第二章 Normophilia(3) 交換条件

「それで、今日はたぶんあれだろう? 例の海外出張を断りにでも来たのかな。違うかい」


 さすが長い付き合いだけある。いきなり図星を突かれた浩は思わずぐっと息を呑み、……観念した様子でこのように返した。


「断るつもりはありません。ですが、できれば時期を遅らせたく」


 可能ですか、と浩が尋ねると、相良はふんふんと頷きながら己の足元へ手を伸ばす。そういえば相良が部屋に入ってきたとき、なぜか彼の手には不自然なアタッシュケースがあったような気がする。

 これはおそらく交換条件を提示されるパターンだ。浩はそう直感した。


「できなくはないよ」

 でもね、と相良は言った。「交換条件だ。君だって、ただでお願いを聞いてもらうつもりはないでしょう?」


 そして彼は浩の目の前にアタッシュケースを置く。予想通りの展開に、浩は無表情のままじっと相良へと目を向けた。

 相良は実に穏やかな様子で一言。


「これの鑑定を依頼したい。できれば出所が分かるといい」

「開けても?」


 いいよ、と相良が言うので、浩はスーツのポケットからいつもの手袋を取り出した。それを両手にはめると、アタッシュケースの留め金を外し、ゆっくりと開封する。


 息を呑むほど美しい大粒のエメラルドが三つ、夜色のベルベッドに包まれて収まっていた。澄んだグリーンは新緑を連想させ、見る目を楽しませてくれる。ここまで精度の高いエメラルドが市場に現れることはなかなかないだろう。


 気泡もなく、インクルージョンもない。傷ひとつないつるりとした宝石の瞬き。

 それを見て、浩はなるほどと思った。


「合成エメラルドか。久しぶりに見ました」

「時期は特定できるかい」

「一九三〇年代初頭、ドイツ製」

 相良の問いに、浩は躊躇いなくさらりと返した。「フラックス法が登場するよりも前のものと推測します。あとはさすがに、裸眼のままでは分からないかな。相良さんも既にご存知かと思いますが、俺、宝石の鑑定はあまり得意ではないのです」


 そこまで言うと「そうかい」と相良は頷く。


 おそらく――否、ほぼ間違いなくさきほど見たニュースに関連する案件だった。だとすると、浩が妙だと感じた理由の方向性はそれほど間違っていない。そして、そんなものが浩の目の前に置かれたというその時点でだとも思う。


 明らかな曰く付きの品に、浩は思わず嘆息を洩らした。


「最近こういうものが都内の質屋に流れてくるようなのだけれど、エメラルドばかりというのも妙な話だ。盗品の疑いがあるから調べてほしいって警察から問い合わせがあったんだ。君はどう思う?」


「確かに妙だとは思いますよ」

 浩は淡々と返す。「一九三〇年代の合成エメラルドは『数が少ない』。当時生産コストがあまりに高すぎて、とてもじゃないが量産などできなかったはず。こんなに短期間に、しかもごく限られた地域に流れてくるだなんて到底ありえない」


 ひとつ可能性があるとするならば、と浩は呟き、それから口を閉ざした。

 そのまま彼はじっと押し黙り、何かを考えている様子でいる。浩くん? と相良が声をかけるまで、浩のまなざしは三つのエメラルドへ向けられていた。


「……、いや、やっぱり気のせいかも。ごめんなさい」


 もう少し細かく見る必要があるなら時間が欲しい、と浩が伝えると、相良は頷き、アタッシュケースごと宝石を引き渡す。

 それから例の出張の予定を見直すべく、浩は自身のスケジュール表を開いた。


「イリヤの仕事が来月末で区切りがつくから、できれば四月の頭くらいから話を進められるとありがたいです」

「そうなると君の予定が来月丸々空く訳だね。さっきのエメラルドの件、何日かかる?」


 三日は欲しい旨を浩が伝えると、その通りに相良がタイムラインを引いた。それから相良はいくつか単独で受けられる案件を浩へ提示し、浩は報酬の高いものを二つ選ぶ。


「残りの一週間は……ああ、そうだ。浩くん、私の営業に付き合ってくれないか。この日一日大阪に行くんだけど、どうにも一人では話をするのが難しそうで」

「ええと、」


 浩はスケジュールを確認し、その日には特になにも予定がないことを確認すると「いいですよ」とコメントを返した。


「一日だけなら不在にしても大丈夫。あれは放っておいても十分生きていける」

「『神様』は子供なのかな」

「似たようなものです」


 躊躇いなく返した浩の反応が面白かったのか、相良は思わず苦笑してしまった。「ごめんね」と前置きをしつつ、彼は浩に対しこんなことを尋ねてきた。


「どうだい、彼との生活は。うまくやれているかい」

「まあ、それなりに」

 浩は短く答え、小首を傾げて見せる。「それが何か?」


 それならいいのだと相良は首を横に振り、穏やかな表情を浩へと向けた。


「前にも言ったかもしれないけれど、彼と過ごすようになってからの君は少し明るくなったような気がするよ。君にとっていい出会いだったんだね」


 相良の言葉を耳にした刹那、浩の思考が停止した。頭の中がものの見事に真っ白になり、なんと答えるべきか、すぐには決められずにいる。


 そして。


「……、そう、だと、いいですね」

 ややあって、浩は泣き笑いにも似た表情を浮かべた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る