはイリヤだけではなく、明らかに付き合いの長い相良ですらそう考えていたらしい。ぽかんとしたまま、浩の突きつける口上に聞き入るのみだ。


「ああ、言える訳ありませんね。なにせその人物は――」


 その時。男は近くのテーブルに置いてあった赤ワインのグラスを手に取り、それを浩に向けてひっかけた。


 ――この『死神』が。

 そんな呟きが聞こえた気がした。


 避ける間もなく真正面から赤ワインを被った浩は、ぽたぽたと滴り落ちる深紅の液体に臆することなく、じっと男へと目を向けている。

 あたりは水を打ったかのように静かになった。今この場にいる誰もの視線を一身に受け、浩は小さく舌打ちをする。


「不味い。安物の酒なんか出すんじゃないよ」


 その時だった。


「そこまでにしてくれないか」


 奥から手を叩く音がして、もう一人背の高い男が現れた。

 貴族だと言われてもおかしくない、典型的なテンプレートに則った出で立ちの男である。金髪碧眼、随分端正な顔立ちをした彼は、浩と幹部の男との間に割って入った。


「さすがにここでもめ事を起こされると困るんだよねぇ。あ、ミスタ・ショーライは久しぶり。僕のものでよければ予備の服があるから、あとで着替えてきなよ」


 そりゃあどうも、と浩が不愛想に返したものだから、イリヤがそっと浩に耳打ちする。


「知り合いかい?」

「……エレホン主宰、セシル・マッキントッシュ。俺の

「え、あの人が?」


 なんで君は肝心な人を知らないのさ、と今度は浩が頭を抱える羽目になった。

 それにしても、たかだか日本支部の小さな謝恩会にエレホンのトップが姿を現すなど想定外の事態である。会場の誰もがその存在を目の当たりにしうろたえる始末。まったく情けない、とイリヤは言葉にこそしなかったがそんなことを考えてしまった。


 さて、肝心のセシルは張り付いたニコニコ顔のまま、幹部の男に話しかけた。


「ミスタ・ショーライが言うことに誤りがあったことはないからね。ねえ君、ちょっとこっちに来て事情を説明してくれるかい。君のような人がいると、エレホンの品格が落ちるんだよね」


 それから、とセシルは浩、そしてイリヤに目を向ける。


「僕は一連の話を『二人で手を組みたい』という風に認識した。いいよ、そうしたければそうしても。ミスタ・チャイカの所属を僕の配下に移せばいいだけだし、安いものだ」

 ただし、と彼は言う。「次年の売上、倍額にしてくれたらね。君たちならできるでしょ」


 先ほどイリヤが具体的な金額を口にしたものだから、この場にいる参加者の誰もが彼らに突きつけられた要求の異様さに驚くしかなかった。

 六百億ルーブルの売上を一年のうちに二人きりで叩き出せと言われるだなんて、他の技術者からしたら自殺行為としか思えない。


 周りがどよめく中、イリヤと浩は一度だけ目を合わせ、それからはっきりとした口調で返す。


「もちろん」

「そう。期待しているよ、ふたりの『かみさま』」


 そう言い残し、セシルは幹部の男を引きずりながら会場を後にした。


 しばらくそのまま硬直していた二人だったが、彼らが完全に姿を消したところでようやく息をつく。

 浩が真っ赤に染まったシャツを見てげんなりとした表情を浮かべたところで、イリヤが慌てた様子で浩の頬をハンカチで拭いた。


「君ともあろう人がなんであれくらい避けられないの!」

「なんでって言われても」


 あれを避けられるのは超人的な動体視力がなければ無理だと思う。そんな言葉が喉元まで出そうになったけれど、やっぱりやめた。


 その代わりに、浩はイリヤへこのように伝えた。


「……怒ってくれてありがとう、イリユーシャ。君が引き鉄を引いてくれたから動けたんだ」

「俺、なにもしてないじゃないか」


 イリヤの言葉に、浩は首を横に振る。


「君はそれでいい。復讐に身を焦がす男シルヴィオは俺だけで十分」


 そして、彼ははっきりと言うのだ。「実は、あの男のことをいっぺん地に落としてやりたかったんだよね。かなり満足した」

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